彗星出現
みんなで、佐紀の仕事を手伝った後、海岸に下った。
七里ヶ浜のうだる暑さをかき分けて、西に向かう。江ノ島を目指して歩く。一昨日の昼過ぎに大きな地震があったのだが、何時も世話になっている腰越の漁師一家を佐紀が頻りに心配するので様子を見に行くことにしたのだ。
親職屋敷も丸太屋も心配ないと連絡が届いていた。
近いようで、なかなかの距離だ。
「あ~ぁ、江ノ電に乗れば直ぐなのに」
懐の忠吉が、自分は歩いていないのにぼやく。今では、「未来の乗り物、えーのーでん」は、兎丸一家の常識となっていた。どうもはっきりしない忠吉の説明だが、風のように走る乗り物だとみんな納得している。
「おれより速いのか」
カー助の問いに、「うーん、同じくらいかな?」忠吉は、優しいカー助にあまり逆らわない。宋子のいじめを軽くいなして、何時も忠吉をかばってくれるのだ。
小動岬を超えると富士山が迫ってくるように姿を現す。美麗な日ノ本一の御山がちょっと澄まして胸を張る。
屋敷から海は見えるが、富士山は見えない。材木座からは海の向こうに見えるが、ちーと遠い気がする。
寝込んでいる漁師のおばあさんも顔を見せて、遠慮する兎丸に鰯の丸干しを持たせてくれた。兎丸の大好物だ。
帰り道、腰越海岸から見る富士は、朱く夕映えて何時もより大きい。背を向けて家路を急ぐも、三歩四歩と遊び歩くと屋敷は尚更遠くなる。坂を上る前に薄闇だ。
兎丸は北の空にわずかな光を認めた。宋子に指差したが、首を振られてしまった。見えないようだ。
兎丸も見えている訳ではない。感じると云うか、呼ばれていると云うか、確かにそれはあり、兎丸の耳を引っ張るのだ。兎丸の住まう稲村ケ崎の屋敷は、山の中にあり北や西の方角は裏庭に続く竹林に遮られているので、まるで竹林から呼ばれているような気がする。
あっ、あっ、ち、ち、父上?
父上が呼んでいるの?
ちちうえぇー、帰ってくるのー
声には出していないのに、「夜中に叫んではいけない」と、宋子に叱られた。
鎌倉時代の彗星も現代の彗星も同じ天体現象だ。
その彗星が、天体に造詣深い陰陽師の目で認められたのは、八月二日、戌の刻(午後八時頃)、戌の方角(西北)だ。
白く半月ほどの大きさの本体星からは、赤味を帯びた尾が長々と伸びている。尾は一丈七尺(五メートル)ほどだったが、次第に短くなっている。
兎丸は、七月末に、腰越海岸からの帰りに夜空を近づいて来る光を認めていた。誰の目にも光が確かめられる頃には、尾っぽは、グングンと伸び呪うがごとく明々と輝いた。
どうやら彗星は、だんだんに近づき、だんだん離れて行くのだと推測出来る。
このほうき星は、何処から来て何処へ行くのか、時景先生に問うてみたが、首が右に傾いだだけだ。
兎丸は、父上かなと思ってしまった彗星が気になってならない。
兎丸は、彗星を確認するために、坂を下らず、裏の竹林を一人で抜けた。人が拓いた道はなく、式神たちと一緒に踏みしめた獣道が僅かにあるだけだ。彗星が呼んでくれるから真っ暗闇でも迷うことはない。
七月には地震があり、その後、彗星が出現したので、八月二十日には、早々に御祈祷が行われた。
祈祷は一つではない。有力陰陽師が、それぞれ指名され幾つもの祈祷が同時に行われた。
親職は、天地災変祭を執り行った。
前日十九日は、兎丸の勉学の日ではなかったが、親職の報せが届き、屋敷に出かけた。そして、初めて親職の祭の準備を手伝った。と云っても、そばで見ているだけだ。
それでも兎丸は目を輝かせ、
時景先生は大好きだが、親職
勉学も早朝から始めるので、昼を前に朝食を親職屋敷で食べるようになった。夕方も早めに帰宅することとなり、度々丸太屋へ寄り道した。
