西暦1220年(承久二年)正月 兎丸の新歩 壱

 兎丸の新しい生活が始まった。 稲村ケ崎の山中にある父上の屋敷だ。 その裏の竹林から、兎丸の友達が次々と現れる。


 鎌倉幕府開闢かいびゃくの頃、稲村ケ崎の隣は地獄谷であった。

 死骸が打ち捨てられ、行き場のない者が寄り集まり、正しく地獄の名に相応しい谷だった。

 捨て子同然の兎丸が、稲村ケ崎の屋敷で生活を始めた承久二年(1220)頃も、まだ極楽寺はなかった。執権北条氏によって鎌倉には珍しい念仏寺が移され極楽寺となるには、まだ数十年が必要だった。


 兎丸にとっては父上の稲村ケ崎屋敷は、地獄の隣にある極楽であった。

 屋敷は、稲村ケ崎の海岸から山に駆けのぼった中腹にある。三段に切り開かれた中段に屋敷があり、裏庭は一段高く竹林を背負っている。まえ庭からは、塀代わりの木々の間をぬって鎌倉湾が見渡せた。

 新しい年を迎え、数えで七歳になった兎丸を晴れやかな眺望も寿いでいる。


 晴れやかなのは、景色ばかりではない。

 兎の面倒を見てくれる乳母の佐紀と爺やの弥助と一緒にいると、この屋敷で生まれ育った気になる。

 お腹いっぱい食べて、安らかに眠り、寝屁もスーと気ままだ。

 不満は一つ、青虫の捕食だ。

 一人で庭をよちよち歩きの頃に発見した楽しみだ。腹が減っていたから手を出したのか、生来の嗜好なのか、もちろん兎丸には分からない。だがこの偏愛が、あちこちで問題を起こしてしまうことを近頃気付いた。丸太屋の女人たちに疎まれたのも、この青虫が原因だろうと今では納得する。

 それでも、たまに一匹くらい食べたくなる。

 裏の竹林に踏み込み、奥へ進むが冬の竹林は寒いばかりで生き物の気配はない。

 兎丸の気配に、逃げ出したのかもしれない。

「お一人で、あまり遠出はなりませんよ」

 佐紀は、怖い顔をして云うが、目が笑っている。

 今までと、反対だ。

 覚えている限り、みんな笑顔だが、目が笑っていない。

 弥助もめったに笑顔を見せないが、兎丸を心配そうに見つめる目尻が下がっている。

 鎌倉湾から吹き上げる風も、からかう様に兎丸の正月の晴れ着を巻き上げる。


 何時もの洗い晒しの水干を捨て、初めての直垂ひたたれ姿だ。鶴や打ち出の小槌が舞う縁起のよい宝尽くしの袖を翻せば、頭の折烏帽子おりえぼしも笑み崩れる。

 身分年齢に関係なく、佐紀が着せ替え人形宜しく勝手に用意したお下がりだ。

「兄のお下がり? それって、それって、兄上の衣ってこと?」

 それが何より嬉しい兎丸だ。


 寒さが緩み、竹林では竹の子がツンンツン顔を出す。蕗の薹が笑い、春の兆しの中、兎丸の目が、すかさず小さな青虫を捉えた。竹林の下草の葉陰だ。

 ちょっと後ろを振り返ってから、おもむろに左手を伸ばした。

 その指先目がけて、丸い塊が飛んだ。思わず、尻もちをついた兎丸を小さな目が見上げている。

 その頭の上に青虫が、避難していた。

「ああ、びっくりした」

 敵意は感じられない。哀願するように、両手をこすり合わせたのはちょっと大きめのネズミだ。

 照れたような頬が、プクプク動く。

「分かったよ。青虫をかばったんだね。友達かい?」

 ネズミは、ちょっと小首を傾げた後、コックンと首を振る。それから、両手でお腹の辺りをスリスリ。

「お腹が痛いの? ハハァ、そんな訳ないか。ちょっと待っていろ」

 兎丸は、屋敷に向かって駆け出した。


「ほーぉ、ビックリした。お前は、精進料理屋の庭の青虫だな」

 青虫は、ちょっと体をひねって同意する。

「おれさまの頭の上から降りろ」

 青虫は、少しずつ尻下がりに背中に移る。

「おれさまの背中の上からも降りろ」

 青虫は、モニョモニョと耳の後ろに移動する。

「おい、おい」

 ネズミの忠吉は、怖いを顔を作ってみるが、どうも青虫には見えないようだ。

「おーい」

 さっきの子供が戻って来た。

「ああぁあ、やばいよ、やばいよ。あいつ戻って来た。隠れろ」

 間に合わない。

「これしか無かった。きびの餅だよ」

 忠吉は、恭しく両手で受け取った。飼いネズミだった忠吉は、餌を貰うのに慣れていた。

 野ネズミでは、こうはいくまい。密かな自慢だ。

 鶴岡八幡宮に住み暮らすネズミの鎌倉頭取も忠吉の生活を羨んでくれた。しがない精進料理屋だが、誰かれなく食を恵みネズミをもその懐に抱え込む元典座和尚を「奇特なお方だ」と褒めてくれた。

 ガツガツと音を立てて齧る。近頃、稀な固い食べ物だ。忠吉は、柱齧りを禁じられ餌を与えられているので、固い餌にご無沙汰なのだ。

 昨日の晩飯は、食べていない。酒を飲んで酔っ払い、そのまま眠ってしまったので腹が空いていた。

(こいつ誰かな? お客さんか、変な服を着ているな)

 と、思いながらもガツガツと音を立てた。

 兎丸は、逃げるでもなく小さな餅をがっつくネズミを物珍しく眺めた。

 やがて、フーと息を吐き出し手指に付いた黍の粒をねぶろうとして止め、頭の後ろに伸ばした。

 耳の後ろに隠れていた青虫が、黍粒をちょんとつつく。


 首を伸ばして見つめる兎丸に、忠吉は後ろにはね飛んだ。その拍子に青虫がポトリと落下。

 兎丸は、左手を伸ばし青虫を捕えた。

「ああぁ、ダメ、ダメ。食わないで」

 ニッと笑顔を見せた兎丸は

「ここで、いいのか?」

 そっと、忠吉の頭の上に青虫を載せた。

(ああぁ、こいつは良い奴だ。まだ子供だが立派な奴だ)

「ありがとう」思わず忠吉は礼を叫ぶ。

「おぅ、もう青虫は食べないから心配するな」

「おまえは誰だ? 店の客か?」

「客? おれは兎丸。この家の主だ」

「主って? 和尚はどうした?」

「和尚って誰? ここには和尚さんなっていないよ」

(あああぁ、やばい。こいつと話しちゃったよ。やばいネズミだと警察へ届けられたらどうしよう)

 思わず、両手で口をふさいだ。

「ネズミさん、君の名前は?」

 両手でパンパンと口元を叩いた。諦めの吐息をもらし、忠吉は答える。

「ちゅうきち」

「ふーん、忠吉ね。おれと友達になってくれる?」

 忠吉は、ガクガクと承知した。

 かくして、忠吉と青虫は兎丸の友として安倍晴秀屋敷の居候となった。


 屋敷には、中年の女と年老いた男がいた。

 なので、忠吉と青虫は、竹林の入り口にある物置小屋に住むことになった。餌は兎丸が運んでくれる。

 それにしても、和尚の精進料理屋は、何処へ消えてしまったのか、兎丸の家は屋敷と呼ぶが、随分と寂れた建物だ。

 近所の家もない。おかしい。

 いくら気楽な飼いネズミとはいえ、様子の一変した景色に狼狽うろたえる。

「兎丸、ここは稲村ケ崎だよね。鎌倉だよね」

「うん、そうだよ。どうかしたの?」

「うーん、和尚さんがいないから‥‥‥」

「ふーん、困ったねぇ。和尚さんって、忠吉の父上さま?」

「へっ、そんな訳ねえじゃん。おらぁ、ネズミだ。和尚さんは人間だ。まっ、ご主人さまだな」

「なるほど、ご主人さまね。何処へ行ったのかねぇ」

 青虫も傍らで小首を傾げる。言葉はしゃべらないが、内容は分かるらしい。


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