第3話 2、怪物の川本五郎
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川本五郎は高校在学中でも受験できる二つの国家試験を受験し、合格していた。
一つは年齢制限のない司法試験で司法試験予備試験を通り、司法試験を受験して合格した。
司法試験は永久免許で更新の必要もなかった。
もう一つは公認会計士で公認会計士の1次試験と2次試験に合格し、いわゆる会計士補になった。
この試験合格者という資格も永久資格で更新の必要もなかった。
もちろん、これらの試験に通ったからと言って裁判官や公認会計士になれるわけではない。
それらになるためには相当の実務経験が必要なのだ。
川本五郎はそのどちらにもなるつもりはなかった。
これらの試験の試験日の多くは土曜日と日曜日になっていたが、どちらの試験にも土日でない金曜日が含まれていた。
その場合、川本五郎は律儀に学校に休暇届を提出した。
休暇届の理由欄には通常の「家事都合のため」ではなく「司法試験受験のため」とか「公認会計士試験受験のため」と書いた。
高校生の川本五郎はまだ精神的に未熟で、自慢をしたかったのだった。
クラス担当の教諭は驚いた。
どちらの試験も人をしてその後の人生をかけるに値する試験だったからだ。
川本五郎からどちらの試験にも合格したと報告を受けたクラス担当の若い教諭は羨(うらや)みの気持ちを持って「おめでとう。それで、君はどちらに行きたいのだね」と五郎に尋ねた。
川本五郎は「今の気持ちではどちらにも行くつもりはありません」と答えた。
川本五郎は自分にはまだ知らない世界があることを知っており、気持ちは状況によって変わるものだと言うことを知っていたからだ。
川本五郎はあと二つの国家試験を受けたかった。
一つは医師国家試験で、一つは国家公務員総合職試験であった。
医師資格は何かと便利そうであったし、国家公務員総合職は外交官になる道が開かれる可能性が高かった。
川本五郎は外国に行ってみたかった。
これまでの五郎の生活圏は自宅と高校の間の狭い領域であったからだ。
外国の情報は知っていたが実際に見たことはなかった。
川本五郎は1ヶ月の準備期間さえあればどちらの試験にも合格できる自信があった。
川本五郎は速読でき、その内容を素早く理解し、記憶することできたからだ。
そんな自身の能力を川本五郎は中学生の時代に気がついていた。
教科書のページを一瞥しただけで全ての文字と図が頭の中に写され、内容も理解できた。
要するに川本五郎の頭脳は五郎の筋肉と同様に常人よりも早く働くことができたのだった。
しかしながら、医師国家試験は大学の医学部を卒業しなければ受験できなかったし、国家公務員総合職には18歳以上という年齢制限があった。
川本五郎は日本国で最難関の医学部の一つであると知られていた東京大学の医学部に入ることにした。
外交官になるためには東京大学卒業が暗黙の必須条件であると聞いたことがあったからだ。
川本五郎は東京大学医学部の入学試験に当然のように合格した。
川本五郎の在学した高校からは毎年のように東京大学への入学者が数名いたが、理Ⅲの医学部に入学した生徒は近年では川本五郎が最初であった。
五郎と同学年の三年生の生徒達はだれもが当然だろうと納得した。
3年間のペーパーテストの全てで川本五郎の答案用紙が模範解答として毎回、掲示板に掲示されていたので、同窓生は川本五郎の3年間のテストの平均点が99点以上であることを知っていたからだった。
卒業式の後でクラス担当の教諭は答辞を終えた川本五郎に聞いた。
「川本くん卒業おめでとう。いよいよこの学校から怪物がいなくなるのだな。どうして君はそんなに凄いのだ。」
「怪物ですか。・・・そうかもしれません、先生。僕が凄いのは僕が怪物だからだと思います。想像ですが僕は昨年死んだ父に造られたのだと思います。自宅の地下にはいくつかの試作した人工子宮装置や人工胎盤装置がありました。僕はそこで育てられたのかもしれません。」
「君の自宅の門には確か「川本研究所」と書かれた看板が掛かっているそうだな。お父上は何を研究していらっしゃったのだ。」
