第11話 10、パーティー

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 噂はすぐに広まる。

日本の川本五郎と知り合いになりたいと思う大使館は五郎のジョギングに合わせて公園のベンチの近くに若い美女を待機させた。

「何でもいいから川本五郎の情報を得よ」が美女に与えられた命令らしかった。

川本五郎もいろいろな国の美女とその国の言葉で話すことは楽しいことだった。

もともと大使館は外国人との知り合いを作ることも目的の一つだ

 日本大使館は小さなパーティーをしばしば開いたが、時にはホスト国の中華人民共和国が各国の大使を招いて大パーティーを行う場合がある。

ある時、川本五郎は各国の大使が招かれた大パーティーに大使に同伴して出席した。

大きな広間に多数の人々がグループを作って笑顔で話をしている。

川本五郎は日本大使の後ろに目立たないように立っていたが、五郎の『知り合い』の国の大使は五郎に声をかけるために近づき、ついでに日本大使と五郎を話題にして会話をしていった。

「川本君、君は人気者だね。君との知り合いをみんな自慢している。君は日本の広告塔だな。」

大使が言った。

 川本五郎は大使警護の特殊任務を持っていたので周囲に注意を払っていた。

パーティーの出席者の髪の毛の先の湯気を見るのもその一つだった。

多数の出席者にまじって公安の尾行者と同じ赤い湯気が見える出席者も何人かいた。

その中には派手ではないドレスを着た若い美人も一人いた。

その美人は何とか五郎の近くに行こうとしているようだったが、五郎の周りにはいつもどこかの国の大使が替わるがわるに近づいて来ていたのでなかなか機会が得られなかったようだった。

