西暦1220年(承久二年)夏 飛べ兎丸 壱
兎丸は流されて行く。大きな音を立てる激流に飲み込まれた兎丸は、クルクルと木っ端のように為す術を知らない。泳げないのだ。兄上晴隆は、泳法の達人で波頭にも乗ると弥助が云っていた。
「助けて、兄上」兎丸は叫んだ。足元の宋子が片眼を開けた。
裏の竹林が、ブンブンと互いをぶつけ合い怒りに震える。
中段の屋敷に、水が入らないよう工夫されているが、この豪雨では危ないかもしれない。
蓑を被った弥助が、裏庭に出て行った。
佐紀は、前庭に面した縁に出た。庭脇の坂道を雨水が川となって降りて行く。恐ろしい速さだ。
「佐紀、大丈夫か」
「助けて」と叫んだ兎丸も、さすがに目覚め縁に出て来た。後ろには主を守る宋子、賢い猫だ。
稲村ケ崎が、ゴウゴウと泣いている。
弥助が、ずぶ濡れで前庭に回って来た。懐から小さな塊を取り出すと兎丸に渡した。
「佐紀どの、万一の時は、裏山に逃げますゆえ、お支度だけお願い致します」
「分かりました。弥助も気を付けて」
弥助は、泣き叫ぶ裏庭に戻って行く。
「若、弥助からの預かり物は何でございます」
やっぱり隠せないと悟った兎丸は、懐からネズミの忠吉を取り出した。
「まあ、それは‥‥‥」
後が続かない。
「みやぁ、みゅう、にゃぁ‥‥‥」と宋子が佐紀に歩み寄る。
「宋子どのは、何と?」
忠吉を持ち上げながら兎丸が答える。
「忠吉は、ただのネズミではない。自分と同じおれの友達だと」
「まあ、若は、このネズミとも話が出来るのですか?」
ガクガクと兎丸が頷く。青虫は襟の中に残って見えない。
「お、おまえの名前は?」
佐紀の問いに、忠吉が「ちゅう」と鳴いた。
大雨のお蔭で、問題が一つ解決した。
翌日は、晴れ上がった。雲一つないが、川下や沿岸はきっと酷いことになっているだろう。
丸太屋を離れて半年余り、初めて澪や店のことが心配になった。
「佐紀、おれは材木座に行ってくるよ。丸太屋が心配だ」
「はい、それがお世話になった家への当然のお気持ちでございましょう。しかしながら、どうか明日になさって下さいませ。後ほど弥助が山を下り、辺りの様子を見に行きます。丸太屋さんもきっとお忙しいでしょうし、一日我慢して下さいませ」
「分かった」
宋子が、いい子だねと云う目をして頷いた。
兎丸は忠吉を懐に、丸太屋の裏口に声をかけた。後ろには、健気に付いてきた唐猫の宋子。
「おーぉ、兎丸」
顔を出した老爺が懐かし気な声を上げる。
「みなさまは、大事ありませんか? 雨の被害はありませんか?」
「あぁ、何やかやあったが、大したことはない」
「何をさぼっておるのだ。この忙しい時に」
梅の尖った声が二人の会話を引き裂く。
「へい、へい。忙しい、忙しい」
老爺末吉は、顔を背けて姿を消した。
「梅さん、澪ちゃんは、元気ですか?」
「何しに来た、この忙しい時に」
「酷い雨が降ったから、心配で‥‥‥」
「おまえさんに心配してもらわなく結構、さ、帰った帰った」
「みゃあ」と宋子が鳴いて、兎丸の裾を引っ張る。
「みなさんが元気なら、それでいいのです。さようなら」
「あっちに可愛い姫がいるよ」
宋子についていく。数間先の小高い木立の中の小さな家の縁側に人の気配がした。
姿は見えないが、澪ちゃんに間違いないと兎丸は思った。
「澪ちゃーん、いますかぁー」
「あーぁ、はーい」
澪の元気な声が上がり、縁側に近づいた兎丸目がけて小さな花柄が飛んで来る。
