第12話 11、少林寺拳法との野試合

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 パーティーの事件の後、各国大使館の川本五郎への美女攻勢はしばらく止んだ。

公園のベンチには美女はおろかだれも五郎を待っていなかった。

各国の大使は自分の身で感じた川本五郎の恐ろしさをなかなか忘れることができなかったのだ。

あの日、川本五郎の気迫は会場全体を蓋(おお)った。

誰もが恐怖ですくみ上がり、体を動かすことができなかった。

川本五郎の姿の後ろに牙を剝(む)きだす巨大なライオンか、怒りの形相で睨み皮膚から火を吹き出す龍か、あるいは何か得体の知れない黒い影が重なって見えたのだ。

 公安のエージェントは恐怖に慣れていて執念深いのかもしれない。

川本五郎には二人の仲間が両眼を潰されて職場から去っている。

自分たちが悪いことはわかっているが何らかの復讐をしなければ気が済まなかった。

 もちろん川本五郎は外交特権を持つ外交官だ。

公安が殺したり痛めつけたりすることはできない。

だが、どこかのバカな一般市民がたまたま川本五郎と喧嘩をするという設定をすることはできる。

それも上司からの命令ではなく現場の人間が勝手にしたという設定だ。

 ある日、いつもの公園の森の中の道をジョギングしていると道のまんなかに一人の痩せた男が立っていた。

その男の髪の毛の先の湯気はほとんどなかった。

川本五郎がその男の横を通り過ぎようとコースを道脇に取ると、その男は五郎の側の片手を横に広げて言った。

「少し通り過ぎるのを待ってくれんか。」

川本五郎は走るのを止めて言った。

「僕に用ですか。」

 「そうだ。お前は強いそうだな。俺はお前と野試合をしたい。」

「誰かに頼まれたのですね。」

「自発的にしていると思ってほしい。」

「どんな試合をしたいのですか。」

「素手での戦いだ。おれは中国拳法を使う。」

「ひょっとして有名な少林寺拳法ですか。」

「そうだ。」

「いいですよ。野試合を受けましょう。少林寺拳法ですか。映画で何度も見ています。ワクワクします。」

「本当に野試合を受けてくれるのか。」

「受けます。結果に文句はいいません。」

 「驚いた。外交官だと聞いている。まさか試合を受けてくれるとは思わなかった。」

「場所はどこにしますか。」

「ここでやろう。仲間がここに人が来ないようにしているはずだ。」

「分かりました。ここで試合をしましょう。正直な方ですね。人を通さないことができる仲間というのは公安の人たちですね。」

「そうかもしれん。」

「僕はこのままでOKです。互いに怪我をしても恨みっこなしですよ。」

「当然だ。」

「日本の川本五郎です。」

「中国の龍空海だ。」

 二人は3mの距離をとって対峙した。

 龍空海は左半身になり、両肘を体側前につけ、左手を立て右手を前に上向きに出し、両掌を開いて構えた。

川本五郎は相手と正対し、両肘を胸につけ、両手を上に立て、両手は軽く握って構えた。

五郎はそのままの形で50㎝ほど後ろに跳び、地面をすばやく数歩蹴って龍空海の右正面に飛び込んだ。

川本五郎の動きは弓の弦から放たれる弓矢の矢と同じだった。

地面を数回小刻みに蹴ることによって連続した加速度を加え弓の弦が戻る速度を得たのだ。

龍空海にとっては3mの近距離から人間の矢を射られたことになる。

それに反応できるはずがない。

 人間の神経の伝達速度は最速でも毎秒120mだから反応に必要な時間はどんなに早くても0.1秒だ。

弓矢の速度は毎時200㎞だから放たれた矢は1秒で55mは進む。

反応時間の0.1秒では少なくとも5mだ。

ボクサーのパンチは時速36㎞で、0.1秒では1m進む。

1m以内の距離ではパンチを見てからでは避(よ)けることはできない。

 少林寺拳法家といえども3mの距離では矢と同じ速度の相手の動きを見てからでは反応できない。

動きを予測できない限り対応はできない。

川本五郎は龍空海の正面に飛び込み、空海の右手を体で押して後ろに移動させ、背中に左手を回して体を密着させ、右手を龍空海の股間に入れ空海のふぐりを強く握りしめた。

 人間は構造上、側面の攻撃は難しい。

脚は前と後ろにしか動かず、龍空海の自由な左手も五郎の密着した肩が邪魔で五郎を打つことができない。

龍空海にとって、残る攻撃の手段は右足で五郎の足の甲を踏みつけることと、首を曲げて頭突きをくらわすことだった。

川本五郎はそれを予想していたらしく、龍空海の右足に自分の足を密着させて動かないようにさせ、頭を曲げて龍空海の首に密着させた。

 「どうです、龍空海さん。こんな攻撃は初めてでしょう。あとはあなたの股間の玉を潰せばいいわけです。僕の力が強いことは動けないから分かりますね。ですから玉を潰すことができます。」

