第 二 章
西暦1222年(承久四年)陰陽事始め
春風がうっとりと吹いて来る。桜色に頬染めた山々が欠伸をした。
桜は、花時を過ぎ青葉がツンツン。遅れて散り行く花びらが命を惜しんで落下を拒む。
羽が生えたのか懸命に舞い上がる花びらを忠吉の虚ろな目が追う。何が悲しいのか分からない。お腹も一杯だし、優しいご主人さまもいる。
何を隠そう忠吉は、ネズミだ。それも鎌倉では有名な存在だ。鎌倉陰陽師の式神として小さな女子を悪漢から救い出した。賞賛の声も甘いご褒美も頂いた。
それなのに、このもの哀しさは何だろう。
「故郷が恋しいのだろう」
何時も、えばっている唐猫が優し気に云う。
「おれの故郷は、鎌倉だよ」
力なく云う忠吉に近づいた雌猫は、頭から齧った鰯の丸干しの尻尾を分けてくれる。
この猫とこのネズミは、まあ仲が良い。宋から来たこの猫も陰陽師の式神だからだ。
「忠吉が生まれたのは、鎌倉の稲村ケ崎だ。でも、今、わたし達が生きている稲村ケ崎ではない。きっと、千年ほど先の未来の生まれなのだ。おっちょこちょいのお前は、酔っ払って時を越える穴に落ちてしまい、今ここに居るのだよ」
忠吉は首を傾げ思い悩んでみるが、唐猫宋子の云うことはちっとも分からない。
海岸線を走る江ノ電がないことは気づいている。町中の風景も明らかに違う。同じなのは、桜の花びらが舞い散る様子だ。なぜだか、視界が曇り鼻の奥が湿っぽい。
朝廷との抗争に勝利を収めた鎌倉は、散り桜を惜しみながら昼寝の真っ只中だ。
承久の乱を首尾よく治めた執権北条義時も、しばしの安穏をむさぼる承久四年(1222年)の春であった。
この鎌倉に有名な陰陽師がいる。御年九歳である。人はその男児を兎丸と呼ぶ。三匹の式神を従えている。唐からの渡り猫と呑気なネズミと白いカラスであった。
幼くして母の家を出奔、縁あって材木座の豪商丸太屋に世話になった。今でも心強い後ろ盾だ。紆余曲折あり、今は稲村ケ崎の山中にある父の残した屋敷に起居する。
そして、正当な陰陽師を目指して、ただ今修行中だ。
毎月、五の付く日に鎌倉陰陽師である
老爺の名を安倍
出自がはっきりしない兎丸が初めて親職屋敷を訪ねた時、時景は隣の部屋で盗み見た。
(ほんに、あの童は安倍の生まれか? この異常なほどの霊性は? 霊異と呼ぶべきか? )
この世の者とも思えない。
だから、あの式神
まあ良いか、頼りの甥の親職が倅に似ていると、あんなに喜んでいるのだから、余計なことは云わないが、目を放してはなるまい。だから、童の養育を買って出た。親職は、歩行さえ覚束なくなった頼りない叔父の申し出に、少し躊躇したが、まあ小さい内は問題なかろうと兎丸の先生が決まった。
新ためて兎丸と向き合えば確かに安倍晴秀に似ている。安倍一族に時々現れる面高でひときわ色白のお公家顔。その度に、親族は
兎丸の瞳を見つめれば、黒を忘れた茶目が辺りの景色を吸い込んで、おや濃い緑かと思えるほどに不思議色だ。
時景は、大きく息を吐き出して尋ねる。
「読み書きは出来るか」
「‥‥‥」
「そうか、そうか。では、わしと共に一から始めような」
「はい、宜しくお願い‥‥‥ しまーす」
時景は、怪しい奴と思ったことなど忘れてしまい、遊び道具を与えられたが如く、兎丸に夢中だ。
あれも教えたい、これも習得させたいと笑みが止まらない。陰陽道の何たるかを会得するのが一番だが、礼儀作法も必要だ。黙っていれば美しい兎丸だが、言葉使いは幼童のままで粗野でさえある。
風になびいている髪を五色の紐で一つに纏める。屋敷の奥に眠っていた童水干を引っ張り出し着飾らせた。屋敷の女どもに一声かければ、嬉々として手出しをする。あまり任せると折角の玩具人形を取られたしまいそうだ。
月に三度だけとは云え、兎丸は窮屈でたまらない。着せ替えさせられた水干は、いままで着ていたものとは、到底同じものとは思えない。あちこちに付いているポンポンと弾む丸い房はいったい何だ。胸の前にも縦に二つ並んでいる。右手がついついその房に伸びてしまう。
「どうした兎丸、
時景は、いかにも楽しそう笑う。ボケ防止の玩具を見つけて舞い上がっているのだ。
兎丸は気にしたこともなかったが、菊綴は飾りではなく、縫い合わせの綻びを防ぐための結び目の残りを解きほぐし、菊花のように開いたものだ。何時も着ている水干は、何度も水をくぐって縮まり菊綴紐も見失っている。
一事が万事、この調子だ。兎丸の生活は少しずつではあるが、変わって行く。
まず、時景が教えたのは、朝日に向かって唱える呪文だ。
「
ながーい。
が、要するに生活を整え正し、四柱神の加護を頂き周囲との聖別をし、五陽霊神に願い奉ると云う、毎日のご挨拶である。
兎丸は、頑張った。
(出来るかなぁ)と思う時景の心配をよそに、三日後には見事にお願いを唱えて乳母の佐紀に聞かせた。佐紀は、笑み崩れ、涙を浮かべた。もちろん十日後の修行日には、時景に聞かせ、佐紀と同じ顔を引き出した。時景と佐紀は全く似ていないのに、同じ顔になるのは、なぜだろう。
唱え唱えて、耳から覚える。兎の耳は、ことのほか長いのだ。
しかし、これを筆に乗せて紙に写すとなると、兎丸の眉間は時景と同じように皺くちゃとなる。
兎丸は書が苦手であった。何度も練習する。傍で見守るのは式神筆頭、唐猫の宋子だ。
宋子は云う。
わたし達、式神は兎丸さまのお力になろうと日々努力しております。忠吉は何処へでも走り潜り込み、カー助は何処へなりと飛びまする。わたしは、何なりと考え、良き企てを立てましょう。しかしながら、三匹とも手紙を書くことが出来ませぬ。これだけは、兎丸さまの仕事でございます。
「にゃぁ、にゃぁ、違いまする。背筋を伸ばし、腕の力は抜き、心を込めて書きなされ」
猫は厳しく兎を見張った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます