悪戯ネズミ騒動

 四月十一日、御所で騒動があった。

 若君三寅の御衣をネズミが食い千切った。それを側近く仕える石山禅尼が発見したのだ。

「悪戯ネズミは、兎丸の式神ではないか」

 と、讒言する者がいた。

 幼気いたいけな兎丸にも、敵対する者がいるのか。


 悪戯ネズミの話が伝わった時、宋子は何時もの皮肉と戯れで「忠吉、悪戯もたいがいにしろ」と云い放った。

「む、むぅ、宋子。冗談は止めてくれ、おらは御所へなど行ったことはない。行ったとしても、若さまの衣なんか齧るものか」

 忠吉の抗議に、カー助が、「宋子、そういう冗談はいけないよ」と加勢する。

「ねぇ、ねぇ、何を話しているの?」と、澪。

 困った顔で兎丸が、説明してやるが、その話を廊下の陰で都合の良い部分だけ盗んだ女がいた。元乳母の梅だ。

 梅は、誰に何と告げたのか。

 噂は楽し気に羽をはやし、石山禅尼にも届いたのだ。藤原姓の家に生まれた女は恐ろしい。

「だだちに、憎っくきネズミを捕えよ」と命じた。

 たちまち捕えられた忠吉は、布に包まれ禅尼の手の中だ。

「今夜、悪戯ネズミを成敗します」と親職に報せがあった。

 陰陽師の卜筮の結果だと云う。


 中央に大きな篝火が夜空を焦がしている。

「禅尼さま、その布包をお渡し下さい」

「いいえ、この中には若君さまに仇なす怪奇が入っております。篝の火にて焼き尽くしましょうぞ」

「禅尼さま、その中のネズミは、千年の命を宿した火ネズミでございますぞ。焼き殺しなど出来ませんが、そなたさまの暴挙は、そなたさまに危害を及ぼすばかりではなく、若君さまへも及びましょう」

 親職は、最後は叫んでいた。

「それでも包みを投げ入れるかぁー」

 ぶるりと身を震わせた禅尼だが、声を励まし反論する。

「陰陽師どの、妾を脅しになりますか」

「ええぃ、分からず屋の尼どのじゃ。包みをこちらに寄こしなさい。そなたさまに変わり、わしが包みを投げましょう。怪奇はわしにのみ及ぶよう、若さまには届かぬよう致しましょう」

 包みを握った石山禅尼の手は、わなわなと震えている。

 そっと手を伸ばした親職は、奪った包みを抱え篝火に向かった。誰知らぬ者もいない陰陽師の手元をぐるりと囲んだ鵜の目、鷹の目、欣喜の目が、雀躍と踊っている。仲間の陰陽師も小さな笑みを口元に隠し、見つめている。鎌倉陰陽師にも、当然のことながら派閥がある。

