第9話 8、アグネスとのテニス

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 川本五郎は望んでいた秘密大使にはなれず、大使付き3等秘書官(3等書記官、Third Secretary)兼外交官補となって中華人民共和国に派遣された。

それでも語学研修のための外交官補ではなく3等秘書官になれたのは異例の出世だった。

異例の役職に対する名目はいくらでも付けることができた。

普通、キャリア組である川本五郎の最初の役職は外交官補になり、それから3等書記官になる。

通常の語学は既に堪能だった川本五郎の場合には外交場面における語学の習得が必要だった。

大使の近くにいなければならないので外交官補ではなく正規の役職が必要だったからだ。

役人はいくらでも理由を考えることができる。

 大使付き3等秘書官、川本五郎の主な役目は大使を守ることだった。

身上調書の特技欄に書かれていた「超人的運動能力」が認められたのだ。

中学校で見せた世界記録を抜く運動能力、射撃で見せた速さと正確さ、東大医学部をトップで卒業した広範な医術、確証はなかったが動きが見えないほどの速さで複数の相手を倒せる攻撃能力、どれも大使を守るのには好都合だった。

大使が外出する時には常に大使の横に目立たないように立って周囲を観察することが川本五郎の役目だった。

 日曜日、川本五郎は仕事の予定がなかったのでジョギングスタイルで散歩に出かけた。

道路の端を時速10㎞ほどで走り、時々疲れたように立ち止まって周辺を見回しながら休んだ。

1時間ほど走ると公園でしばらく休憩した。

中華人民共和国にとって日本は関心がある国であり、その大使館に大使付きとして慣例を破って任官して来た3等秘書官には当然興味があった。

 川本五郎はそんな監視の目が判るかどうかを試しかった。

歩くよりは早く、自動車よりは遅い速さでジョギングをしている者を監視するのは難しいと考えた。

尾行はできないし、自動車で追っても周りの車の流れには乗れないから目立つ。

思った通り目立たない車が路端に時々止まりながら後をつけて来るようだったので川本五郎は少し誇らしい気持ちになった。

要注意人物になったのだ。

 車が入れない公園に入っていくと車から二人のスーツ姿の男が出てきて公園内に入ってきた。

川本五郎の座っていたベンチの50m後ろで立ち止まった。

川本五郎は周囲の景色を眺めるついでに男達を見た。

距離は遠かったが男達の髪の毛の先端の湯気は赤く輝いていた。

川本五郎は髪の毛の湯気の意味するものを一つ理解した。

赤く輝く湯気は五郎に強い興味を抱いている証拠かもしれない。

 川本五郎はベンチの背に肩肘を乗せて半身の体勢になって二人の男を横目で眺め、一人の男の呼吸を止めた。

相棒の男は驚いた。

突然同僚が喉を抑え、顔を真っ赤にしてしゃがみこんでしまった。

「どうした」と、いくら声をかけても相手は答えたくないようだった。

「息ができない」とでも言ったのであろうが五郎には聞こえなかった。

50mも離れていたのだ。

そのうち同僚は呼吸を求めて引きつけを起こし始めた。

同僚の男は小さな無線機を取り出し、どこかと連絡を取っていた。

 救急車がその場に来るまでには10分間が過ぎていた。

川本五郎は救急車のサイレンの音が聞こえるとベンチから立ち上がり、公園の中の方に向けてジョギングを続けた。

その日、中華人民共和国には若い廃人が一人増えた。

 日本大使館の近くには多くの国の大使館が建っていた。

川本五郎はこれらの大使館の前を通るようにジョギングのコースをとった。

大使館の前に門衛が立っている場合にはいつも「こんにちわ。今日はいい天気でしたね」とその国の言葉で声をかけ、相手の返事を聞く前に走り去って行った。

川本五郎への行動監視は相変わらず続いていた。

監視員にとって五郎が大使館の門衛に言葉をかける行為は興味を引く行動だった。

何と言っているのかが分からなかったし、色々な大使館の門衛が一様に笑顔で五郎の呼びかけに応答し、片手を挙げて手を振っている。

 ある時、川本五郎がスウェーデン王国大使館の前をいつものように通ると若い美人の娘がジョギングスタイルで門の内で待っていて五郎が通り過ぎると後を追って五郎と並走した。