 突然、グラスが床に落ちて割れる音がして響(どよ)めきが会場内に広がった。

五郎達から10mほど離れた辺りで一人の中年のドレス姿の女性がグラスを床に落とし床にしゃがみ込んで喉を抑えていた。

女性は顔を真っ赤にして空気を求めて喘(あえ)いていた。

どこかの国の大使らしい。

お付きの男女が女性の周りにかがんで、女性の一人は中年の女性の腕を持って片手で背中をさすっていた。

中年の女性は空気を求めて痙攣を始めていた。

 会場の扉が開いて担架を持った救急士が入って来て倒れている女性に近づき担架に乗せようとした。

「大使、あれは急性の喘息発作です。担架に乗せて医務室に運んだら手遅れです。私が行って女性を助けてもよろしいですか。」

川本五郎は日本大使に言った。

「すぐに行って女性を助けたまえ。」

川本五郎は「了解」と言って周りを囲んで見守っている人々を掻き分けて女性に近づいた。

 「僕は医者だ。これは急性喘息発作だ。このまま医務室に連れて行ったら手遅れになる。メプチンを持っているか。持っていなければ指圧で呼吸を強制させる。」

五郎は担架に女性を載せようとしていた救急士に中国語で言った。

「うるさい。素人は口出しするな。」

救急士はそう言って五郎の言葉を聞こうとしなかった。

 『どけーっ。』

五郎は日本語で大声で叫んだ。

少し、怒りの感情が入っていた。

大会場は一瞬でざわめきが消えて静寂が訪れ、その後、色々な場所でグラスの割れる音が静寂を破った。

4名の救急士は担架を離し、尻餅をついて恐怖を顔に浮かべ、体を震わせていた。

失禁している。

倒れた女性のお付きの男女も凍りついたように動かなかった。

川本五郎の怒りの大音声(だいおんじょう)は会場の全ての人々に恐怖の感情を引き起こし、身を竦(すく)みあがらせ、持っていたグラスを床に落とさせたのだった。

猫に追い詰められたネズミのように、だれも恐怖で動くことができなかった。

 川本五郎は素早く倒れた女性に近づき、体をうつ伏せにし、両手の指を背骨の周囲に配置し、ピアノを弾くように複雑なタイミングを取りながら指を押していった。

最後に手首の骨で心臓あたりの背骨を叩くとうつ伏せの女性は咳き込んで呼吸を取り戻した。

女性は涙を流しながら早い呼吸を繰り返し、次第に落ち着いていった。

その頃になるとお付きの男女も動けるようになり、呼吸を取り戻した女性を介助して立ち上がらせた。

 倒れた女性はイスラエルの大使だった。

女性大使は立ち上がって川本五郎の方に向いて英語で言った。

「どなたか存じませんが、助けていただきありがとうございます。私はイスラエル大使のレベッカ・ルービンシュタインです。」

「助かって良かったですね、ルービンシュタイン閣下。私は日本の川本五郎です。」

五郎はヘブライ語で答えた。

 「まあ、綺麗な発音のヘブライ語ですね。どうぞこれからレベッカとお呼びください。私も五郎と呼びたいと思います。よろしいですか。」

「了解しました、レベッカ。私は大使の所に戻らなければなりません。失礼します。・・・あっ、そうだ。閣下は急性喘息の症状でした。さっき閣下にした施術は指圧です。背骨に通る神経網を適切な順番で指で押すことによって強制的に呼吸を起こさせました。ピアノの演奏をするようなものですね。そんな楽譜をお望みなら教えます。医務官を日本大使館によこしてください。でも指圧は間違えれば危険なものですから、メプチンを常備薬にされた方がいいですね。それでは失礼します。」

 そう言って五郎は周りを囲んでいた人垣に向かった。

人垣は自然と別れて五郎に幅の広い道を作った。

だれも五郎に近づきたくはなかった。

人々は五郎を獰猛なライオンや魔王のように感じていたのだ。

穏やかな風貌の青年ではあるが強烈な意思の力を秘めている。

五郎の一言で全身が恐怖で凍りつき動くことができなかったことを自身の身を以て経験していたのだ。

 救急士はまだ動けなかった。

恐怖の表情をしたまま体が震え続け、腰が抜けて立ち上がれないのだ。

しばらくすると別の救急士が担架を持って扉から入って来て腰の抜けた救急士達を担架に載せてパーティー会場から運び出して行った。

 「君は凄いね。君の『どけーっ』って言葉で僕は震え上がったよ。グラスを持っていることもできなかった。」

日本大使が戻って来た五郎に言った。

「すみません、大使。あの救急士の態度に腹が立って怒りの感情を込めて大声を出してしまいました。他の人に言ったつもりではなかったのですが、迷惑をかけたようです。」

「あの救急士達は腰が抜けて別の救急士に運ばれていったよ。当分立ち上がれないだろうな、体も心もな。」

 「私の言葉にそんな力があったとは知りませんでした。そう言えばこれまでの僕の生活では一度も怒ったことがありませんでした。僕が怒ったのは今回が初めてです。」

「まあ、君に怒られたくはないな。」

「気をつけます。」

「あの女の方はイスラエル大使だったな。」

「そうです。レベッカ・ルービンシュタイン閣下でした。紅玉のレベッカ閣下です。」

 「東大医学部では指圧も教えるのか。あれは指圧だろう。」

「いいえ、教えません。指圧は独学で学びました。上手くやれば自律神経を制御することができます。呼吸を取り戻すのは比較的に難しい施術です。心臓と違って呼吸は意志が働く脳脊髄神経系も入って来ますから。」