 禅尼は両手を合わせ、膝までついて、祈りの姿を披露する。

 親職の後ろに従っていた兎丸は、火傷など厭わぬ意気込みで篝火に向かった。

 兎丸は、親職祖父じいさまを信じている。祖父さまが、忠吉を見殺しにするはずはない。きっときっと陰陽道の秘策により忠吉を助けてくれる。

 しかし、包みはあっけなく親職の手を離れ、投げ込まれた。

 篝火の炎がひと際高く燃え上がる。声にならない歓声が上がった。見物人は、この珍しい見世物を内心喜んでいるのだ。


 ふらりと耳を揺らし、飛び込もうとする兎丸の裾を宋子が咥え、必死に止めた。

 前のめりに倒れる兎丸を目がけて動く物があった。

 夜空を焦がす大篝火の足元は、暗い。その暗がりから忠吉が、走り出て来たのだ。ネズミは、どのくらい火の中にいたのだろうか。長いようにも、短いようにも思える。

 見守る人々は吐息を付き、歓声が上がった。今度は誰憚らぬ声高の驚嘆だ。

 忠吉を抱き上げた親職が、跪いたままの禅尼の目の前に火ネズミを置いた。忠吉は、禅尼を見上げ両手を合わせた。

 立派な合掌だ。

「禅尼さま、炎に巻かれても生きている火ネズミでございます。このネズミの皮を剥ぎ、若君の衣を作りましょうか」

「いえ、いえ、そのような。無体なことはなりません」

 石山禅尼は、合掌をしたまま、よよと美しく泣き崩れた。


 火ネズミは、数々の御伽噺おとぎばなしに出て来る不思議だ。

 かの『竹取物語』のかぐや姫が、求婚者に求めた難題の一つが、火にくべても燃えない火ネズミの皮衣。

 近頃、売り出し中の忠吉も、捕えられたり、火ネズミになったり、なかなか忙しい。


(上手なマジックだったな)と、忠吉は感心する。

 親職に抱えられると同時に、小石が一つ転がり込んだ。

 忠吉は悟った。おれの身代わりだ。

 親職爺さんやるじゃないか。すばやく親職の懐に飛び込んだ。

 忠吉は、マジックなどと云う言葉を思い出し、二十一世紀の主、和尚は元気かなと懐かしい。

 みんな忘れているだろうが、忠吉は、二十一世紀から零れて来たネズミなのだ。

 親職は、機嫌が良い。己の企みを素早く察し動いたみせたネズミは、やはりただ者ではない。

 日々成長する兎丸が使う式神なのだが、陰陽師が使う式神とは全く違う不思議なのだ。

 兎丸一家は帰って行く。

「でん、でん、でん、未来の乗り物、えーのーでーん」

 今では、一党の愛唱歌だ。


 四月二十八日、火ネズミ騒動から幾らも経たぬこの日、三寅若君にまたまた災難が降った。今度は確かに空から災難が降って来たのだ。若君が楽しみにしている手毬の会の最中に、鳥の糞がかけられたのだ。会に参加していた者も観覧していた者も多数の人が確かに目撃した。空を見上げるも、青空は艶やかに笑い、すでに鳥影はない。

 街中を歩いている者の頭に鳥の糞が直撃することは、この鎌倉では、別に珍しいことではない。緑豊かな鎌倉の地には、大空を睥睨するトンビのような大きな鳥も、庭先に遊びに来る名もない小さな鳥も種多く生息し、自然の豊かさを知らしめている。

 目撃した者たちの頭上高く低くに、火ネズミ騒動が甦り、続いて兎丸の式神を思い描いた。式神の一匹はカラスであった。このカラスは白く、一羽ではなく一匹と呼ばれている神聖なカラスだ。誰もあのカラスだとは云わない。うっかり噂話などすれば、陰陽師どのに睨まれる。どちらにしても、災難続きの若君に「御病気にご注意下されませ」との占いが伝えられた。


 その頃、兎丸一家は、丸太屋の澪の元で遊んでいた。兎丸は十歳になり痩身だが背が高いので、そろそろ元服かしらと加奈は思ってしまう

 娘の澪もすでに七歳、もう兎丸に飛びついたりしないが、うっとりとした瞳が兎丸の姿を追うことがある。

 澪の記憶の初めに、兎丸はいる。父も母もいたし、乳母の梅もいただろう。しかし、兎丸は格別だ。火事でごった返す小町大路で出会い、確りと抱きしめられて火の粉をくぐり、命を救われた娘は日々成長している。

 兎丸は、親しい他人ではなく、頼もしい兄とも不思議の陰陽師とも云える。その人を特別に好きになるのは自然の理ではないか。

 何処まで、娘の成長を見届けることが出来るかと、己の行く先に不安を抱く母にとって、気ままに、時に我がままに生きる娘の行く末を心配せずにはいられない。

 澪は、自分には似ていない。人も云うし、加奈自身もそう思う。誰から見ても隔世遺伝、祖母の高子に似ているのだ。まだ七歳、権高と云うことはないが、自尊心は明らかに高い。美しい母親から生まれた美しくない娘の憂いを知っている加奈であるから、娘の澪の天真爛漫を羨む気持ちに勝って、頼もしく思う。

 間もなく散ると思われる、溢れるばかりに華やかな大輪の祖母と、きりりと身を引き締め群れずに咲く花のような孫の間で、加奈の命は迷うことなく萎れて行く。

 女の子だから、ひどい悪戯はしないが、自分の意思は押し通す。嫌いな物は決して食べず、近頃は、梅に触れられることも拒むほどだ。もう乳母失格の梅は、高子の元でウロウロしている。

 三匹の式神は大好きで、どうやら宋子の意思が分かるらしい。言葉が分かるのではないが、式神の望みを一早く受け止める。娘の行く末を心配するのは、母親の大きな仕事だが、病身の加奈には荷が重すぎて、手放したくなる心地を辛うじて耐えている。

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