第4話 3、バレンタインデー

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 川本五郎は卒業式の前の2月14日に十数人の女生徒からバレンタインのチョコレートを初めてもらったことがあった。

教室内で渡されたものもあったし、廊下で渡されたものもあったし、自転車の駐輪場で渡されたものもあったし、校門の前で待ち伏せされて渡されたものもあったし、自宅の門の前で渡されたものもあった。

川本五郎はお礼を述べてチョコレートを受け取り、名前を知らない場合には名前を尋ねた。

五郎の靴箱に入っていたチョコレートの箱と自転車の前籠(まえかご)に置いてあったチョコレートの箱には名前が書かれていなかったので送り主は判らなかった。

その日、家に戻った自転車の前籠には15個のチョコレートの箱が積まれていた。

 高校生活において川本五郎はこれまで一度もバレンタインのチョコレートをもらったことがなかった。

背の高い川本五郎の容貌は整っており、決して醜くはなかった。

美醜は好みによるのだろうが、川本五郎はいい男だと言えないこともなかった。

あくまで推測だが、女生徒の中には川本五郎に好意を持っていた者もいたはずだった。

 しかしながら、学年トップの学力を持ち超人的な運動能力を持つ川本五郎は全学のスターであったし、全学の女生徒の憧れの的だとの噂がささやかれていた。

そんな五郎に自身の好意を示すことは普通の女生徒にとっては大勇気が必要だった。

川本五郎に拒絶されたり全学の女生徒に抜け駆けを知られたりしたら、その後の高校生活は惨めなものになる。

川本五郎に好意を持つそんな女生徒にとって、もう会えなくなる川本五郎に自分の思いの丈(たけ)を伝えるのには卒業前の2月14日のバレンタインチョコレートしかなかった。

 翌日、川本五郎はチョコレートをくれた女生徒に招待状を渡した。

クラスの女生徒には教室で手渡し、他クラスの女生徒にはその女生徒の教室に出向いて手渡し、靴箱と自転車の前籠にも招待状を置いておいた。

そんな川本五郎の行動は当然みんなに知られることになったわけだが五郎は気にしなかった。

誰も川本五郎を囃(はや)すことはしない。

川本五郎から同級生の前で招待状を手渡された女生徒も五郎が手渡した招待状の数が十数枚であることを知って安心した。

たった一人だけでは噂になるだろうが十数枚の招待状の一つなら、それは自慢になることだった。

ファンクラブと同じだ。

 同じ教室で川本五郎から招待状をもらった二人の女生徒は互いに見せ合い、招待状の文面が同じであることを互いに確認しあった。

招待状には次のように書かれてあった。


 招待状

昨日2月14日にバレンタインチョコレートをプレゼントして下され、ありがとうございます。

バレンタインチョコレートをプレゼントされたことは私にとって初めての経験でした。

本来なら、来たる3月14日にお返しを渡さなければならないのですが、あいにく当日は所用で東京に居なければならないと思います。

私の感謝の気持を示すため、貴女を我が家に招待し、手作りの料理(カレーライス)を差し上げたいと思います。

日時は次の日曜日の正午です。

私の家は尋常小学校の裏手の丘の中腹にある2階建ての白い建物で、周囲を白い塀で囲まれております。

「尋常小学校前」のバス停からは一本道です。

ご都合が良ければ是非いらっして下さい。

川本五郎


 それは川本五郎の自信を表している招待状だった。

東京大学の入学試験は3月上旬であり、通常の受験生にとって2月下旬は受験準備で忙しいはずであった。

さらに、招待状には入学試験に合格することを前提として東京での用事を記載している。

入学試験に落ちたら川本五郎は大恥をかくことになる。

招待状を受け取った女生徒達は驚いたが、自分がチョコレートを渡した相手の自信を頼もしくも感じ、チョコレートを渡して間違いはなかったと思った。

 次の日曜日に川本五郎の家に来たのは招待状を手渡した女生徒全員の13人だった。

五郎の靴箱と自転車の前籠に入れた女生徒には招待状が届かなかったようだった。

それぞれ工夫を凝らした私服姿の女生徒達は示し合わせたように11時30分にバス停に集まり、正午の10分前に川本五郎の家の門の前に到着した。

川本五郎は門の内側で待っていた。

ゆるい坂道を歩いてくる女生徒が招待状を手渡した13人であることを確認すると五郎は女生徒達が門の前に到着すると門から出て来て「よくいらっしゃいました」と言った。

五郎は家を迂回するように回って女生徒達を奥の庭にある大テラスに導いた。

 そこは芝生の庭に張り出したテラスで、透明な屋根があり、周囲がガラスで囲まれ、床が油で磨かれた総板張りの快適な場所だった。

このテラスは五郎の父が数人の研究者を家に呼んだ時に歓迎会をするために作ったらしい。

母屋とテラスの床は段差があり、母屋側には何足ものスリッパが並べられていた。

川本五郎は庭に面したガラス戸を開け、土足のままテラスに入り、女生徒達を中に入れ、ガラス戸を閉めた。

外の音は聞こえなくなった。

 テラスの床には3人がけのテーブルと椅子が、庭が見えるように半円型に並べられ、空いた庭側には幾分大きな炊飯ジャーが二つと大鍋一つが載ったテーブルと皿の載ったワゴンが置かれてあった。