五郎は速度を歩く程度に落として娘にスウェーデン語で言った。

「一緒に走りますか。私は川本・五郎。日本大使館の3等秘書官です。」

 「私はアグネス・リンドクイスト。スウェーデン大使館の秘書官です。」

「リンドクイストさん、貴方もジョギングが好きなのですか。」

「いいえ、走るのはあまり得意ではありません。貴方が誰なのかの特命を受けて待っておりました。」

「ご苦労様でしたね。スウエーデン王国のリンドクイストさんと言えば強いテニスプレーヤーがいましたね。」

「私の祖母です。よくご存知ですね。テニスはなさるのですか。」

「相手がおりませんでした。僕は自分のテニスの実力を知りません。」

 「川本五郎さんのテニスの実力を教えてあげましょうか。」

「と言うことはアグネス・リンドクイストさんはテニスに堪能なのですね。」

「一応、特技にしております。」

「分かりました。私のテニスの実力を教えて下さい。リンドクイストさん。」

「OK。次の日曜日にスウェーデン大使館においで下さい。大使館の裏庭にはテニスコートがあります。私が五郎さんの実力を教えてあげます。」

 「了解。相当自信がありそうですね。用事がなければ伺います。都合が悪くなったら連絡します。」

「お待ちしております。貴方が大使館に来れば貴方の正体を調べると言う私への命令も成就できると思います。」

そう言ってアグネス・リンドクイストは走るのを止め、ブロンドの髪をなびかせながら片手をあげて大使館の方向に走って行った。

五郎はアグネス・リンドクイストを見送って再びジョギングを続けた。

 次の日曜日、川本五郎は白のトレーニングパンツと白の上着を着、白のテニスシューズを履き、ラケットケースを肩に斜めに背負い、小さなスポーツバッグを自転車の荷台に乗せて日本大使館を出た。

いく前に電話を入れておいたのでスウェーデン王国大使館の前に着いた時にはスーツ姿のアグネス・リンドクイストが玄関の中で待っていた。

 「こんにちは、リンドクイストさん。僕のテニスの実力を診断してもらうために来ました。」

川本五郎は建物に着けて自転車のスタンドを立て、荷台のスポーツバックを持って言った。

「よくいらっしゃいました。準備をする間、私のボスに会ってくれませんか。川本さんのことを報告しましたら川本さんに興味を持たれたようです。」

「こんな姿で良ければお会いしようと思います。」

川本五郎は受付にスポーツバックとラケットを預け、リンドクイストに案内されて重厚な扉のついた大使室に入った。

 「ボス、日本大使館の川本を連れて来ました。」

そう言ってからリンドクイストは出て行った。

大使らしい男はソファでくつろいでいたが、立ち上がって五郎に近づき握手を求めた。

「大使のスウェッシュです。」

五郎は握手を返し、「閣下、初めまして。私は日本大使館の川本五郎です」と答えた。

「君に会いたかった。きみは日本大使館のホープだそうだね。」

五郎は大使の質問には答えず「今日はリンドクイストさんに私のテニスの腕を診断してもらうために来ました」とはぐらしかした。

 「診断か。君は医者でもあるそうだね。それに裁判官や弁護士の資格も持っていると聞いたよ。アグネスが君にテニスを教えるそうだね。スポーツはあまり得意でないみたいだな。」

「若かったので色々な試験を受けてみました。私の望みは『外国に行って見たい』だったようです。それで外交官になりました。私の運動能力は比較的高いと思っております。でもテニスは中学校と高校の授業で習っただけなので実力は分からないと答えました。私のテニスの診断をしていただけるのはアグネス・リンドクイストさんの好意によるものです。」