「そうだな。心臓は自分で止めることはできないが、呼吸は自分で止めることができる。と言うことは、君は背中を押して心臓を止めることができるのか。」

「背中だけではできません。でもそれは可能だと思います。」

「恐ろしいな。」

「別に恐ろしいことではありません。鉄砲で撃たれたり、首を絞められたりしたら簡単に死にますから。」

「それはそうだ。」

 この事件のあと川本五郎の近くに人は寄って来なかった。

川本五郎の声の凄まじさを身を以て味わった後では五郎に近(ちかず)く勇気は湧いて来なかったからだ。

そんな川本五郎に最初に近づいて来たのは髪の先に赤く輝く湯気を持った黒いドレスを着た例の美女だった。

中国公安の女間者は恐怖を克服するのが早いらしい。

 「こんにちは。貴方は立派な行為をなされました。よろしいですか。私は中国外交部の謝嘉嘉です。」

謝嘉嘉は英語で聞いてきた。

「いいですよ。美人の謝嘉嘉さん。私は日本大使館の川本五郎です。」

川本五郎は中国語で言った。

「先ほどの治療は指圧ですか。」

「そうです。指圧や針は中国でも盛んですね。私がいた大学にも鍼のツボの人体模型がありました。」

「私も見たことがあります。4000年前から伝わった秘術です。」

 「4千年前ですか。謝さんは鍼を始めたとされている黄帝の本をお読みですか。わたしはまだ黄帝内径素問しか読んだことがありません。」

「いえ、名前は知っておりますがまだ読んだことはありません。」

「そうですか。読まなくてもいいですよ。現存するものはほんの千年ほど前に改変されたものです。4千年前の本物ではありません。それに論理に理由付けがありません。ただ押し付けるだけの本です。」

「そうでしたか。でも鍼術は役に立っております。」

「そうですね。鍼術は貴重です。何千人の人民の犠牲の下に出来上がった施術法ですから。」

 「人民の犠牲とはどういうことでしょう。」

「ツボを見つけるためには人に針を刺さなければなりません。刺される人は奴隷か罪人か下級人民です。一つのツボを見つけるためには多数の人々の犠牲が必要なのです。絶対権力を持った黄帝だったからこそ、それができたのだと思います。巨大な権力は鍼術や万里の長城のように歴史に残ることを創ることができます。その権力の下で生活していた人民は迷惑だったでしょうがね。謝さんは歴史に残る業績を創り出すことができる強い権力とそこに住む人民の命とどちらが重要だと思いますか。」

「難しい質問です。私には答えることができません。」

「そうですよね。政府の機関に所属している謝さんにとっては当然の答えです。」

 川本五郎のチクチクといじめる話題を変えるため謝嘉嘉は言った。

「ドクター川本の先ほどの指圧を見ました。私が知っている指圧とは違っていました。どうしてでしょうか。」

 「謝さんが見たことがある指圧は教えてもらったり本に書かれたりしていたことを実行しているだけの指圧です。私が先ほど行った指圧は論理に従って私が組み立てた指圧です。症状によって指圧の場所と順序とかける力が違ってきます。おそらくそんな指圧はまだないと思います。」

「ドクター川本が考えられたのですか。」

「そうです、私は医学部で神経網を学びました。神経を制御して遮断すれば自律神経系でも制御できるはずです。今回の施術法はあの場で考えたことです。犠牲者無しで成功しました。これで急性喘息発作は背中の指圧で治すことができると分かりました。」

 「以前、同僚が急性の喘息発作で廃人になったことがありました。ドクター川本ならそれを治すことができたのですね。」

「今ならできます。ついさっき考え出した施術法ですから。急性の喘息発作は突然だれにでも起きます。私にだって起きるのです。残念ながら私は自分の背中を押すことができません。不公平だと思いませんか、謝さん。」