川本五郎は女生徒達を椅子に掛けさせてから言った。

「本日は僕の招待を受けていただきありがとうございます。皆さんへの感謝の気持ちを込めて朝からカレーを作りました。どうぞ召し上がって下さい。ご飯の量は少なめにしますが、ご飯もカレーも十分な量があります。遠慮なくおかわりをして下さい。」

 そう言って川本五郎はカレーライスを皿に盛った。

ご飯とカレーの盛り方を見て女生徒達は少しだけ驚いた。

五郎は握り柄のついたライスカップでご飯をすくい、キャスターの付いたワゴンの上に並べられたお皿の上に素早く盛り、握り柄のついたカップで大鍋の中のカレーを掬(すく)って皿の上でカップの底を開いてカレーをご飯の横に盛った。

ライスカップの握り柄はライスカップのご飯をアイスクリームディッシャーのように落とすためであり、カレーをすくったカップの握り柄はカップの底を開くためであった。

 「川本君、おもしろいライスカップとカレーカップを使っているわね。川本君が考えたの。」

招待されていた横沢奈々が遠くから言った。

「そうだよ。横沢さん。この方が定量を掬(すく)えると思ったんだが、良くなかったかな。」

「そうねえ。盛り付けの楽しみはなくなるかな。」

「そうかもしれんね。実はそれほど便利だとは思っていなかったんだ。洗うのも面倒だしね。やはり昔からのしゃもじとおたまの方が便利かもしれない。」

それでも女生徒達は川本五郎の作ったカレーライスを食べた。

川本五郎も一緒に食べた。

 全員がカレーライスを食べ終わると川本五郎は言った。

「さて、これで我々は同じ釜の飯を食べた仲間になったわけです。ホストとしては皆さんに何らかのプレゼントをしたいと思っております。それで川本五郎としては皆さんの希望を一つだけ叶(かな)えようと思っております。もちろん私ができる範囲です。歌を歌ってもいいし2回転宙返りをしてもいいしピアノやバイオリンのような楽器の演奏でもいいし社交ダンスでもかまいません。今から皆さんにカードと筆記用具を配ります。カードに名前と望む希望を一つだけ書いて下さい。」

そう言ってから川本五郎は厚手の色紙とサインペンを各人に配った。

 女生徒達は頬杖をついたり天井を見上げたり五郎の顔を見たりしてたった一つの希望を考え出して色紙に書いてカードを伏せてテーブルの上に置いた。

川本五郎は色紙を回収し、内容を素早く一瞥して順番を並び替えた。

「人によって色々な希望があるものですね。最初は隣のクラスの唐桶さんの希望です。唐桶さんはカラオケのデュエットがお望みですが曲目にご希望がありますか。」

「古い歌ですが別れても好きな人をお願いできますか。」

「いいですよ。その歌は知っております。少し待って下さい。準備します。」

 そう言って川本五郎は炊飯ジャーと大鍋の載ったテーブルをガラス壁の横に移動させ、替わりにテラスと母屋との境に置いてあったカラオケセットが載ったテーブルを中央に押し出した。

カラオケの載ったテーブルの脚に付いていたスイッチを押して電源を入れると暫くしてから画面の上隅にカラオケセットの載ったテーブルが映し出された。

母屋の庇の下に付けてあったテレビカメラの画像だった。

「唐桶さん、準備ができました。一緒に歌いましょう。」

そう言って五郎は唐桶の所に行き、唐桶の手をとってカラオケの前にエスコートした。

 二人が歌い終わると五郎はカラオケを載せてあったテーブルからCDディスクを取り出しケースに入れてから唐桶に渡して言った。

「このCDには今の画像が記録されております。記念にどうぞ。」

唐桶は満足したようだった。

 「次も隣のクラスの伊方さんですね。伊方さんは僕の『異邦人』の歌を聞きたいのですね。」

「そうです。よろしいですか。別の歌でもいいのですが。」

「分かりました、大丈夫です。低いキーと高いキーでピアノ演奏付きで歌います。伊方さんは私と一緒に母屋のピアノの前まで来て下さい。仕切りで靴を脱いでスリッパに履き替えて下さい。」