式神たちは澪の元へ、兎丸は店を覗く。嘉平がいれば、笑顔を向けて「話したいよ」と秋波を送り、いなければ浜に出て丸太屋の作業を見物したり、浜の友だちを探した。波吉は年上だし身体も大きいので、少しずつ丸太屋の仕事を貰っている。留吉と波吉の母親が共に丸太屋の台所で働くようになり、少年二人の生活も安定した。正式に雇われた訳ではないが、波吉は浜で、留吉は藤吉の下で手伝っている。
兎丸が、店でウロウロしていても誰も気にするでもなく、普通の風景となっていた。
「兎丸どの」
兎の耳がピクンと動いた。振り向けば、澪の祖母上が奥の間から手招きしている。珍しいことだ。兎丸が丸太屋に厄介になっていた頃も、高子とはほとんど口をきいたことがない。澪の乳母だった梅には、ずいぶんと意地悪されたが、高子から何やら云われたことはなかった。無視されていたとも云える。
「はい、高子さま?」
何か? と、おずおすと近づく。
「これなる写本を差し上げましょう。これはな、澪の祖父が若い頃、書き写したもので、昔の都人が書いた日記じゃ。色々なことが書かれていて、なかなかに、興味深い」
「そのような貴重なものを私が頂いても宜しいのでしょうか。私に読めましょうか」
「直ぐに読めよう。陰陽道の修行とは違い、楽しみに読むものだ。さあ、持っていかれよ」
要らないとは云えない。恭しく礼をして受け取った。高子は、さっさと奥へ消えた。
ぼんやりと見送っていると「どうした兎丸」と、声がかかった。
嘉平だ。仕事場から戻ったのだろう。汗の匂いをさせた嘉平は、何時もより大きく見えた。
「あっ、あのこれを高子さまが下さいました」
「ほぉ、それはまた‥‥‥ 『小右記』? わしは知らんが、まあよい。貰っておけ」
「はい、嘉平どのがそう云われるなら、頂いておきます」
兎丸は、時景先生に与えられる書物で目一杯で、その以外の写本など興味はないが、皆さんの好意は有難く頂いておこうと思える。少しずつ大人になっていく兎丸だ。
それから数日後、嘉平は久しく高子と長話をした。
「兎丸に、貴重なご本を頂きました。ありがとうございます」
「何の亡夫が残した物を整理しておったら、箱の底に大事そうに仕舞われていたのじゃ。加奈へとも思ったが、病身の者に渡すより、これからの者に渡したほうが役立つかと思ってのう」
笑顔の嘉平に、高子は少し身を動かし両手を付いた。
「如何された?」
「嘉平どのには、謝らねばならぬことがある。ずっと思っておったが、随分と時を経てしまった。他でもない、妾が世話した新助のことじゃ。まんまとそなたを騙し、金を持ち逃げした。誠に申し訳ない」
新助とは、澪が攫われた折、脅迫状の指示通り砂金を積んだ馬を引いて行き、消えた男だ。御家人であった高子の亡夫に仕えていた侍の息子であった。
「いえ、それは、確かなことではございません。もしや、悪い奴らに奪われ、死んで‥‥‥ いや、戻れぬ仕儀となっているのかも知れませぬ」
「そんな風に思ってくれるか、誠、嘉平どのは心優しい男よのう。病身の加奈も労わってくれる。ほんに、ほんに礼を申す」
権高な高子は、日頃、目にすることのない風情で、袖で目元を隠す。
加奈の病状は、一進一退、嘉平の財力を以ってしても治る見込みはないと云えた。
鎌倉は地震に揺られながら、年が暮れようとしていた。師走十二日には、執権北条義時の室伊賀殿が男児を産んだ。
安産を願って、祓えの言葉を千回唱える千度祓いが行われていた。奉仕した陰陽師の一人として親職は上絹二疋を賜った。その内の一疋は稲村ケ崎の佐紀に届けられた。
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