「アグネスは国内のテニス大会で優勝もしている。強いぞ。」

「教えてもらおうと思います。」

 川本五郎がそう答えた時、アグネス・リンドクイストが部屋に入って来た。

リンドクイストは五郎と同じ白のテニスウエアに着替えていた。

「それでは閣下、失礼してよろしいでしょうか。」

「うむ。アグネスに教えてもらうといい。それにしても君のスウェーデン語はきれいだな。なんの訛(なま)りもない。どこで習ったのだ。」

「スウェーデン国内のニュースを聞いて学びました。」

「どおりで。」

 川本五郎とアグネス・リンドクイストは階下の受付で五郎のラケットとスポーツバックを受け取り、建物の裏手のテニスコートに行った。

五郎とリンドクイストはネット側のベンチに腰掛け、ラケットを取り出して準備を始めた。

「リンドクイストさん、このラケットは3日前に購入したものです。ラケットに慣れるために少しラリーをしてから私のテニスの腕を診断していただけないでしょうか。」

「了解。心ゆくまでラケットに慣れて下さい。」

 二人はラリーを始めた。

リンドクイストはすぐに川本五郎が上手であることが判った。

ストロークもボールの扱いもぎこちなかったが戻ってくる球はサービスラインとセンターサービスラインの交点付近に落ちた。

リンドクイストは全く動く必要がなかった。

 慣れるに従って川本五郎の返球は高さと回転を変えるようになった。

フラット、ドライブ、カットと一球ごとに変え、高さもネットギリギリの球から10mの高さの放物線を描く球まで色々な球を返した。

それでもボールの着地点は相変わらずサービスラインとセンターサービスラインの交点だった。

その頃になると『交点付近』ではなく『交点』になっていた。

 10分ほどラリーを続けると川本五郎はリンドクイストの球を左手で受けて言った。

「リンドクイストさん、ラケットに慣れました。一休みしてから診断して下さい。」

リンドクイストはほとんど動かなかったが汗をかいていた。

二人がベンチにかけるとリンドクイストは言った。

「川本五郎さんは信じがたいほどお上手です。こんなラリーは生まれて初めてでした。五郎がこれまでテニスをほとんどしたことがないことは直ぐに分かりました。でも五郎は球を正確に制御できます。10分間のラリーの全ての返球がクロスポイントに落ちました。どんなテニスプレーヤーもそんなことはできません。クロスポイントの近くに落とすことはできるでしょうが全ての返球を正確にクロスポイントに落とすなんて芸当は絶対にできません。」

 「僕は筋肉を制御できるのです。それにテニスは卓球と似ています。球の速度と回転が分かれば球を一点に落とすことは容易です。でも僕の欠点も分かりました。僕はバックハンドができないようです。バックハンドで球を制御できるかどうか自信がありませんでした。試合になったら足を使って全てフォアハンドで打とうと思います。リンドクイストさんは僕を左右に振って下さい。僕は必死で走りますから。」