「くそっ。」

「分かりました。まだ戦いたいのですね。」

そう言って五郎はふぐりを握った右腕だけで龍空海をそのまま真上に放り上げた。

 龍空海の体は6mも上がった。

龍空海は空中で手足を伸ばして必死に体のバランスを取っていた

拳法の達人といえども2階の窓の高さから飛び降りる時には着地にそれなりの注意を払わなければならない。

しかも空中では体の向きを変えることができない。

 龍空海は何とか脚を曲げて着地したが、そこには川本五郎の蹴りが待っていた。

川本五郎はご丁寧に龍空海の右側面の位置で待っていて着地した龍空海の腰に自分の脚を痛めないように足裏での前蹴りを見舞わせた。

龍空海は五郎の動きを見て五郎の攻撃を理解していたが何もできなかった。

落下中に側面からの攻撃を防ぐことはできない。

脚は横には動かないし、右腕も防御には使えない。

第一、そんなことをしたら体のバランスが崩れ、着地に失敗することになる。

龍空海は川本五郎の攻撃を甘受せざるを得なかった。

 龍空海は着地直後に川本五郎の前蹴りを腰にくらい、50㎝ほど横倒しに飛ばされた。

強い打撃の割には龍空海の体は大きく動かなかった。

それだけ川本五郎の打撃が早かったのだ。

龍空海の骨盤はいくつかの場所でヒビが入ったり折れたりし、右脚は脱臼していた。

龍空海は痛みで顔をしかめ、立ち上がることができなかった。

「勝負ありましたね、龍空海さん。」

川本五郎は龍空海に言った。

「負けた。初めてだ。お前は化け物だ。人じゃあない。」

「怪物かも知れませんが僕はれっきとした人間ですよ、龍空海さん。もう歩けないと思います。このままでいいですか。それとも救急車を呼びましょうか。」

「そのままでいい。仲間が何とかするだろう。」

「了解。少林寺拳法を見ることはできませんでしたが別の機会もあるでしょう。お大事に。」

そう言って川本五郎はジョギングを始めて公園の森の道をいつものように走って行った。

 川本五郎が公園の森の道を進んでゆくと前方に大きな黒のワゴン車が道に沿って止まっており、6人の黒服黒サングラスの体格の良い大男達がワゴン車に寄りかかって近づいてくる川本五郎を見ていた。