「哺乳類の多倍体細胞です。父が元気だった時には2倍体マウスのES細胞(胚性幹細胞、Embryonic Stem Cells)を3倍体や4倍体や5倍体や6倍体や8倍体や10倍体や12倍体細胞にしてから体細胞に分化させていたようです。結局、安定した倍数性を持つ多倍体ES細胞は5倍体細胞と6倍体細胞だけだったようです。5倍体細胞と6倍体細胞だけが安定だった理由はそれらの細胞が持つDNAの特殊なゲノム構造のためです。細胞を不安定にさせるDNA減衰ができないDNA構造になっていたのです。父はマウスに飽き足らなかったのかもしれません。」
「確か、われわれ人間は2倍体だったよな。1倍体の精子と1倍体の卵子が合わさって2倍体になるのだったな。君はお父上の研究を知っているのか。」
「はい、父の論文を読んで勉強しました。人間は多倍体細胞が体を構成することを嫌(きら)っているようです。正常な2倍体ヒトでも胚盤胞の栄養膜からできる胎盤には4倍体細胞が含まれています。でも通常では多倍体胎児はできません。マウスの4倍体の胚盤胞の内部細胞塊に2倍体ES細胞を入れると4倍体細胞は胎盤になり、入れた2倍体の細胞だけで胎児が形成されます。一緒に混ざっていた4倍体の細胞は胎児を構成しません。『4倍体胚補完法』と言って実際に利用されているのですが、なぜそうなるかの理由は未(いま)だに不明です。この方法を発見した研究者もなぜそうなるかを論文内では言っておりません。この方法はいろいろな専門書で説明されているのですが、そんな本で解説している何人もの高名な学者もその理由を記述することを巧妙に避けています。オリジナルの論文で理由が述べられていないのだから当然だと思います。父はその障害を排除する方法を見つけたのかもしれません。」
「僕には君が言っていることをほとんど理解できないが、君は多倍体人間かもしれんということだな。名前が五郎だから5倍体の男かもしれんな。5倍体人間かな。」
「ぼくも恐いのでまだ自分の染色体を調べてはおりません。医学部に入ったら自分で調べて見ようと思います。」
「それがいい。だが他人には言わない方がいいな。君のような怪物がどんどん出て来られたら我々のような普通の2倍体人間にとっては脅威だよ。」
「そうですね。肝に命じます、先生。」
「もう少しいいか。だがなぜ多倍体人間はできないんだ。簡単に教えてくれんか。とっかかりができればインターネットで調べることができる。」
「僕にもまだ分かりません。ただ父の論文によればヒトのDNAは一本に繋がっているようです。環状DNAを持つ下等動物と同じ構造ですね。ヒトの場合には父親の環状の1倍体DNAリングと母親の環状の1倍体DNAリングが特定の場所で結合して8字型の構造になっているそうです。それぞれのDNAリングの中の並び方は同じですからそのままではリングが重なった時に影響が出て来てしまいます。それで二つのリングは8字の交点で反対称になっているようです。DNA自体は弱いので捻(よじ)れて丈夫になります。二本のゴムの紐を捻ればコブができますがどんどん捻っていくとどんどん大きなコブが色々な場所でできてきます。ヒトの場合、最終的なコブが染色体になります。ヒトのDNAのコブはいくつかの段階の大きさを持っています。具体的にはヒトゲノムは6階層の反対称8字型のフラクタル構造を持っているそうです。えーと、小さい方からヌクレオソーム、遺伝子対、レプリコン、染色体バンド、染色体、ゲノムだったかな。ですから全ての染色体はDNA鎖で繋がっていることになります。」
「染色体ならおれも知っているぞ。だが染色体はバラバラだったんじゃあなかったか。」
「染色体がバラバラであることは証明されておりません。逆に染色体が繋がっているという証拠はたくさん存在しています。それに染色体が繋がっていなければ細胞分裂の時の染色体ロゼットは簡単にはできません。」
「細胞分裂は俺も教わったことがある。細胞分裂では染色体が対になって左右に別れるのだったな。」
「そうです、先生。大抵の細胞分裂のイラストでは細胞分裂を横から描かれています。軸側から描かれたものはほとんどないと思います。細胞分裂を軸側から見ると染色体はリング状に配置されています。それが染色体ロゼットです。ロゼットとはバラの花びらのように円形に配置された形です。円形の染色体ロゼットでは中間サイズの相同染色体は必ず対称的に配置されます。大型の染色体とか小型の染色体は近くに配置されます。それは染色体のリングが反対称8字的な構造を持っているという証拠です。反対称リングを重ね合わせれば中間サイズの相同染色体は遠くに配置され小さい相同染色体や大きい相同染色体は近くに配置されることになるはずです。」
