西暦1219年(承久元年)秋 兎丸の壱歩

 黄色がぽつり、赤がほっほっと鎌倉の山を彩る先駆けを務め出した。裏庭の小さな紅葉もいち早く頬を染めた。

 もう木枯らしの声を聞いてもおかしくない季節なのに、昼頃から海風が強く小春のような日和となった。

 鎌倉中の繁華な街を海岸まで南下して家路を急ぐ一行がいた。幾らも進まぬうちに、浜の方から多くの人が駆けてくる。なにやら蒸して、息苦しい。

「火事だ、かじだーぁ」

 先を見やれば、薄っすら煙が立ち上り、なにやらきな臭い。道を上る人々が増えて、赤子を交えた一行を渦の中に取り込む。すでに息が苦しく、目がしょぼしょぼと開けていられない。

 ボーッと音がして大路前方の西側の商家の軒先が燃え上がった。

「こりゃ困った。ひい様、戻りましょう。もう進めません」

 下男の声も届かないほど群衆に負けた一行へ小さな丸いものがぶつかった。思わず、倒れた加奈の上に乗りあげたのは、汗で顔を赤らめた幼童われべであった。

「これ、無礼はならぬぞ」

 勝気に叱る乳母を制し、加奈は幼童を抱き寄せ立ち上がった。もうとやかく云っている場合ではない。ここから逃れる道を探さねばならない。燃え上がった家は辺りを巻き込み、火の粉をまき散らす。幼童が加奈の手を取り、東の小道に引っ張る。

「待ちなされ。皆々一緒でなければなりません」

 下男が乳母の手から赤子を抱きとり、東の小道に駆け出す。加奈は幼童と手をつなぎ、その後を追った。

 九月二十二日申の刻、由比ヶ浜に建つ御家人の屋敷の北側から出火した火災は、折からの南風に押し上げられ、北へ北へと赤い魔の手を伸ばした。鎌倉中を焼き落としながら、源頼朝が建立した永福寺ようふくじの惣門付近まで及んだ。

 文治五年(1189)源頼朝が奥州を攻め、弟義経と藤原家を滅ぼした。永福寺は、その怨霊を鎮め冥福を祈って建立された。その姿は、奥州中尊寺の二階大堂である大長寿院を模したものだ。

 優雅な伽藍は、勢いに乗る源家の象徴であった。頼朝政子はもちろん、その嫡男頼家も実朝も幼い日々を過ごした。長じてからも春の花見に訪れたと吾妻鏡にある。

 今ではその姿はなく、跡地が発掘され、3DCGとして復元されているのみだ。


 紅蓮の炎は南は浜の倉庫の前まで、東は名越山の山裾をなめ、西は若宮大路を脅かした。頼朝が鎌倉に入って以来の大火災であった。

 材木座の浜に近い家々は、わずかに残った。


「船を出せ。倉庫の食い物を積むのだ」

 材木問屋、丸太屋嘉平かへいの声が響く。

「旦那様、材木は如何いたしましょう」

「捨ておけ。今は食い物の方が必要だ。全ての船を沖に出せ」

「奥さまとお嬢さまがまだ戻りませぬ。お里の屋敷も心配でなりません」

「うーん、心配しても始まらん。迎えに行きたいが大路は人で溢れておろう。それぞれの命運に任せるしかあるまい」

 威勢よく云ってはみたが、嘉平の心の臓はちくちくと張り裂けそうだ。断れないまま嫁いで来た妻は、少し年上の武家の生まれだった。金と引替えに来た妻だが、今では嘉平の宝の妻子だ。

 商売店も雇い人も心配だ。己の事だけを考えれば良い時期はとっくに過ぎている。

同じ年に生まれで、勝手に運命の人と思い、畏れ多くも競争心を燃やした将軍実朝も今は儚く消えてしまった。


 焼き尽くされた鎌倉中で、なんとか残った嘉平の店に妻子が辿り着いたのは、翌朝のことであった。何人も探しに出したが見つからず、焼け落ちた加奈の里屋敷からは義母を助け出していた。

 奥で臥せっていた老女は、娘と孫の生存を知らされ、声を放って泣きぬれた。

 母屋の裏口に駆け込んだのは、澪を必死に抱いた幼童だった。「奥さまが、奥さまが、動けません」と叫ぶ声に、嘉平は転がるように走り、その腕に愛妻を抱き上げた。

 乳母は途中ではぐれ、里の下男は三人を庇って炎の中に消えた。


 ともかくも類焼を免れた母屋と離れには、運びこまれた怪我人で溢れた。

寝込んでいた加奈の母も腕まくりする勢いで、娘を看護し台所までも仕切った。

 加奈は、寝床の中で信じられない場面を思い返している。火柱が揺らぎ澪を抱いた下男が巻き込まれた時、すかさず幼童が火の中に飛び込み、澪を抱いて戻って来た。そのまま道なりに駆け出す。加奈もその後を追うしか為す術はなかった。小さな子にあんな仕業が出来るものか。


 兎丸は、家出した。腹が空いている。 火事なのか辺りは、煙に包まれ人波が膨れ上がっていく。 ドンとぶつかった女人は美しく、(母上さまかなぁ)と思った。 幼童・兎丸の波乱の旅の始まりだ。

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