第10話 9、インドのアーシャ

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 川本五郎のジョギングのコースはほとんど決まっていた。

大使館巡りをしてから大きな公園のベンチで休憩してから公園を縦断して日本大使館に帰る。

公園は縦横が2㎞と1㎞の広さを持ち、いろいろな場所で休むことができた。

公園のベンチは川本五郎に接する都合のいい場所だった。

 ある日、川本五郎が公園のベンチで休んでいると五郎と同じようなジョギングウエアを着て長い黒髪を野球帽で押さえつけた若い娘が五郎の前で走るのを止め、五郎に声をかけた。

「横に座ってお話ししてもいいですか。」

それはヒンディー語だった。

「おや、ヒンディー語ですね。どうぞ横に座って下さい。私もヒンディー語を話すのは久しぶりです。間違っていたら指摘して下さい。助かります。」

そう言って川本五郎は位置を少しずらした。

 娘はベンチに川本五郎の方を向くように斜めに座って言った。

「私はアーシャ。お隣のインド大使館の者です。貴方のことを調べるように言われ、待ち伏せしておりました。」

五郎も斜めに座って娘の顔を見て言った。

「僕は五郎。つい最近、日本から派遣されました。正式の名前は川本・五郎です。日本では氏名はあまり大きな意味を持ちません。」

「失礼しました。私の正式名はアーシャ・ジェット・シンと言います。どうぞアーシャとお呼びください。」

「了解。五郎と呼んでください。私のヒンディー語はどうですか。」

「訛りのない、きれいな発音だと思います。」

 「アーシャさんは私のどんなことを調べるように言われたのですか。」

「何でもいいから調べてこいと言われました。」

「いいかげんな命令ですね。調べれば分かりますが、そうですね。性格は温厚。二十数ヶ国語をこの程度に話すことができ、医者であり、弁護士にもなれ、抜群の運動神経を持つ好青年です。分かるように、少し自惚(うぬぼれ)を持っていますね。」

「まあ、率直な自己紹介ですね。」

「アーシャさんも自己紹介してくれませんか。自己アッピールを含めて。」

 「そうですね、性格は詮索好き。英語と中国語を話し、理系の大学を出ました。運動神経は並みです。若さと美しさに自信を持っております。私も自惚れを持っておりますね。」

「おや、アーシャさんも率直な自己紹介ですね。でも私の自己紹介と対応させました。論理が好きなのですね。」

「そうかもしれません。」

 「理系の大学では何を専攻なされたのですか。」

「女ですから生物学を学びました。」

「そうですか。アーシャさんにとって論理が通じる生物学でしたか。」

「生物学はあまり論理を重要視していないと思っています。理屈を後からつけているように思いました。でも日本のiPS細胞には感動しました。」

 「日本のiPS細胞ですか。だいぶ昔の話ですね。えーと、被誘導多能性幹細胞でしたね。僕の認識では正常の体細胞をがん化させて未熟化させるのでしたね。」

「五郎さん、がん化ではないと思います。未分化させるのです。」

「そうでしたね。制御されたがん化でした。世の中進歩していますね。この細胞が出た当時の名前は多能性(Pluripotent)でした。この細胞からは臓器はできても個体を作ることができる全能性(Totipotent)はありませんでした。最近の進み具合は不勉強でよく分かりませんが、胚を使えばクローンはできますが、まだiPS細胞からはクローンはできていないのではなかったですか。」

 「私も知りません。五郎さんはiPS細胞のことを医学部で学ばれたのですか。」

「いえ、医学部で教えるiPS細胞は講義でしたから表皮的でした。僕の場合、この辺りのことは中学校時代に勉強しました。父の研究を勉強しましたから。」

「五郎さんのお父様は研究者だったのですか。」

「そうです。・・・アーシャさん、ここで問題です。iPS細胞に関連した問題です。」

「面白いですね。何でしょう。」

「それでは問題です。・・・アーシャさんは池に住むイモリを知っていますね。英語でnewtと言う通り、すさまじい再生能力を持っています。足を切っても足が生えてきます。人間もそんな再生能力があったら便利だと思いませんか。そんな便利な能力だったとしたら長い進化の過程でずっと保たれていたはずです。でもヒトにはそんな能力はありません。せいぜい傷ができたらその場の細胞の一部が未分化されて周囲と同じ組織に分化して治癒します。いわゆる刺激惹起多能性獲得(STAP、Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency)が起こるわけですね。なぜヒトは進化の過程で便利な腕の再生能力を失ったと思いますか。」

 「そうですよね。腕や足を再生できたら便利ですよね。なぜ進化でなくなったのでしょう。待ってください、五郎さん。・・・そうか。これはiPS細胞に関連した問題でしたね。再生には細胞を未分化させてから分化させなければなりません。未分化にはiPS細胞でも使う癌遺伝子の発現が必要です。でも再生を失敗したらガンになります。ガンになったら止められないからヒトは死にます。死ぬより腕がない方がいいと思います。だからヒトは腕の再生能力を捨てたのだと思います。」

