兎丸の弐歩
材木屋商売の嘉平は、その後の鎌倉立て直しに奔走する。奥を気にしつつも忙しさに明け暮れた。
誰も幼い新参者を気にかけなかった。一人、赤子を卒業しつつあった澪が命の恩人と思ってか、まとわり付き、
幼童は、
「お武家のお子か」と問えば首を傾げ、「お名前は」の問いには「うさぎ」と耳を傾げる。命がけで赤子を抱きしめた左手に火傷を負い、整った顔の額にも擦り傷が痛々しい。裸足の脛は無残に血が流れていたが、早くも回復し幼い強みをみせていた。
一月も経った頃、乳母の梅が戻って来た。涙ながらに詫びを云い、愚痴を振りまく。すかさず、留守の間の勢力変遷をかぎ分け、奥様の里のご隠居さま高子の一の子分に収まった。
火災で負った傷を労りつつも、朝から食事の支度に余念がない梅が裏口から入って来た幼童に目を止めた。昨日も一昨日も、お嬢さま澪と遊んでいた子だ。
刻んでいた青菜を振り撒いて、梅は目を見張る。
(あれは、あれは? われを燃え上がる街に置き去りにした張本人。奥さまにぶつかって歩みを遅らせた張本人。なぜ、ここにいる。なぜじゃ)
早速、新しい主と見極めた高子に注進する。
「なんじゃと? あの子は澪を助けた忠義者と聞いたが」
「いえ、いえ、あの子は奥さまにぶつかり押し倒した痴れ者でございます。最後は澪さまを抱えて家に飛び込んだかもしれませが、何処の馬の骨かしれない怪しい者です」
梅の意地悪は止まらない。怪我を負った不満、置き去りにされた不満。今の不思議な立ち位置への不満。全てを幼童にぶつけた。
「旦那さまに申し上げましょう」
「いや、しばらく様子を見ましょう。そのつもりで見極めましょう。よいな」
梅は不満顔をそっと俯き隠した。
高子は、裏庭に一人いる幼童の背に目を止めている。幼童は、低い庭木を覗き込み、何やら探している素振りだ。やがて、手を伸ばし何やら掴むと口に運んだ。
高子の位置からは、何を口に入れたか見えなかった。しかし、怪しい仕草には違いない。
誰もいなくなった庭に出てみた。庭木を覗いてみる。枯れていく木立に美味しそうな実などはない。
吹き始めた木枯らしに、おぞましい緑のイモ虫が身を縮ませている。
(ふーん、腹が減っていたのか)
戦場さながらの母屋に、増え続けた避難民も身内がいないかと覗きに来た迎えに少しずつだが減ってきた。
嘉平の幼馴染の
「おう、久しいな」
「嘉平、被災人を助けてますます名を売っているな」
身分は違うが、二人は幼馴染。長らく会っていなくても昔と同じ気軽な口をきく。
「ははぁ、奥のことは女どもに任せているのよ。誰か探しに来たのか」
「そうそう、小さな子供を探しに来たのだが、病人部屋にはいなかった」
「うん? ちょっとこっちへ来てくれ」
嘉平は、友人を娘の澪が遊ぶ裏庭に誘った。
「あそこに居る子は、どうだ?」
「うん? あれは誰だ」
「誰かは知らぬ。澪を火災から助けだし、ここへ運んでくれた幼童だ」
「傍で顔を見たい」と云いながら孝悦は歩み出している。
「顔を見れば分かるのか。お前さんは会ったことが‥‥‥」
「親父さんと兄者を知っている」
「そうか」
「あややゃ、間違いない。俺の探し人だ。親父さんにそっくりだよ」
「何処の子供だ?」
「うん、いやちょっと待ってくれ。直ぐに報せ、結論が出たら戻る」
「結論とはなんだ。間違いないのであろう」
「まま、ちょっともう少し預かってくれ。直ぐに戻るから」
「もちろん、俺は構わん。澪の良い遊び相手だ」
孝悦は、そそくさと帰って行く。その後ろ姿は、新たな秘密を負っていると嘉平は思った。
一月も経った夕刻、孝悦が店に現れた。
「おい、飲みに行くぞ」
相変わらずだ。どうせ、支払うのは嘉平だ。