「了解。でも勝てる自信がなくなって来ているわ。」

 川本五郎とリンドクイストはリンドクイストが用意した甘ったるいサフトという飲み物を飲んでから試合を始めた。

最初はリンドクイストのサーブだった。

手加減したのだろう。

リンドクイストのサーブはサービスコートの中央に入って来た。

五郎はベースラインのセンターマークの前に山なりの球を返した。

リンドクイストはそれを左サイドラインに向けて早い球を打ち返した。

川本五郎はリンドクイストが打ち返すと同時に左に跳びフォアハンドで相手の右サイドライン近くに低い短い球を返した。

リンドクイストは諦(あきら)めた。

 リンドクイストの2球目はサービスセンターライン近くの回転がかかった早い球だった。

その時、川本五郎はフォアハンドで打つために左サイドライン上に立って構えていたからだった。

川本五郎は球がラケットを離れると同時にセンターラインに近づき、早い球をリンドクイストの左のサイドラインの奥に返した。

リンドクイストは球に追いつこうとしたが直ぐに諦めた。

 リンドクイストの3回目のサーピスは右サイドライン奥をねらった渾身のフラットサービスだった。

川本五郎は難なく球を待ち、ボールを右サービスエリアのサイドライン上に返した。

角度を持って戻って来た球にリンドクイストは見守るしかなかった。

ラブ・フォーティーになった。

 リンドクイストの4回目のサービスは左のベースラインから打った外側に跳ねる回転をかけたサイドライン上の球だった。

この球にも五郎は球を待ち構え左サービスエリアのサイドライン上に落とした。

センターに移動しようとしていたリンドクイストは諦めざるをえなかった。

 川本五郎はラブゲームで勝った。

次の川本五郎のサービスゲームは4球で決着した。

1球目、「リンドクイストさん、サービスラインの少し右に豪速球で行きますよ」と言ってから川本五郎は球を打った。

言った通りの豪速球だった。

リンドクイストは一歩も動けなかった。

2本目、「次はサービスラインのセンター近くの豪速球です。」と言って五郎はサーブした。

くる場所が分かっていたのにリンドクイストが打とうとラケットを引いた時には球は通り過ぎていた。

 3本目、川本五郎は「次はスライスです。球速は早くないですが地面を這います」と言って強烈なスライスボールでサーブした。

球は浮き上がるような軌跡を取ってセンターライン上に落ち、そのままコートを水平に走った。

リンンドクイストは球が遅かったので何とか球に当てることができた。

球は山なりの軌跡を取り、ネットの近くに飛んでいった。

五郎はネット前で待っていて球をネット横に落とした。

 4本目、川本五郎は顎に指を付けてからリンドクイストに言った。

「リンドクイストさん、今度のサーブは誰も返すことができないサーブです。今かんがえました。別に返そうとしなくてもいいです。絶対に打てませんから。ネットの近くで見ていて下さい。」

「五郎を信用するわ。見ています。」

「了解。見ていて下さい。これならだれも返せません。」

そう言って川本五郎は球を真上に上げ、落ちてくるボールの下を思いっきりこすって上に打ち上げた。

川本五郎は構えることもなく、ラケットを下げ、顔を上に向けて球の軌跡を見ていた。

ボールは10mほどの高さの放物線に沿ってネットの10㎝後ろに落ち、進行方向の反対に跳ねてネットに当たってコートに落ちた。

 「信じられない。こんなサーブをされたら世界チャンピオンだって打ち返せないわ。」

そう言ってリンドクイストはネット下のボールを取って奇跡のボールをじっと見つめた。

魔法の球を見ているようだった。

「卓球でも同じ球を返したことがあります。卓球の球よりもテニスの球は回転を掛けにくいですね。」

川本五郎はネットに近づいてから言った。

「とにかく五郎のテニスは私が診断できるテニスではないわ。異次元のテニスよ。私のテニスなんて五郎のテニスと比べた幼児のテニス。」

「では僕のテニスは合格なのですね。」

「もちろんよ。」

 「それはよかった。アグネス・リンドクイストさん、よければ試合を止めて楽しくラリーをしませんか。僕もバックの練習をしようと思います。」

「そうしましょう。私も五郎と普通のテニスをしたいわ。」

その日、五郎は金髪美女のアグネス・リンドクイストとテニスを楽しんだ。

 テニスの時間が終わって川本五郎とアグネス・リンドクイストが玄関横の受付の前を通り過ぎると五郎は受付嬢に呼び止められた。

「ドクター川本、大使がお話ししたいそうです。ここで暫くお待ちください。」

そう言って受付嬢はどこかに電話した。

すぐに二階から大使が降りて来て五郎に近づいて言った。

 「ドクター川本。君のテニスを見せてもらった。あんなテニスは見たことがない。スポーツはあまり得意でないみたいだなんて言って申し訳なかった。君はスポーツの天才だよ。尊敬する。いつでもスウェーデン大使館に遊びに来てくれたまえ。歓迎するよ。それを言いたくて引き止めさせた。」

「ありがとうございます、閣下。今日はこれで失礼いたします。」

そう言って川本五郎は玄関を出て自転車の荷台にスポーツバックとラケットを着け、片手を上げてスウェーデン王国大使館を後にした。

アグネス・リンドクイストも片手を上げて五郎を見送った。


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