「そう思います。」

「そうですよね。それで私の治療カバンには常に気管支拡張剤のメプチンを入れてあります。ご同僚もそれを持っていたら良かったですね。」

「残念でした。」

 パーティーはとんだハプニングを払拭するように楽隊ステージの前あたりのテーブルが片付けられて大きな空間が作られた。

ダンスが始まるのだ。

楽隊の演奏が始まり、ポツリポツリとカップルが登場しダンスを踊り始めた。

川本五郎にとって、その時の目の前の女性は黒ドレスの美女だった。

「謝さんはダンスができますか。踊りませんか。」

「何とか一通り。ドクターと踊れるのは私の名誉です。」

「大使、謝さんと踊って来ますがいいですか。」

「もちろんだ。僕も君のダンスの才能を見たいよ。」

 川本五郎は謝嘉嘉を連れてホールに行った。

その時の音楽はタンゴだった。

互いに一礼して二人はタンゴを踊り始めた。

謝嘉嘉はダンスが上手だった。

川本五郎は楽しんでタンゴを踊ることができた。

社交ダンスは六年以上も前の渡辺明日花以来だった。

川本五郎は派手なバリエーションを多数盛り込み、色気と激しさを表してタンゴを踊りきった。

謝嘉嘉も五郎のリードに挑むように的確に反応した。

 「謝さん、上手ですね。8年ぶりですが楽しく踊ることができました。」

「川本さんもとてもお上手です。私、自然と踊らされてしまいました。」

「次もいいですか。」

「もちろんです。お願いします。」

次の曲はクイックステップだった。

パーティーは年配者が多くクイックステップではホールの人数は減る。

川本五郎と謝嘉嘉はホールを縦横に流れるように踊り回った。

五郎は意地悪してクイックステップではバリエーションを加えて謝に休息を与えることはしないで、ひたすらベーシックでホールを走り回った。

 「ごめんなさいね、謝さん。謝さんの体力を調べるために休まないで走り続けました。」

曲が終わると川本五郎は息も乱していない涼しい顔で、汗を吹き出している謝嘉嘉に謝った。

「まいりました。私は喘いでいるのにドクターは涼しい顔をなさっているのですね。」

「ジョギングで鍛えていますからね。次はワルツです。まだ踊れますか。」

「ここまで来たらお付き合いします。」

ワルツでは川本五郎は謝嘉嘉を優しく扱った。

バリエーションを連続して続け、ホールを動き回ることはしなかった。

ワルツではホールには多くのカップルが思い思いに踊っていたのもそうした理由の一つだった。

 「ありがとう、ドクター川本。優しいのね。」

謝嘉嘉は踊り終えて五郎を見つめながらそう言った。

謝嘉嘉の髪の毛先の赤い湯気は薄くなっていた。

次はルンバだった。

川本五郎は謝嘉嘉が美しく見えるようなポーズが取れるように嘉嘉に踊らせてやった。

 その次の曲は遅めのスローフォックストロットだった。

川本五郎は最初、少し大股で流れるような速さでホールを縫って踊った。

遅いスローフォックストロットを大きく踊ることは体の制御が難しい。

謝嘉嘉は五郎の動きについてこられなかった。

五郎は曲の途中から左腕を曲げて脇を閉じ右腕のホールドを深くして謝嘉嘉を抱きかかえるようなホールドに変え、周囲の皆と同じようにブルースを踊った。

謝嘉嘉の細身の腰の動きが五郎に伝わり、大きな乳房が黒のドレス越しに五郎の胸を優しく押した。

 曲が終わると川本五郎はホールから周囲の輪に戻り謝嘉嘉に言った。

「ありがとう、謝嘉嘉さん。僕は大使の所に戻らなければなりません。また機会があったらダンスを踊ってください。」

謝嘉嘉は答えた。

「私も川本五郎さんとお話しできて良かったと思っております。久々に楽しく踊ることもできました。」

 川本五郎は日本大使の近くに一人で戻った。

謝嘉嘉にしても化粧が汗で乱れた顔を見せたくないだろうと思ったからだ。

大使が言った。

「君はダンスが上手いな。圧倒的に目立っていたよ。あの娘(こ)もうまかった。」

「社交ダンスは8年ぶりでした。」

 帰りの車の中で日本大使は五郎に言った。

「さっきの娘はなかなかの美人だったな。中国の外交部だって。」

「大使、あの娘は我々の敵です。外交部ではありません。公安のハニートラップエージェントですね。あのパーティー会場に何人かいた公安エージェントの一人です。私は興味がありません。」

川本五郎は吐き捨てるように静かに言った。

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