「ほとんど正解です、アーシャさん。ほとんどと言うのは後付けで理由を付けているのですが、答えの一つは人間の寿命が長いせいかもしれません。ヒトの寿命はおよそ90年。その間に腕を無くして再生しようとしたらガンになって死んでしまったなんてつまらないですね。」

 「その通りだと思います、五郎さん。ヒトは進化の過程で長い寿命を得るために再生能力を捨てたのですね。」

「僕の質問も不正確でしたね。『なぜ』と聞いてしまいました。『なぜ』と言う質問では『神様の思(おぼ)し召し』と言う答えでも正解ですから。『なぜ』の替わりに『どうして』を使わなければなりませんでした。」

「この質問はいい質問です。覚えておきます。誰かに質問したらみんな何て答えるでしょうね。私はiPS細胞の話の中だから答えることができたのだと思います。」

「こんな会話は面白いですね。また話をしましょう。一緒に帰りますか。行き先は同じ方向ですから。」

 川本五郎とアーシャはこれらの話をヒンディー語で話した。

広い公園ではあったが、二人の周辺に人はいた。

あたりを気にしないで、分からない言葉で熱心に話をしている若い男女は周囲の人たちの注意を引いたのであろう。

二人が公園の森の中の道を歩いて大使館に帰ろうとしていると森の中から10人の若い男たちが出てきて二人を囲んだ。

 「おい、おめえたち。でかい顔をするんじゃあねえぞ。ここは中国だぞ。わかっているんか。」

男たちの一人が川本五郎に言った。

五郎はアーシャを庇おうと思ったが、囲まれていたので後ろに置いても無駄だった。

五郎はアーシャを左側に置いたままにして相手に言った。

「おや、中国に来て初めて品の悪い中国語を聞きましたね。我々は外交官です。君たちを痛めつけても我々は逮捕されないことを知っていますね。」

「てめえ、おれっちを痛めるってえ。馬鹿か。」

 相手が言い終わると同時に五郎は無言で攻撃を始めた。

真正面の男の両眼を右手の人差し指と中指で突き刺し、右に跳んで跳びながら3人の男たちの両眼を潰した。

反転して左側の男たちの前を跳び越しながら、すばやく3人の両眼を潰して行った。

3秒もかからなかった。

五郎は着地すると同時に体を反転させて後ろに跳び、残る3人の両眼を潰した。

これには2秒かかった。

 男たちはまさか五郎が先制攻撃をしてくると思っていなかったらしい。

あっけにとられて口を開けたまま唖然としていたら目の前を黒い影が通ったとたんに目が見えなくなったのだった。

川本五郎は10人の暴漢を5秒で戦闘不能にしたのだった。

 男たちは両眼を手で抑え呻いていた。

人間は両眼の視力を急に失えば何もできなくなる。

相手を殴り倒すよりずっと効率がいい。

それでも男たちは大した者達だった。

電車の中の不良達とは違って泣き叫ばなかった。

 「さて、どうしましょうね、アーシャさん。殺したらまずいですよね。手足の骨でも折っておきましょうか。」

ヒンドゥー語だった。

「五郎さんは強いのですね。私には五郎さんが何をしたのかほとんど分かりませんでした。」

「ほら、自己紹介したように『抜群の運動神経を持つ好青年』だからです。いや、冗談を言っている場合ではないですね。一番いい方法はっと。・・・彼らに頼みますか。」

「彼等ってだれですか。」

「アーシャさんは気づいていなかったのですか。僕たちはずっと監視されていたのですよ。ほら、後ろ100mに二人の男がいるでしょ。彼らです。僕を見張っているのですね。中国に来てからずっとですよ。僕は重要人物みたいですね。それにしてもこの国は人が余っているみたいですね。」

 五郎はそう言って男達の方を向いて手を振ってから手招きした。

五郎が手招きした時には既に黒服の男達は足早に近づいて来る最中だった。

襲撃した10人は彼らが指示したのかもしれなかった。

事件が起これば痛めつけられた五郎に事情を聞くことができる。

その時には襲撃した者達は逃げ出していて捕まえることができない。

そう言う筋書きだったかもしれなかった。

襲った者達は視力を失ったので逃げ出せず、しゃがみこんで呻(うめ)いている。

予定が狂ったのかもしれない。

 二人の男達は五郎達に近づき、辺りの様子を見てから川本五郎に言った。

「おい、何をしたんだ。」

「答える内容はあなた方の身分によって違います。北京の一般市民ですかそれとも警察関係の方ですか。」

「警察の者だ。」

 「いいタイミングですね。私は日本大使館の3等書記官の川本五郎と申します。外交官の身分です。あなた方の氏名と所属を教えてください。」

「警察関係者だと言っているのが分からんのか。」

「私はこの事件を公にする時にあなた方を証人にしようと思います。ですからあなた方の氏名と所属を聞いているのです。姓名と所属と役職を教えてくれませんか。」

「そんなこと、お前には言う必要はない。」

 「言えなければ身分証を拝見できますか。それもできなければあなた方は警察を語る偽者と言うことになります。身分証を見せてください。」

「警察だと言っている。お前、公務執行妨害で捕まりたいのか。」

「そんな脅しを言うとは、あなた方はこの暴漢の仲間ですね。」

「きさま、警察をなめるなよ。」

 「私は不逮捕特権を持つ外交官です。逮捕はできません。それに暴漢が出て来てからずっと録音をしております。今も録音中です。ジョギングの時にはいつもカード型の録音機を胸に入れております。今日は6月12日ですね。身分証を見せてください。それができなければ暴漢の一味だとみなしますよ。」

