水練修行中
不穏な鴨の死骸事件が収束し、上々吉の上天気だ。
夏に向かって突っ走る鎌倉湾は陽気に輝き、海を見渡せば微かに円弧を描いて兎丸を招いている。
水練の練習もすることになった。由比ヶ浜で出会った男児らに教えてもらうのだ。
その中に元気になった留吉もいる。
場所は、丸太屋からも見える飯島の船着場付近だ。
材木座より少し深く、小さな舟の寄り場となっていたが、南風が吹いただけで使えなくなる柔な代物だ。
到底、船着場と呼べるものではないが、土地の者は、隣の爺さんを呼ぶような親しみを込めて、その置石を「石蔵さん」と呼んだ。
後の和賀江島だ。築港事業に経験の深いお坊様が、難破や座礁の危険から人々を守るため、ぜひともこの頼りない置石を立派な港に作り上げたいと申し出るのは、あと十年くらい先だ。時の執権北条泰時の支援を受けて人助けと経済の発展に寄与する立派な思想に基づく日ノ本初の築港事業だ。
丸太屋も世話になっている「石蔵爺さん」の傍には、丸太屋の人足も常に働いており兎丸を見守るには最適だ。
兎丸は、大袴を絞ってはき、上半身は裸だ。年上の男児も混じっているのに、背丈は、ひょろりと頭半分ほど高い。
色白なのは分かっていたが、顔は白いと云ってもそれなりに日焼けしている。それが半裸の胸は皆が笑ってしまうほど、抜けるように白い。
「うむ、正しく白兎じゃな」
今日は、水練初日とあって心配した嘉平の命で、下男の藤吉が見守りに来ている。藤吉は材木座で生まれ育った。鎌倉から出たこともないが、水練の達人だ。
「わしが、兎丸を小舟に乗せて少し沖に出れば、今日中に泳げるようになりますだ」と藤吉は云うが、「浜の子供らと遊ぶのも兎丸の成長に役立つ」と嘉平は皆の子守を致せと、姫飯で作った握り飯を沢山持たせて送り出した。
嘉平自ら見守りたいが、商売が立て込んでおりそうもいかない。
「よーし、行くぞ。兎丸付いて来い」
浜のガキ大将は、兎丸の頬を傷つけた波吉だ。
婆が死んでから、ふさぎ込んでいたが、男らしく兎丸に謝った。
「おらが、元気になれと鴨肉をばあちゃんに食べさせたんだ。弱っている人に死肉など食わせるものではないと、皆に叱られた。兎丸が悪いんじゃないと怒られた。おらを‥‥‥ 」
「ごめんなさい」と云えない波吉に、兎丸は耳を揺すって頷いた。
大騒ぎの子供らは、水練と云うよりは素潜りで海の幸を物色する。騒ぎ声が消え、兎丸の足が砂地を離れた。
手足をばたばた動かすが「ウヘェ」と潮水を飲んでしまう。
嘉平に口出しするなと念を押されているので、藤吉は半眼でうつらうつらだ。
五月の浜辺は、晴天が続き暑いくらいだが、水はまだひやりと冷たい。息を止めた兎丸が、石蔵爺さんの足元に沈んで行く。水練の達人で、波にも乗ったという兄上の夢を見たことがあったなと気を取り直した兎丸は、そっと目を開けた。
今日は、水練だから式神三匹は、澪の傍で遊んでいる。澪が「わたしも水練に行く」と泣いたからだ。
宋子が澪の膝に頭を擦り付け、機嫌をとると、涙を拭った澪の手が宋子の頭を乱暴に行き来する。
目を開いたままの兎丸に、両手を広げた人々が近寄って来る。男も女も子供もいる。この辺りで命を落とし、天国へも地獄へも行き迷った者どもだ。子供の中には死んだことも分からぬ児がいる。海が荒れれば沖へ流され、遥か海原に送り出されてしまう児もあれば、打ち寄せる波に乗ってまた生まれ故郷の鎌倉の海辺に舞い戻り、生まれた村に向かって母の温もりを求める児もいる。
(どうしたものか? 死んでしまったのだよ。彼岸を渡って穏やかな時間を手に入れ幸せにおなりと云えばいいのか)
兎丸は、恐がっていない自分を横目に思案する。
(この迷える人たちを、おれは救うことが出来るのか。もっと陰陽道を極めれば、悲しい人々が救えるのか)
うらうら揺れる兎丸に、子供の手が伸びた。
亡霊かと思えたが、留吉だった。何時も大人しい少年が、恐い顔で両手を伸ばし兎丸の両脇を抱え上げると頭上の光りに向かって浮き上がる。
ぽっかり浮かんだ二人の頭を目がけって、少年たちが血相を変えて抜き手を切っていた。
沖に停泊している宋船から浜に向かっていた小舟が、少年らに近づいた。
「乗せて、乗せて、早く運ぶよ」
たどたどしい和語が発せられた。少年らは身構える。
異装の男が二人、両手を出して兎丸を舟に引き上げた。舟底に寝かせられた兎丸の胸を押している。留吉と波吉が舟に掴まり、用心深い目で見つめた。
と、兎丸の口から潮水が吹きあがった。小さな鯨のようだ。
「ゲホゲホ」
と、音を立てて吐いた兎丸が薄目を開けた。少年らは「ふわぁ」と息を吐き、空を見上げて身体を伸ばした。
親職屋敷に運ばれた兎丸は、時景の部屋で寝ている。
ぐったりした頭で、海の中に彷徨う者たちを何とかしてあげたいと考えながらうつらうつらしている。
大人たちは、今日の水練は失敗だと思うだろうが、兎丸は学んでいる。
留吉に抱え上げられながら、泳ぐとはどういうことかを学んだ身体は、力が抜けてゆるゆると浮かんだのだ。
屋敷には、見舞いの品として海の幸が届けられていた。
「
炙った鰯を頭からかぶり付けと云われた兎丸は、顔をしかめてもぐもぐする。
(あっ、旨い。久しく青虫を食べていない。これだ、これだ。これは、青虫にも劣らない苦さだ。鰯の丸干しを齧っても、誰にも文句を云われないぞ)
宋子が嬉しそうに、すり寄る。兎丸は、溺れたことなどすっかり忘れて鰯を与えた。
鰯は血行をよくして冷えを防ぐと云う。鎌倉時代の説話集「古事談」にも良薬だとある。
DHAもEPAもカルシウムも取れる貴重な食糧だ。栄養分など知らなくても身体に良いことは習慣で分かっている。
海は無事だが、山野は枯れて行く。雨が降らないのだ。
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