西暦1221年(承久三年) 承久の乱 壱
承久三年(1221)が明けた。
この年、その後の鎌倉幕府による武家政権を確立することになる承久の乱が勃発する。
正月十日、晴れてはいるが風が強かった。
丸太屋からの正月の餅と料理に、のんびり過ごした兎丸一家を訪う人がいた。
飯島の安倍晴元であった。一応、兎丸の祖父に当たるが、数ある安倍一族の末席にいる。
「おおおぅ、兎丸、息災で何よりだ」
作り笑いの皺顔が醜いと宋子の鼻が蠢く。
「これは、これは、晴隆どのの乳母どのか。お初にお目にかかる。兎丸の祖父安倍晴元である。そなたには、いかな厄介を掛けている。礼を申すぞ」
偉そうな挨拶だ。
手土産もない。忠吉は、(ふん、けちん坊)
「こたびな、安倍親職どのと思案いたし、兎丸の養育は、やはりわしが適任と云うことになった。しからば、兎丸を引き取りに参ったのだ。早々に支度を致せ」
勝手な命に、おろおろするばかりの佐紀だ。
「いやだ、いやだ。おれは帰らない。あんな家に帰るもんか」
兎丸は、歯を剝いて云い募る。
晴元が兎丸の腕を掴んだ。
「放せ、放せ。おれは帰らぬ」
もみ合う二人の間に黒い塊が飛び付いた。
「ああぁ、なに奴‥‥‥」
晴元の手にネズミが一匹噛みついている。
何時になく興奮した兎丸の声を聞いた忠吉は、主の一大事だ、敵を倒そうと打って出たのだ。
「ああぁ、忠吉、忠吉、なりません」
上ずる佐紀の声に、かすかな可笑しみが加わっている。
晴元は激しく右手を振り、忠吉は囲炉裏の中に投げ出された。鍋がひっくり返り盛大に
すかさず、弥助がネズミを救い出すが、火傷を負ったらしく「キーキー」と鳴き叫ぶ。
宋子が灰神楽を避けて、後ずさりながらカー助に向かって顎をしゃくった。
したり顔のカー助が、カーと一声叫び晴元の頭に飛び付き烏帽子を飛ばした。
「あああぁ‥‥‥ 何という家だ。許さんぞ、許さんぞ。無礼者ども、目にもの見せてくれる」
叫びながら、外へ飛び出した晴元に雷が怒鳴り、雨が突き刺さった。
兎の耳は、左右に揺れて止まらない。
真っ白になった忠吉は、きっと宋子に叱られると首を竦めて弥助の後ろに避難している。
左耳の先がヒリヒリ痛い。火傷を負ったのだ。
弥助が右手を回し、忠吉の尻をポンポンと叩く。なんと優しい叩き方だと忠吉は鼻の奥を湿らせる。
「いやじゃ、いやじゃ。おれは帰らぬ。佐紀、佐紀お願いじゃ‥‥ なんで飯島に帰らねばならぬ。ご飯も食べさせてもらえなかったのだ。おれは、佐紀が一番好きだ。母上はおれを捨てて嫁に行った。丸太屋の澪の母上も優しいが‥‥‥ 佐紀が、佐紀が、おれを迎えに来てくれて本当に嬉しかった。おれはこの稲村ケ崎の屋敷が好きだ。ここで生まれて、ここで育った気がするのだ。宋子が忠吉が、カー助がいっち好きだ。丸太屋の嘉平も好きだが、弥助はもっと好きだ」
兎丸が激しく云いつのる。その頬に光る水滴は、笹の葉を転がる水玉のようだ。
兎丸は、大いに喚いた。
うん? おれは、何を叫んでいるのだ? 喚いたことなどない。初めてのことだ。
鼻の奥がムズムズして鼻水が落ち、目から温かい水がボロボロ落ちて来る。おれって、泣いたことあるかな? 澪があんあん泣くのを何度も見た。何故、泣くのかと思いながらも可愛く可笑しくもあった。
ああ、おれも泣けた。案外と気持ちいい。目の端に入って来た宋子を見やると、ツンと澄まして見つめて来る。にっと前歯を見せると思わす両肩が上がり、首を竦めてしまった。宋子が澄ましたまま歩み去ると、カー助が近寄り兎丸の袖をツンツンと二度突いた。ほほ笑むと今度は忠吉が胸に飛び込んで来た。
「火傷はどうだ? 痛くないか? おれをかばってくれてありがとう」
忠吉は、自慢げに顔を上げ、火傷の痛みをものともせず左袖下に潜り込んだ。
忠吉は、この頃大活躍だ。毎日食べるだけの人生だが、忠吉の兎丸に対する忠義は本物だ。
宋子が厳かに云う。
「佐紀どの、丸太屋に手紙をお願い致します」
カー助は、飛んだ。故郷の南宋へ戻るがごとく気を引き締め、材木座を目指した。緩やかに湾曲する海岸線を無視して鎌倉湾を真っ直ぐに飛ぶ。
近頃は、餌が良いせいか毛並みが良い。黄ばんだ白髪のようだった羽が、秋の野を彩る尾花のごとく白銀に煌く。それは内なる心根の安定がもたらす輝きか。
早く、早く、時間がない。
早くけりを付けねば、あの男はまたぞろ屋敷に押しかけて来よう。兎丸が、金になると踏んだのだ。噂を宣伝に祈祷をさせて小金を儲けるか、面倒ならば売り払ってもいいのだ。丸太屋から金を受け取ったことなど忘れた振りだ。
丸太屋の軒先に燕を真似て飛び込めば、男が二人話し込んでいた。
嘉平と友達の孝悦だ。
カー助は、首を傾け恭しくポチポチと嘉平に近寄った。孝悦は身を仰け反らせて驚き顔だ。
嘉平が素早く手を出し、カー助の足に結ばれた文を開いた。
嘉平の眉が上がった。怖い顔だ。
文を孝悦に突き出した。
「なんだとう、あの業突く張りが、渡した金がなくなったか」
孝悦が叫び、嘉平を睨み返す。
「おれに任せろ。晴元の奴、ただじゃあ置かねえ」
孝悦は、嘉平と思案の末、まず安倍親職の屋敷を訪ねることにした。無頼のような生活を送る孝悦だが幕府の仕事をこなす地相人金浄法師の倅だ。
親職は、何事かと奥の間へ通した。
孝悦は、とうとうと語る。
晴元が家出した兎丸を引き取らなかった
乳母の佐紀が兎丸を引き取った経緯を。
「晴元どのに、金を渡すよう企てたのは、それがしでございます。こんなこともあろうかと、嘉平に進言しました。あのご仁は、
親職は、納得して孝悦を帰した。その折、兎丸に伝言した。
「きっと連絡するゆえ、待っていろ」と。
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