そう言って川本五郎は伊方をエスコートし母屋の広間のテラスに接した場所に置いてある白いピアノの前に導いた。

最初、川本五郎は五郎の日頃の声よりもずっと低いキーで異邦人を演奏し、演奏に合わせて低音で歌った。

その声は不思議な響きを持っており、聴いていた女生徒達に感動の鳥肌を生じさせた。

 「伊方さん、次は伊方さんのキーに合わせます。一緒に歌いましょう。」

そう言って五郎はカウンターテナーの領域を超える高いキーで前奏を始め「異邦人」を歌い始めた。

伊方も最初は一緒に歌ったが、男性が出す女性高音領域の声に魅せられ、直ぐに歌うのを止め、自分を見つめて歌う五郎の声に聴き惚れた。

五郎が歌い終えると伊方は涙をぼろぼろと流していた。

「ありがとう、五郎さん。この感動は一生忘れません。」

そう言って伊方は席に戻った。

 「さて、3番目は我がクラスの蜂谷さんのお願いです。僕のピアノ演奏ですね。蜂谷さんだから蜂谷トリアンでどうですか。何かリクエストがありますか。」

川本五郎はピアノの椅子から立ち上がって言った。

「いえ。ハッチャトゥリアンでお願いします。」

「蜂谷さんはピアノが得意なのですか。」

「唯一の趣味です。」

 「分かりました。少し緊張しますね。それでは有名なハッチャトゥリアンの『剣の舞』を二回弾きます。少し早い演奏と普通の演奏です。どうぞここまで来て横で見ていて下さい。」

蜂谷がピアノの横に来ると川本五郎は「貴方に捧げる剣の舞です」と言って演奏を始めた。

川本五郎が演奏する剣の舞は皆がこれまで聴いたことがない演奏だった。

一曲の演奏時間が通常の半分近くだったのだ。

 録音した演奏を早送りすれば一曲を半分の時間で聞くことはできるが、その場合は音が切られたり高音になったりする。

五郎の演奏では全ての音が正確に発せられていた。

蜂谷は五郎の指先の動きを目で追うことができなかった。

続いて演奏された通常の速度の演奏は非常にゆっくりとした演奏に聴こえた。

「信じられません。だれもそんなに早く演奏はできません」と言って蜂谷美代は席に戻って行った。

 「さて4番目も音楽ですね。二つ先のクラスの木越さんの希望でバイオリン演奏です。こじつけですが木越さんだから木越ネルワイゼンでどうですか。」

「チゴイネルワイゼンでお願いします。」

「木越さんはピアノもできましたね。」

「私のことを知っているのですか。はい、何とか。先ほどのような演奏はとてもできませんが、譜面があれば何とかできると思います。」

「それは良かった。ピアノ伴奏をお願いできますか。最初は木越さんの伴奏付きで次は独奏でやろうと思います。えーと、チゴイネルワイゼンはこれだったかな。」

そう言って川本五郎は壁の棚から楽譜を取り出してピアノの譜面台に載せた。

 川本五郎はテラスから木越千恵をピアノまでエスコートし、棚からバイオリンを取り出し、弦を簡単に弾いて調律を終えた。

「それでは始めますか。木越さん、前奏をお願いします。」

そう言って川本五郎はチゴイネルワイゼンのバイオリン演奏を始めた。

川本五郎のバイオリンから奏でる音は十分に大きい音で女生徒達の心を揺さぶった。

伴奏付きの演奏が終わって独奏になると川本五郎はバイオリンに小型マイクを付けて演奏した。

マイクからの音はテラスの天井の4隅のスピーカーから流され、バイオリン本体からの音と重なって音色に微妙なビブラートを追加した。

テラスにいた女生徒達は熱い涙を流した。

「ありがとうございます、川本五郎さん。こんなマイクの使い方があるとは思っておりませんでした。」

そう言って木越千恵はテラスの席に戻って行った。

 「さてっと、次の5番目は社交ダンスですね。隣のクラスの渡辺明日花さん。確か渡辺さんのお宅は社交ダンスの教習所でしたね。社交ダンスは小さい頃から慣れ親しんでいたのですね。パートナーはおられるのですか。」

「いいえ。川本さんに最初のパートナーになってほしいと願いを書きました。」

「了解。渡辺さんが今履いているのは6㎝のヒールですね。そのままで踊れますか。」

「大丈夫です。」

 「楽しそうですね。クイックステップなしでワルツとタンゴとスローフォックストロットの3曲でどうですか。」

「クイックステップもお願いします。」

「大丈夫ですか。」

「大丈夫です。」

「分かりました。4曲踊りましょう。準備をしますから5分待っていて下さい。」

そう言って川本五郎はカラオケを元の壁の位置に戻し、選曲をしてから母屋に入って行った。

 しばらくすると川本五郎は紺色のテールコートと紺色のエナメルダンスシューズと白手袋のいでたちで現れた。

カラオケのスイッチを押してから川本五郎は椅子に座っていた渡辺明日花の手を取って優雅にテラスの中央にエスコートした。

ワルツの前奏が始まると川本五郎は優雅に相手にお辞儀をしてから左手を差し伸べ、明日花の右手を取ってホールドしてワルツを踊り始めた。

 川本五郎は優しく優雅にワルツを踊り、タンゴはキレを入れて踊り、スローフォックストロットは淀みのない流れのように踊り、クイックステップは相手を疲れさせないように幾分歩幅を小さくして踊った。

それでも渡辺明日花は4曲を踊り終えると汗を吹き出していた。

「川本さんは父よりずっと上手だと思います。こんなに軽々と踊れたことは初めてです。まるで川本さんの胸に吊り下げてもらって踊っているようでした。」

「ありがとう。僕の社交ダンスは独学です。うまくリードできて良かった。」

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