「ああ、少し待ってくれ。直ぐに仕事の始末をつける」
「へいへい、忙しい嘉平どのとご一緒するのですから、お待ちしますよ」
店に座り込んだ孝悦に
「そこは邪魔だ。ちょっと奥で白湯でも飲んでいてくれ」
「はいはい、旦那さま。仰せの通りに」
いそいそと云った風情で、奥へ消えた。
「あら、孝悦さま。ご機嫌麗しくございますか」
すかさず、梅が湯気の立った椀を差し出す。
「お梅、どちらさまでございますか」
高子が、目ざとく梅に問う。
「はい、高子さま。こちらは旦那さまの幼馴染の孝悦さま。えーっ、お偉い家柄のぉ‥‥‥」
「これは、これは、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。わしは、幕府の御用も務める地相人金淨法師の倅で、孝悦と申します。以後、お見知りおきをお願い致します。して、貴女さまは‥‥‥」
「こちらこそ、ご挨拶が遅れました。この家の嫁加奈の母にて高子と申します。加奈が臥せっておりますので、年寄が出張っております。お許し下されませ」
「それは、それは、ご苦労さまでございます。お武家のご妻女が、このように被災人の世話とは恐れ入ります。嘉平の強いお味方でございますな」
二人の持ち上げ挨拶は、更に続く。
梅は、あきれ顔を隠して裏庭に出た。
澪がキャァキャァと声が上げ遊んでいる。あの怪しげな幼童と一緒だ。
兎丸は、何かを右手に掲げ持ち、それを澪が取ろうと背伸びして騒いでいるのだ。
幼童は、己を「うさぎ」と名乗った。きっと身近の者が、可愛い幼童を戯れに兎のようだと愛称で呼んだのであろう。
「まあ、まあ、楽しそうだこと。何の騒ぎでございます。これこれ、何時までも
二人は振り向き、兎丸の右手が梅の目の前に差し出された。
「ギヤァー」
梅は、大人げない声を上げ、尻もちをつく。
「何だ、何だ。何が
孝悦が、大げさな物言いで出て来た。兎丸は、困った顔で右手を後ろに隠した。
「こら、どんな悪戯をしたのか、わしに見せてもらおうか」
「悪戯をした訳ではありません。お澪ちゃんには、まだ早いかなと思って‥‥‥」
孝悦は、うんうんと首を振りながら右手を出す。その手に幼童の右手が重なった。
「ヒェエー」
美しい緑色であった。孝悦の手のひらで、首を傾げ愛想よく動いた。
「おい、おい、みんな揃って何を騒いでいるのだ」
仕事を終わらせた嘉平が裏庭に出て来た。
孝悦は、右手を何度も振って何かから逃げようとしている。
「とんでもない悪ガキだ」
取り乱した姿を立て直し、ちょいと派手な襟元を整えた孝悦が叫んだ。
澪が、何かを地面から拾い上げ「とと」と嘉平に笑顔を向ける。小さな指先に鮮やかな緑の幼虫がおとなしくしている。
嘉平は目を剥いて驚いてみせるが、目は笑っている。右手を差し出し幼虫を受け取った。
「お澪ちゃんには、まだ早いかと思ったのですが、『きれいー』って云うので・・・」
「ほう」
嘉平はあくまで鷹揚だ。
「今はこんな姿だけれど、大人になったら綺麗な蝶々になるんだよって話していたら、梅が驚いて、このお方も驚いて」
悪戯小僧が上目使いに笑っている。
「そりゃあ大した教えだ。澪にはまだ難しいかもしれないが、何でも知っていた方が良いだろう」
「でも、旦那さま、澪さまは女子でございますし、まだ幼くて‥‥‥」
梅が不満化に口を尖らす。
「分かった。分かった。兎もまだ早いと云っているではないか」
「夕餉でございますよー」
祭りには及ばないが童の小気味よさを内包した騒ぎの裏庭に、仲裁の報せの声が届いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます