南方好候

 船が動き出した。

 商売は、上手くいったようだ。薬がことのほか喜ばれ完売した。

 宮城県氣仙沼辺りでは、その昔、薬売りを「トンジンサマ」と呼んだという。薬を売る人は唐人さんなのだ。

 陳万里だけではない。異国から多くの商人が来て商売したのだ。

 船は、何処へ向かうのか。兎丸はもちろん知らない。


 北方民族の金朝は北宋を滅ぼし、宋国を南へ南へと追い詰める。北を支配され、中国全土の支配がままならない南宋は、臨時首都を臨安りんあんとした。西湖の中にある臨安は、運河を抜けて行かなければたどり着けない。一生懸命守っている首都は、大逆流で有名な銭塘江が満潮になると水門を開き、船を通すのだ。

 陳万里は、南宋暦の紹熙しょうき三年(1192)、行宮かりみやがある杭州の臨安府に生まれた。

 第三代皇帝光宋の御世であった。図らずも丸太屋嘉平と同じ生まれ年だ。多分同じくらいだなと思ったが、万里は嘉平の年などもちろん知らない。しかし、近頃殺された三代将軍源実朝と同年であることは知っていた。なぜか、実朝の夢を乗せるべく大船が建造されたことを知っていたからだ。船を造った陳和卿ちんわけいは、同姓ではあったが一族の者ではない。南宋から渡来した職人だ。焼損した東大寺大仏の再建に尽力した功績があるが、万里とは身分が違う。

 万里の曾祖父は、皇帝に連なる貴族で能吏として辣腕を振るった。だからこそ、政情定まらぬ南宋の御世で誰にともなく殺害された。その子孫は、今では海を漂う商人に成り下がっているが、血筋の良さを忘れるものではない。

 果たして生まれ故郷の南宋へ帰ることが得策なのか、万里は悩んでいる。日ノ本の朝廷と同じように、皇帝は退位してもその権力を手放さず何かともめ事の原因となり国は荒れている。

 丸太屋嘉平と上手に付き合い、時の権力が集中する鎌倉に住むという選択肢が増えたなと思っていた矢先、取引上のいざこざが起こり、兎丸拉致事件を起こしてしまったのだ。

 もちろん、嘉平は事件の全容を掴んでいないだろう。鎌倉の誰もが、万里が事件の首謀者だとは疑っていないはずだ。そこは上手くやった自信がある。だがそれは、今の万里の憂鬱の解消にはならない。

 船は列島に沿って北上して行く。兎丸の父上星を目指して進むのだ。


 海が荒れて、船は大きく揺れた。

 穏やかだった海は、顔色を変えて怒り出した。湧き出した霧の中に突っ込んだ船に向かって、前方から突風が襲い掛かる。海流は勝手気ままに渦巻き、行き先を失った笹舟のような船は前に後ろにキリキリ舞だ。まっ昼間なのに、太陽は隠れ、明かりを失った海は、苦し気に呻き、見悶える。何時の間にか吹雪となった海峡を青息吐息で越えて行く。右手にも左手にも陸があるのだが、誰もその存在を目にすることが出来ない。兎丸は、気付かないが、船は西に進路を変えたのだ。

 さすがの兎丸も船酔い見舞われ、船底で寅を抱きしめ目を瞑った。

 翌朝は嘘のように晴れ渡った青空の元、遠目には何もなかったように船は進むが、近づいてみれば、人間も船もボロボロだ。

 陽が没する頃、今日初めての食事が出来上がった。何時もの丸干しと粥だったが、皆黙々と食べている。

 空に星々が笑顔を見せる頃、兎丸は、気付いた。前方に見えていた北斗七星が見えないのだ。

 北斗七星は、兎の守り神だ。父上星なのだ。ぼーっと船首に立っていると張さんがそっと寄り添う。

「どうした? 兎丸」

 この位の漢語は分かる。

「あのさぁ、北斗七星が居ないんだ」

 張さんは、夜空をぐるりと見上げ、指差した。

「ええぇー」

 前ばかり見ていた兎丸が、張さんの指を噛みつく勢いで首を回せば、父上星は船を追って来る。

「どうして、どうして呼んでくれなかったの、父上」

 和語の分からない張さんには、理解できないが、和語が理解できても、不審な言動だ。

好候よーうそろー

 船は南に向かってゆっくりと進んでいる。津軽海峡の荒波を乗り越え、日本海を南下しているのだ。

 左手に陸地を据えて進む船の右手前方に小さな陸地が見えて来た。

 ゆったりと船の舳先が、左に向いた。

「取舵いっぱーい」

 湊に近づく宋船に、小舟が近づいて来て、両手を大きく振っている。

 港は、船でいっぱいだからこれ以上近づくことは出来ないと云うのだ。

 港は、わんわんと騒がしい。

「何があったのだ? 戦でも起こったのか?」

「そうではない。そうではないが、今はせわしなく、商売にならんぞ」

 大将が、右手に握った何かを小舟に放り込み、巧みな和語で問う。

「もう少し、詳しく教えてくれ」

「異国の船が流れ着いたのだ。今、調べを行っている」

「何日くらい掛かると思かな? 船の修理をしたいのだ。しばらく此処で停泊してれば何とかなるか?」

 小舟の役人らしき男は、投げ込まれた小包を開けていて、返事がない。

「よし、分かった。しばらく此処におれ。一刻もしたら、わしがまた来よう」

「水と野菜を頼む」

「よし、よし、任せておけ」

 小舟は港に向かい離れて行く。

 ずいぶん親切な男だが、小包の中味が気に入ったのだろう。

 ここは、越後国の寺泊。晴れていれば、海の向こうは佐渡島だ。

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