「貴様。なめるな。」

そう言って男は上着の中に手を入れた。

 川本五郎は腕だけを動かして男の両眼を指で突き、少し横に移動してもう一人の男の両眼を突いた。

最初の男は両眼を潰されても懐から拳銃を取り出そうとした。

男が右手で拳銃を取り出し終える前に、五郎は男の手首を左手刀で叩き、男が落とした拳銃を右手で受けた。

男の手首は異様に伸びて皮でぶら下がっていた。

皮はどんどん膨らんでいった。

五郎は素早く移動し、両眼を手で押さえているもう一人の男の脇から拳銃を抜き取った。

4秒もかからなかった。

 「こんな拳銃を持っている暴漢とは驚きましたね。本当に警察官ですか。警察官なら身分証を出しなさい。次は首を折りますよ。」

川本五郎は静かに言った。

二人の男達は左の尻ポケットから黒い手帳を取り出し、無言で前に差し出した。

五郎はそれらを素早く男達の指から抜き取り手帳を開いて内側の身分証を一瞥した。

 「おや、警察ではなく公安の方でしたか。公さんと安さんですね。最初からそう言えばよかったのに。それと、公さんですか。安易に拳銃を出そうとしてはいけません。私がアメリカ人なら貴方は死んでいましたよ。私はジョギング中の丸腰です。お国の品性が疑われます。この身分証は預かります。明日にでも日本大使館に受け取りにいらっしてください。拳銃は弾倉と薬室の弾を抜いてお返しします。目の前の地面に置いておきます。公安の方ならお願いがあります。お持ちであろう無線で救急車を呼んでください。」

「分かった。」

 「ありがとう。それでは貴方の最初の質問に答えます。私たちが道を歩いていると突然10人の男たちが襲って来ました。私は身の危険を感じて防御しました。相手の攻撃力を奪ってからあなた方が見えたので助力を頼むために呼びました。あなた方がここに来てからはご存知の通りです。質問がありますか。」

「ない。」

「そうですか。我々は暴漢に襲われた被害者です。非はありません。そう思いますか。」

「分かった。お前たちに非はない。」

「我々はお前たちですか。」

「分かった。貴方たちに非はありません。」

「分かったですか。」

「分かりました。貴方たちに非はありません、くそ。」

「理解し合えたようです。それではそのように警察にお話しください。よろしいですか。」

「わかりました。そう説明します。くそ、早く救急車を呼ばせてくれ。」

 五郎は2丁の拳銃の弾倉を抜き、遊底を引いて薬室の弾を抜き、弾倉と弾を腰のポケットに入れてから男たちの足元に拳銃を置いた。

「拳銃は弾倉を抜いて薬室の弾も抜いて足元に置きました。弾倉と弾は身分証と同時にお返しします。日本大使館に取りに来てください。運が良ければあなた方は失明しないと思います。確率は低いですがね。私は医者ですが今は治具がないので医者の義務としての治療もできません。せいぜい目を落とさないように押さえておいてください。目をなくしたら間違いなく視力を失います。病院に行ってください。襲った男たちの視力はもう戻らないと思います。愚かな行為の代償です。一生暗闇の中で生活しなければなりませんね。それでは私たちはもう行ってもいいですか。」

「行ってもいい。」

 「ありがとう。ここまでのことは全て録音されております。私たちはあなたの許可を得てここを去ります。ご幸運を。」

そう言って川本五郎はアーシャの腰に左手を添え、相変わらず呻いている10人の暴漢達の前を通り抜けてその場を去って行った。

 「アーシャさん。とんだ騒動でしたね。怖かったですか。」

五郎はヒンドゥー語でアーシャに語りかけた。

「五郎さんは強いのですね。あっという間に10人を倒し、公安の男達も何もできませんでした。」

「ほら、僕は抜群の運動神経を持つ好青年だからです。」

「まあ、頼もしいこと。抜群の運動神経を持った好青年の五郎さん。」

「これで僕の情報収集の役目は終えましたね。」

「十分だと思います。」

 五郎はアーシャをインド大使館まで送り、日本大使館に戻って事件の顛末を大使に報告した。

大使は驚いた様子だったが、川本五郎が確実に他国とコネクションをつけていることを実感した。

スウェーデンとインドは重要な国だ。

 中国の公安は公と安の身分証と拳銃弾倉を引き取りには来なかった。

二人もいたのに一人の男に惨めに身分証と拳銃を取られてしまった。

非が公安にあることは明白だった。

中国公安は事件をうやむやにしたかったらしかった。

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