祝 融
良い匂いに、兎丸の鼻が蠢く、(あぁ、鰯の丸干しだぁ)。
「こらぁ、どら猫、泥棒猫」
炊きの小父さんは、張さんだ。
寅が走って来る。何時もの動きが嘘のような素早い逃げだ。
「張さん、おれにも鰯を頂戴」
兎丸の笑顔に、苦笑いで答えながら「ぶつぶつ」まだ云っている。
「あぁ、焦げてるよぉ」
張さんは、慌てて焼け焦げた鰯の元に戻るが、もう遅い。半分炭となった鰯が待っていた。
「でん、でん、でん、未来の乗り物えーえー、何だっけ」
鰯の丸干しを頭からかぶり付きながら、兎丸は鼻歌。
張さんと兎丸は、半分かそれ以下しか意思の疎通が出来ないが、一番の仲良しだ。帆柱の陰から寅が首を竦めて覗いている。
左手の陸地が大きくなった。山々の葉っぱが「おいで、おいで」と笑っている。
視線を落とせば、大小の船が尻を振り振り停泊している。
舳先に立つ兎丸の隣で、小柄な
紐の所々に赤い布が取り付けてある。手の紐をゆっくりと繰り出し行く。覗き込んだ兎丸に、水手が自慢げににんまりとする。
「何をしているの」
「何かなぁ」
船はゆっくり陸へと進む。水手がまたぼちゃりと紐を落とす。
久しぶりの寄港だ。水手らは嬉し気に立ち働く。
(どうせ、おれは降ろしてもらえないんだ)
兎丸は、今更、逃げようなんて思っていない。船には殺意も敵意も感じられない。だから兎丸は、のほほんと寅と遊び、鰯の丸干しを齧っている。
だが、このままで良いのか。今、進んでいる先は日本の港だが、このまま進むと宋かもしれない。
船は、砂金を求めて北上していた。
船倉には、漢物と呼ばれる香料・唐織物・薬品・書籍・陶磁器・文房具・絵画などが積まれている。鎌倉で取引した残り物だ。丸太屋に押し付けようと思った日ノ本の産物もある。丸太屋と騒動を起こしたので、滞在時間が短く、まだ良い物がある。丸太屋とのいざこざなど取るに足りないと思っているが、兎を一匹隠してしまった為に逃げるように船出した。
(まったく、忌々しい。たった一匹の兎など捌いて食ってしまおうか)
陳万里の頭脳は、船倉の荷物の計算に移って行く。
なかなか賑やかな湊町だが、果たして漢物は売れるのだろうか。万里にとって初めての北の国奥羽だった。この国には金が採れる山があり、民が川を浚えば砂金が採れと聞いた。万里の頭脳はちょっと震えた。
船は、港を目前に錨を下ろした。二艘の小舟を下ろし、陸を目指す。
兎丸は、張さんと一緒に見送った。
夕暮れが迫る頃、食料を手に入れた水手たちが帰って来た。
船主の陳は帰って来なかった。
その夜、美味しい夕食を振舞われた兎丸は、お腹いっぱいで船底で眠りこけていた。猫が兎に半分乗り上げて眠っている。
何か良い匂いがする。何か楽しそうに騒いでいる。子供は寝かせて、大人だけが楽しんでいるのか。
寅が重いと寝返りを打つと、寅が起き出し「ぎゃお」と鳴いた。
「火事だぁー」
誰かが何か叫んでいる。臭い。煙い。
兎丸は、がばっと起き上がった。猫が船上目指して走り出し、兎がその後を追った。
船尾の炊き場から煙が上がり、その下をぬって夜目にも赤い舌が伸び縮みする。
寅が逃げ帰って来る。兎丸は、火元をじっと見つめた。あの中に張さんがいる。何処だ?
風が生まれ、火の手が一段と高く上がった。
(見えた。あそこだ)
兎丸は、躊躇なく炎の下の隙間に滑り込んだ。張さんの足にぶつかる。
引いた。重い。
炎は、チリチリと容赦なく兎の白い毛を炙る。息が出来ない。目が開けられない。
兎の丸焼きが出来上がるかと思えたが、火神
空の彼方から誰かが、雨粒を恵んでくれ、船上近くからも消火の海水が浴びせられたのだ。海水は過たず兎に届き、息を吹き返えした兎丸は、張さんの両手を持って引いた。その兎丸を大きな手が何本も引いた。
赤い舌が悔し気に消えて行く。水浸しの船上に猫も兎も人間もへたり込んだ。
朝霧が船も港も覆いつくし、昨夜の火事跡を隠してくれるが、匂いはまだ消えない。
火傷を負った張さんと兎丸は、船底に寝かされていた。
ひりひりと痛む手の甲が持ち上げられ、何か塗り付けられた。
「うーん」痛みに思わず唸ってしまう。
「うさぎ、良く頑張った。褒めてつかわす」
ちょっと癖はあるが、立派な日本語だ。頭もそっと撫でてくれた。
張さんの火傷は酷いようだが、頻りに兎丸に話しかける。立派な漢語で分からない。
兎丸は起き上がり、天外から貰い受けた笑顔をお見舞いした。炎の中で、確かに夜空の先から届けられた慈雨を感じた。失ってしまいそうな気持を起こしてくれた。
(おれは、誰かに守られている。北斗七星か、父上か。うん、父上だ)
願いを込めて、父上と決めた。
(大丈夫、父上が守ってくれる限り、おれは死んだりしない)
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