第 三 章

旅行く兎

 兎丸は、船底の荷物の隙間に転がっている。

 悪い奴をやっつけて、丸太屋でお腹をいっぱいにし、「はぁ」と満足の吐息を吐いた後、裏の厠に行った。

 厠から出ると目の前が暗くなり記憶が途切れた。

 気がついた時は、縄で縛られた暗い場所だった。ぽちゃ、ぽちゃと水の音がして不思議な揺れを感じた。

 首の辺りに柔らかい物を感じた。

(あっ、宋子)

「ごろごろ、ぎゃお」

「あぁぁ、宋子じゃないのか、でも猫だよね。顔を見せて」

 宋子と間違えたことを叱られそうな太っちょの可愛げのない大猫だ。それでも、心配そうに兎丸を覗き込んでくる。

 顎の辺りをぺろりと舐めると、何処かへ走り去って行った。

「なんだよぅ、援けてくれないのかよ」

 腕を縛っている綱がゴツゴツと痛い。息をゆっくりと吐くと痛みが和らぐ。しばし息を止め、また静かに吐く。

 兎丸は縮み、縄から抜けそうだ。更に身体を縮めれば、すいと浮いた。

 縄を抜け、天井を抜け、夜空に浮く。この辺で止まれば良いかなと思えども、止まらない。捕らわれた船を見つめて星の仲間になる。砂星の河を渡り、上昇は続く。誰かが呼んでいる。ほうき星か、いや父上だ。

 えっ、ここは何処? あれはぁぁ、何? 大きな青い星か? どんどん離れて行く。ここは天の外、このまま行けば、鎌倉の丸太屋に帰れなくなると突然悟った。目を瞑り、意識を縄の内に戻すと縄のゴツゴツが戻ってきた。

 それから、暫くして数人の男がやって来て、兎丸の縄が解かれたのだった。

 兎丸は船の上にいる。

 青空の下、風をはらんだ帆が三本。快適な船旅だ。ご飯も貰ってお腹いっぱい、拘束も解かれ、海原を見つめていると楽しくなってきた。

 今では、船内を自由に歩き回っている。誰も咎めない。みんな少し離れて見つめている。船は左手に陸を見つつ進んで行く。何処か遠くへ行くのだなと思える。

「ねぇ、何処へ行くの?」

 誰彼なく聞いてみるが応えはない。困った顔に、薄笑いの顔、頷いている顔もある。

(あぁぁ、おれの言葉が分からないのだ)

 男たちは、何となく鎌倉の大人とは違う。良く聞けば、しゃべる言葉も違い、兎丸には理解できない。

 大きな船だった。働く人も沢山乗っている。一段高い屋根のある部分にいる人は、身形が良い。笑顔をくれる水手たちとは明らかに違う。この船の大将だと兎丸は思う。何処かで見たことがるような?


 陳万里は、後悔している。なぜに、兎丸を連れて来てしまったのか。とんだお荷物だ。

 鎌倉商人の丸太屋嘉平が気にくわなかった。下賤の者が、商人風情が偉そうにと思った。貴族の出てとは云え、今では陳も南宋商人だ。故郷から仕立てた船が嵐に揉まれ、破損が著しい。その修繕に、高級木材を鎌倉一の材木屋丸太屋に頼んだのだ。遠い山国から取り寄せるとのことで時間がかかった。

(遅いなぁ)と、思っている所に、出物があった。少し古いが宋船だ。気に入ったので、破損船を手放し、新しい船を手に入れた。だから、丁寧にも「材木はもういらぬ」と丸太屋を訪ねたのだ。

「約束が違う、違う」と連呼した嘉平の声が蘇る。

 前金は渡してある。材木屋なのだから、他に流用すれば済むことだ。この陳さまを相手に大声で叫ぶとは何事だ。

「もっと金が欲しいのか、くれてやろう」

「金の問題ではない。約定が違うのだ。もっと頭を低く願わぬか」

 陳万里は、裾を払って立ち上がった。その帰り道、目の前に背中を見せた可愛い兎を奪ったのだ。嘉平の愛玩動物を奪って、嘉平に仕返ししたいと、咄嗟に思い手が動いた。

 兎丸のことは知っていた。石蔵と呼ばれる船着場の傍で溺れた男児を助けたのだ。水を吐かせ、活を入れると、ぽっかり目を開けた。愛玩するに相応しいあどけなさだ。人を引き付ける性分も感じた。

 奪った獲物は、配下の者に先に運ばせた。

 万里は、丸太屋の奥に引き返し、「積荷を買わぬか」と持ち掛けた。儲けさせてやろうと思ったのだ。

 そこへ、嘉平の娘の怪我が知らされた。腕に覚えるある万里は、お節介と思いつつも、折れた骨を元の位置に戻してみた。あとは、娘の治癒力で治すのみだ。なんだか、やたらと関わってしまった。商売以外での日ノ本の商人との付き合いなど、もうたくさんだ。それなのに、白い厄介を背負い込んだままだ。


 船は北に向かって走っている。もう逃げ出せない処で、兎丸を放し飼いにすると船の気分が変わった。ぴょんぴょんと兎丸が歩き回ると船で働く男どもの目が躍り、陽気な風が起こるのだ。

 どら猫の寅までも兎にすり寄る。この船の先住猫は誰にも懐かない、可愛げのない赤毛に縞模様のどら猫だ。何が気に入ったのか兎丸の後をドタドタと歩く。

(あの兎は只者ではない)

 霊性と云うか仏性と云うか、誰でも引付けられるのだ。怖がる様子も見せず、兎は飛び回る。言葉も通じないのに水手たちが、何かと楽しそうに構う。

 厄介者を抱えてしまった陳は、眉間を曇らせるが、その口元が知らずに微笑んでいる。

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