「確かに俺が記憶している細胞分裂の図は横からのものだった。」
「ゲノムの反対称8字構造は便利なのです。体細胞では反対称なので8字の輪が重なっても同じ染色体が近づくことが絶対にできないから体細胞は安定するし、逆に生殖細胞の減数分裂では8字の輪の一つを180度回転させるだけで重なった時に全ての染色体を一気に対合させることができるので簡単に減数分裂ができます。染色体がバラバラだと思うのは染色体検査で得られる画像が染色体を持った細胞をガラスに落としてバラバラにしている画像を根拠にしているからだと思います。」
「分かった。いいことを聞いた。今度、友達の検査技師に出会ったら言ってやるよ。『おまえ、間違っているぞ』って言えたら気分がいいだろうな。少しはイメージできるようになった。それで多倍体のゲノム配置というのはどうなるのだ。」
「先生、興味を持たれたようですね。多倍体化することは細胞質分裂をさせなければ簡単にできます。あるいは電気刺激で細胞融合させることでもできます。でもそんな多倍体化細胞内ではゲノムは繋がっていないで単に重なった状態になっているのです。多倍体化細胞と多倍体細胞は全然違うんです。多倍体化細胞が多倍体細胞になるためにはゲノムのつなぎ合わせが必要なのです。重なった8字ゲノムの交差点で2重8字が互いに繋ぎ替えが起こって大きな8字構造になるんです。いろいろな繋ぎ換えの可能性があるのですが2倍体と同じような反対称8字型になったものだけが生き残ります。でもこのままでは細胞は安定しません。2倍体と違ってリングが重なると同じ染色体が近づいてしまうのです。同じ染色体が近づくとDNA合成をしないでバイパスしてしまう場合が起こり、その染色体は細胞分裂でなくなってしまうのです。それが細胞分裂のたびに起こってDNA量は減少し、鏡像関係が失われ、同じ染色体が近づかなくなるまでDNA減衰が続きます。実際には4倍体細胞は3.5 倍体のDNA量に対応する細胞になるし、8倍体細胞は6倍体のDNA量になるまで減少します。」
「君はさっき5倍体と6倍体が安定だと言っていたな。それがその6倍体なのか。」
「違うと思います。ランダムに染色体がなくなった結果の6倍体と2倍体リングと4倍体リングで構成される6倍体はゲノム構造が違うと思います。」
「わかったぞ。5倍体は2倍体リングと3倍体リングからなるダルマ型のゲノム構造だな。それなら絶対に重ならない。超安定だ。普通の2倍体細胞より安定になるはずだな。」
「僕にはまだ分かりません。父の研究結果ですから。」
「ふうむ。そうだとすると君には子供はできないかもしれんな。今一生懸命想い出しているのだが、精子ができる減数分裂では確か最初にDNA合成して4本の重なった染色体を作ってから2回連続して細胞分裂をして1倍体ができるのだったな。2倍体リングと3倍体リングの構造だとしたら減数分裂で、えーと何だったかな、そう相同染色体は近寄れないのだから2回連続分裂ができないことになるのではないか。」
「そうかもしれません。父方と母方の相同染色体がキアズマ形成して遺伝子乗換もできないのですから、まともな精子は出来ないかもしれませんね。5倍体の怪物は子孫を残せない。正常な人間にとっては安心です。」
「何と言っていいか分からんが、安心の気持ちも少しある。」
「でも先生。動物の子孫を残す機構は神秘的です。どうなるかはわかりません。ダルマ型の2つのリングには元々減数分裂でリングを反転させることができる部位がそれぞれ1箇所と2箇所あるはずです。それぞれのDNAリングからは2つと3つの1倍体小リングが生ずる可能性があります。そうなったらどうなるか分かりません。僕が結婚したらわかるかもしれませんね。」
「そうだな。君のような人間が君のような子孫を残すことができれば新人類が生ずるわけだ。少し古いがノストラダムスが言っている新人類かもしれんな。そうなったらノストラダムスの2倍体人間世界についての予言は当たらない世界になるわけだ。」
「先生は博識ですね。」
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