鎌倉鴨騒動 弐
兎丸は、様子を見届け、親職屋敷に戻った。
子細を時景に伝える。
「ご苦労であった」
時景は、思案顔で小さく頷く。兎丸は、初めて祖父の屋敷に泊まった。明朝、留吉を見舞うつもりだ。
親職の帰宅を待って三人の陰陽師は、奥の間で向き合った。
夜を待たずに、嘔吐や下痢を起こす者が続出した。発熱する者もいる。女、子供、老人ばかりではない。大の男も転げ回って腹痛を訴える者が出た。
翌朝、丸太屋で働く男どもが、「鴨の死肉を食ってはならぬ」と大声で駆け回った。
兎丸は、留吉を見舞ったが、まだ腹痛は治らない。微熱もある。
兎丸は、そっと右手を留吉の腹に当て、撫で擦った。
「きっと治るからね」
やがて留吉は、すやすやと寝息を立て始めた。母親が兎丸に深々と頭を下げた。
そっと留吉の小屋を出ると、波吉が佇んでいた。
うん? 如何したんだと顔を向けると
「おらのババも腹が痛いと寝込んでいる」
波吉の家も留吉の小屋に劣らぬ掘っ立て小屋だ。そっと中を覗くと隅のぼろ布が少し動いた。祖母が寝ているのだと気づいて、白髪に近寄れば、消えゆく温気が伝わった。右手の五芒星は、ほとんど色を失っている。
今朝、時景が兎丸の右手のひらに五芒星を印してくれた。
五芒星は、云わずと知れた安倍晴明の判。世界的にも有名な魔除けの印だ。
「この手で痛む腹をそっと擦ってあげなさい。心を込めて丁寧にな。出来るか」
「はい、先生」
時景は、白い紙で人の形を切り抜いた『
「わしは、ここでこの人形をなでて、兎丸を助けよう。きっと信じて行えよ」
信じて願う、婆の腹痛が治りますように。嵩を無くした腹を撫でれば、婆が小さく呻き、骨ばかりの手が空に震える。留吉より重篤なのは、兎丸にも明らかだ。
「ばあちゃん、おれの友達の陰陽師が来てくれたぞ。留吉は治ったぞぉ」
兎丸は、深く息をした。泰山府君の名称は知っているが、兎に操れる呪ではない。
諳んじているのは、朝のご挨拶だけだ。それでも、この貧しい小屋の害気を祓える。婆の腹上の右の手のひらに気を込めて声高く唱えた。
「
「元柱固具‥‥‥ 安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る」
三度目の悪鬼逐いで、婆は痩せ手を必死に丸め合わせて、陰陽師に礼の気持ちを表わした。そして、逝った。
「ばあちゃん、ばちゃん、駄目だよ。死ぬなよ」
波吉が、婆の足元から飛んだ。兎丸に殴りかかったのだ。波吉の母の力では引き離せない。
兎の白い頬に、波の傷跡が刻まれ、薄っすら血の色に染まった。
いよいよ病鬼が鎌倉に浸入したと民草は首を縮めた。病鬼が去るのをそっと待つしか方法がないのだ。
病人は海岸線を西へ向かい、腰越に達したが、江ノ島では発病者が出なかった。
カー助の元に、江ノ島の山中で五羽のカラスの死骸が見つかったと報せがあった。
四月二十六日、由比ヶ浜で七座の
浜を見下ろす稲村ケ崎の崖にカラスが鳴き喚いている。
「うるさいな」安倍親職の呟きに、崖下の小さな人影が右手を挙げた。
崖にしがみ付いている樹木に黒い塊がたわわに取り付き梢をゆらすが、鳴き声が止んだ。
祭りを終えた親職がおもむろに崖を見上げた。そこにあったはずの黒い塊はない。
夕闇に静謐のみが横たわっていた。
病人は四人、五人と回復して行く。疫病は、静かに去ったようだ。死者は波吉の婆と飯島の幼い子の二人だった。
誰も褒めてくれぬが、時景は兎丸の成長が自慢でならない。
ぼんやりした時景の思惑を確り具現化して見せる。海岸を走り回るなど忘れてしまった夢だが、小さく呟けば兎丸が西へ東へ走り、この鎌倉に入り込もうとする疫病を祓う
どうやら書が苦手のようだが、その部分には触れない。兎丸が筆も持つと唐からやって来た猫の宋子が傍から離れず指導に当たると、稲村ケ崎の女房佐紀から伝え聞いている。
兎丸が操る式神は、主を敬い慕う猫と鼠と鴉なのだが、従うばかりの式神ではない。年下の主を導く姉と兄でもあるのだ。そんな式神は、聞いたことがない。
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