思わず、澪を抱き留めた兎丸の懐から忠吉が飛び出し、宋子の前足の間に逃げ込んだ。
「まぁ、兎丸。元気にしていましたか」
澪の母加奈の優しい声が兎丸を包み込んだ。
「はい、おれは元気です。一昨日の雨で、丸太屋がどんな具合か見に来ました」
「‥‥‥ ありがとう。ほんにそなたは、優しい児じゃ」
嬉し気な加奈の目に、縁側を見上げる二匹。
「おや、そこにいるのは、猫とネズミ。なんと仲良しなのか‥‥‥」
澪が兎丸から滑り降り、縁先を覗き込む。
「あー、これらは、おれの式神です。そのぅ、普通の猫とネズミではないのです」
「まぁ、そなたはやはり陰陽師どの。こんな立派な式神さまを使うのか」
「ええ、はぁ、まあ、その式神ですから、おれと話が出来ます」
「おいで、おいで、ここに上がって」
澪が小さな手で、縁側を叩く。
澪を見つめて、「足が汚れております」と宋子が苦笑い。
「水、水、桶、かかさま、猫が足が汚れているとゆうた」
「ほんに?」
兎丸は、困った顔で頷いた。
風雨の被害を受けた丸太屋から、一時避難した家の縁側で、三人と二匹は菓子など食べて楽しい一時を過ごした。
帰りの旅路は、遠かった。宋子は、疲れしまい兎丸の背中に張り付いている。忠吉は、懐の中で土産の干菓子をポリポリだ。宋子が、背中をズズーッと滑る。
「おーっ、宋子何処へ行く」
兎丸は、笑いながら背中に手を回し、滑り落ちる宋子を止めた。胸の忠吉が、肩へと飛ぶ。宋子を止めた手を回し、宋子を懐へ納める。
重い。
ぐったりした猫は、兎丸の水干を引き下げ、歩きにくいことこの上ない。それにしても、すかさず自分の居場所を譲ったネズミを「偉い」と褒めてやる。
兎丸の歩みは、いよいよ遅くなる。何故だか澪と離れがたかった。丸太屋でどんな時も暖かく兎丸に接してくれた美しい親子に、小さな影が差しているような、そんな心配の種が大きくなって芽吹く。
「ねぇ、ねぇ、兎丸、式神って何だ?」
忠吉が、口の周りの菓子クズを舐めながら呑気に問う。
「うーん、式神とは‥‥‥ 陰陽師が使う家来だよ」
「ケライ、けらい、ふーん、家来ね」
「分かったのか、忠吉」
宋子が、懐の中から目だけを覗かせ、偉そうに云う。
「兎丸は、ご主人さま。おまえとわたしは、ご主人さまに仕える者なのだ。我らは式神ではない。しかしながら、並の猫とネズミでもない。それを凡人に理解させるのは難しいことだ。だから兎丸は、簡単に理解させるため、式神と云ったのだ」
忠吉は、分かったのか、分からないのか、ちょっと首を傾げて兎丸を盗み見る。
その兎丸は、宋子の言葉に感心している。
なぜ、自分が二匹を式神と告げたか、自分でも理解していなかった。それを宋子が確り教えてくれた。
「宋子は、どうしてそんなにお利口さんなんだ」
「はい、わたしは宋の生まれでございます。憚りながら、日の本の猫など及びもつかぬ知識を持ち合わせてございます」
「ふん、猫だけじゃなく、人間のおれよりお利口だよ」
「それは、まあ、年の差でございます。兎丸さまは、これからのお人」
「おいらもそう思うよ」
黙っていた忠吉が、したり顔で宣うのを、宋子がにやりと笑った。
三匹は、疲れ果てて屋敷に倒れ込んだ。主従三匹は一塊になって眠っている。
「まあ、何と愛らしい」佐紀が満足気に涙ぐむ。
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