川本五郎はジョギングの速さを変えず道の中央を通ってまっすぐ男達に近づいて行った。

男達は川本五郎が無傷で近づいてくるのを見て動揺しているようだったが、ワゴン車に寄りかかるのを止めただけでワゴン車の横に一列に並んでいた。

 川本五郎はジョギングのスピードを少し落として男達の前を無言で通り過ぎようとした。

男達の一人が「ちっ」と言ってからポケットからスタンガンを取り出した。

それを見て他の男達もポケットからスタンガンを取り出した。

川本五郎はジョギングの速さを利用して跳び上がりワゴン車の屋根の上に立った。

男達は一瞬戸惑ったがすぐさま車の上の五郎を見つけて見上げた。

 五郎は一番端の一人の男の頭に飛び降り、首を曲げてからワゴン車と男達の背中の間に着地した。

男達が体を回転させようとしたとき五郎は男達の両眼に次々と硬くした人差し指と中指を突き立ててから引き抜いた。

人間は体を回転させるときは必ず頭を先に回転させる。

五郎はワゴン車と男達の間を駆け抜けるように走り抜けてワゴン車の方に向き終えた顔の目を潰していったのだった。

 今度の両眼潰しは川本五郎は容赦しなかった。

男達の両眼は顔の外に垂れ下がっていた。

五郎が両眼から指を抜くときに指を曲げたからだった。

男達は悶絶し自分の眼球が眼窩から飛び出していることを目を覆った手の感触から分かったらしい。

必死に眼球を手探りで探し当て眼窩に戻そうとしていた。

 川本五郎は男達の一人からスタンガンを取り上げ、ワゴン車の横のドアを開けて中に入り運転席にいた男の首筋にスタンガンを付けてから初めて言った。

「お前達はだれだ。何で僕を襲うんだ。」

男は答えなかった。

五郎スタンガンを持った手を首に回して男の喉にあて、右手を男の顔面に回して人差し指と中指を男の両眼に素早くつけた。

男はまぶたを閉じることができなかった。

「お前の仲間5人の眼球は顔の外に引き出された。お前もそうなりたいか。」

「助けてくれ。」

「もう一度いう。お前達は誰だ。」

「北京の一般市民だ。」

 川本五郎は「そうか」と言って指を眼窩に突き刺した。

男の叫びと共に男の眼球は眼窩の中で潰れた。

五郎は血で濡れた右手の指を相手のスーツの肩で拭ってから言った。

「僕は嘘つきは嫌いだ。お前は僕を軽視して嘘を言った。そのためお前は両眼を失った。外の男達は垂れ下がった眼球を眼窩に戻せば見えるようになれるかも知れないが、お前の眼球は潰したので一生目暗だ。もう一度聞く。お前達はだれだ。次に嘘を言ったら首を折る。すでに仲間の一人は首を折って死んでいる。慎重に答えるんだな。」

「中国の公安のエージェントだ。だが上司の命令ではない。目を潰された仲間の仕返しをするために親しい仲間で計画したことだ。公安の公式の仕事ではない。それだけは確かだ。」

男は両手で眼を覆いながら必死に答えた。

 「死ななくてよかったな。信用しよう。僕の胸ポケットにはカード型の録音機が入っている。今の話は録音されている。僕はここから去るが、もう僕には関わるな。分かったか。」

「分かった。お前は凄すぎる。」

「龍空海の腰骨は折れて脚は脱臼している。何とかしてやれ。」

「そうする。」

 「後は大丈夫だな。車の無線は見えなくても使える。この道の反対側にいる仲間に連絡できるだろう。後は仲間が面倒を見てくれる。」

「そんなことも知っているのか。」

「僕の推測だ。この道はよく人が歩いている。今日は誰にも合わなかったから容易に推測できる。」

「分かった。仲間に連絡する。」

「じゃあな。」

そう言って川本五郎はワゴンのサイドドアを開けた。

 ドアの前には一人の大男が拳銃を構えて立っていた。

大男の両眼は眼窩から垂れ下っていた。

公安の気丈な猛者だったのだろう。

眼窩から流れる血が眼球を吊り下げていた筋繊維を伝って眼球から滴り落ちている。

何とか一矢を報いようとしていたようだった。

五郎は素早く右前に跳び、男の拳銃を掴んでから男の手首に手刀で見舞って拳銃を奪った。

 「もう止めよう。お前の拳銃が向いていた方向は仲間の運転手の方だった。撃っていたら仲間は死んでいた。」

そう言って川本五郎は拳銃をワゴン車の床に置いた。

「運転手、早く無線で仲間を呼べ。みんな助からなくなるぞ。僕は行くからな。」

そう言って川本五郎はジョギングをして走り去って行った。

 川本五郎は大使館に帰ってから事件を大使に報告し、証拠として録音のコピーを渡した。

事件の顛末の証拠の録音チップは中国から抗議を受けた時の説明に必要だった。

もちろん川本五郎の龍空海との戦いも川本五郎への公安エージェントの攻撃も公園のほとんどあらゆる場所を網羅している監視カメラに映っているだろう。

そこには川本五郎の超人的な速さと筋力が映っている。

 川本五郎が外交官でなければ当然警察に逮捕される事件であった。

川本五郎が正当防衛をしたことは明らかだろうが五郎が外交官でなければ逮捕して事情を聞くことは可能だった。

不逮捕特権を持つ川本五郎を逮捕することはできない

しかしながら、一度派手な事件を起こして中国公安の猛者エージェント6人を全盲にし、一人の首を折った事実が消える訳ではない。

しこりが残る。

やられた方は逆恨みをする。

 川本五郎は日本へ密書を送るというつまらない用事を言いつけられ、中華人民共和国から日本国に戻った。

語学研修の1年間が完了する前ではあったが、川本五郎の中国語研修は完了したことにされた。

川本五郎は春の人事異動で外交官としては二等書記官になった。

異例とも言えるかもしれない昇進だった。

それには駐中国日本国大使の強い推薦があったからかもしれなかった。

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