佐渡新話 弐

 小役人は、仕事があると先に帰った。立ち上がる前に、(わしを忘れぬな)と万里に微笑みかけた。

 万里は、(分かっています)と頷いた。強欲な小役人を送り出した部屋に、しばしの沈黙。

「こちらで、砂金は手に入りますかな」

「はい、ご用立ていたしましょう」

「船にはまだまだ良い品があります。まずは見ていただきたいが、他にお願いがあります」

「はい、何でございましょう」

「白い兎が一匹おります。ぜひ、引き取って頂きたい」

「‥‥‥」

「代金はいりませぬ。いや、その、船に迷い込んだ子供でございますが、何時までも乗せておく訳にもいかず‥‥‥、なかなか可愛い男児でございますぞ」

「丸太屋に出入りしていた、その兎丸のことで?」

「やはりご存知でしたか、是非にもお引き取り願いたい」

「‥‥‥ わたしは、丸太屋嘉平どのには、不義理がございまして‥‥‥」

「なにも、鎌倉に返してくれと申しているのではありません。ここは遠流の地と聞きました。引き取った後は、如何ようにも、お任せいたします。少しですが、養育の費用を付けましょう」

 万里と問答しているのは、丸太屋に勤めていた新助だった。丸太屋の娘澪が人さらいに会った時、要求された身代金を持って馬と共に消えた因縁の男だ。


 船に戻った陳万里は、「兎丸を連れて来い」と命じた。

 小さくざわついている船内が、更にざわつき困惑が増した。

「どうしたのだ? 何があった」

「張が買物に出たまま、戻りません」

「兎丸は‥‥‥」

「さあ?」

「居ないのか? 張と一緒か?」

「港の入り口で、張と会った時は、張は一人でした」

「探せ、探し出せ。二人ともひっ捕らえて来い。直ぐにだ、急げ」

 万里は、怒鳴り散らした。

(居ないなら好都合。おれのせいではないのだから、放っておけば良いのだ)

 機嫌の悪い大将の傍に誰も寄って来ない。止んでいた雪がまた振り出した。夕闇が寒々と迫っている。


 うろうろしていた張を連れて、男達が戻って来た。

「兎丸はどうした」

「いなくなっちまって」

 張は、連れ出したことを咎められのを恐れているのではない。路地を曲がったまま居なくなってしまった兎丸が心配なのだ。あんな薄着で雪の夜を戸外で過ごせるはずがないのだ。見ず知らずの町で、頼る人もなく凍える兎が目に浮かび、涙が浮かぶ。

 張の顔をじっと見ていた万里は、何も云わず船を降りて夕闇に消えた。

 残された船は、塩垂れて黙り込んだ。


 薄暗い路地を曲がった兎丸は、路地の先が明るく輝いているのを頼りに、前に進んだ。

 雪帽子をかぶった小山が優しく横たわっている。静まった街の裏通りに、夕餉の香りが漂い、人の気配を報せている。兎丸は、久しぶりの空腹感にお腹の辺りに手を置き、張さんの元へ帰れなければと思った。

「まあ、まあ、銀丸しろがねまる、そんな薄着で何をしているのです」

 大きな家の裏戸から出て来た美しい人が、母御のように声を掛けて来た。

 間違えたのだなと、思わす笑顔を向ければ、その人は羽織っていた暖かそうな上着を滑らせ、ふわりと兎丸の肩にかけた。

「こんにちは、小母さま」

「まあ、冗談を云って、母を困らせるものではありません。ささぁ、家に入りましょう」

 温かい手に押されて、あがらうことの出来ない兎丸だ。

 大きな土間が、温かい湯気をあげて迎え入れてくれた。

「まあ、奥さま、そのお子は?」

「何も云っているのです。銀丸ではありませんか。早く膳の用意をして下さい。お腹が空いているのですよ。この子は」

「すみません」兎丸は、小さな声で挨拶した。

 台所女は、大きく頷くと目をパチパチとさせて微笑み「まずは、お白湯など召しあがり下さい。急いで膳を整えますので」と囁いた。


「旦那さま、旦那さま」足音より早く抑えたような呼び声が近づいてくる。

 新右衛門は、見入っていた帳面を閉じ、顔を上げた。

「お忙しいところ、申し訳ございません。奥さまが、見知らぬ児を連れ帰りまして‥‥‥ あの、その、銀丸と呼んでおります」

「‥‥‥」

「その、銀丸さまは、亡くなられたお坊ちゃまで」

 新右衛門は、小さな予感を覚えるなか頷いた。

 新右衛門は、子を亡くして、小さく狂った女の婿に入った男だ。何処から迷い込んだのか、先ごろ、亡くなった大旦那しか知らない。とやかく云う親戚や知り合いを差し置いて、商売を切り回していられるのは、妻女の志乃がいるからだ。商売のことになると志乃の頭は正常以上だ。二度目の夫が困っていれば、的確な助言を与える。

 台所へ急いだ新右衛門の目に、予感通り、兎丸が映った。兎丸も慌てた様子で現れた男に目を向ける。

 男は、台所女と同じように、頷きながら「お腹が空いただろう」と声を掛けた。


 お腹が一杯ではち切れそうな兎丸は、新右衛門と男同士として向き合っている。

「わたしを覚えているか」

 兎丸は大きく頷づく。

「少しの間、この家で暮らしてくれぬか。雪が解けたら、鎌倉に戻れるよう計らう」

「分かりました。あの方をかかさまと呼ぶのですか」

「すまぬな、そうしてくれれば有難い。息子を亡くし少し狂ったが、日常生活は真面まともだ」

「おれには、母者がいません。あの方は好きです」

 ちょっと照れ笑いの兎丸だ。

 柱の陰から男二人を伺っていた、あの方が声をかけた。

「お話は、お済ですか」

「ああ、もう少し本を読み、漢語の習得をするよう申し渡した」

 あの方である志乃は、嬉々と輝き胸の前で両手を小さく叩いた。

 佐渡での兎丸の生活が始まった。

 初めて背後から抱き締められた時は、思わず震えてしまったが、志乃さまの悪戯だと分かってからは、その香りとその気配をいち早く確認し、笑顔で待ち受けた。

 佐渡の片隅で新右衛門と志乃に見守られ、貞応三年(1224)の正月を迎えた兎丸は、十一歳。

 港に行ってみたが、すでに宋船の姿はなく、海にも雪が降りしきっていた。

 懐かしいと云うのとは違う。自分のせいで張さんが叱られていないか心配なのだ。くるくる変わる境遇を易々と受け入れ、直ぐに慣れてしまう兎丸だ。船の生活でも鎌倉へ帰りたいとは思わなかった。大分大人になった兎丸は、自分は人や物事に対する愛着心が欠けているのかと思案するようになった。

 でも、母さまとなった志乃は大好きだ。

 白く煙る海を見守る兎丸の肩にそっと手が置かれ、「春になったら、鎌倉へ行こう」と囁かれた。

 眉間に皺を刻んだ新右衛門だ。この男をととさまと思ったことはない。男もそれを望んでいない様だ。

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