第23話 22、トルコのヤールギュレシ

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 川本五郎はトルコの日本大使館に左遷された。

左遷されたが役職は変わらなかった。

アンカラの日本大使館には参事官は空席だったので川本五郎は次席参事官として着任した。

トルコの日本大使館はアンカラの駅から南にあり、レシット・ガリップ大通りに面した立派な建物で、セーメンレル公園が近くにある。

もっとも、この近くの国の大使館と比べれば見劣りするかもしれない。

トルコは地政学的には要衝なのだ。

 「ロシアから異動になりました川本五郎です。よろしくお願いいたします。」

川本五郎が大使に着任の挨拶をすると大使は言った。

「聞いたよ。ロシアのGRUを一人で潰したんだってな。凄いことだ。日本のスーパーマンを歓迎するよ。」

「あのー、大使。公式には、私はGRUとは関係がないと言うことになっております。そうでないと命がいくつあっても足りません。」

「そうだったな。とりあえず君の仕事はトルコの情報蒐集だ。トルコ語は話せないのだな。」

「仕事は了解しました。トルコ語はここに来る前に学んでおきました。ニュース番組程度には話せるようになっています。ニュース番組が理解でき、ニュース番組と同じように発音できたら自分では合格にしています。でもこの国は多くの言語が入り混じっております。街に出て情報収拾を兼ねてその辺りを学ぼうと思います。」

 「ここに来ることが決まってまだ二週間も経っていないだろう。もう話せるようになったのかね。」

「もともと文字は読めましたから会話を覚えるのは容易です。会話の画像があれば一週間もあれば話せるようになります。」

「驚いたな。二十数カ国を話すことができると書いてあったが、それにまた一つ加わるわけだ。」

「そうです。それにこの国はまだ私が話せない色々な民族の言葉が使われています。それらも一緒に覚えることができるいい機会だと喜んでおります。」

「分かった。僕が要人と話す時は通訳も頼むよ。互いに英語経由よりトルコ語ー日本語の方がずっといい。」

「了解。」

 トルコは五千年の有史の歴史を持つ国だ。

地勢学的に見てもエジプト文明ともギリシア文明ともインド文明とも中国文明とも関連している。

それらの文明の源流とも言える。

鉄を発見したこの地のヒッタイト人はインドを支配して「ハッティ」の子孫を残し、中国にも流れて「秦」の血筋を残した。

ギリシアにもエジプトにもヒッタイト人の子孫は流れていただろう。

幾多の歴史における変遷を経て現在のトルコは多民族多言語の共和国となっている。

 川本五郎は民族間の争いの主因は言語にあると考えていた。

強い民族は何を言っているのか分からない人間を殺したり家畜のように支配したりしてもそれほどかわいそうだとは思わなかったろう。

国際的な法がなかった昔では少数で弱い民族は虚(むな)しく滅ぼされた。

どんなに民族のアイデンティティーを叫んでも強い民族によって虚しく滅ぼされる。

異なる言語を包含できた民族が国を作ることができ、周辺を制圧できた。

 世界的に情報が疎通した現在は力の弱い少数民族にとってはありがたい状況だ。

武力を持たなくても独立を求めることができる。

独立すれば形式的にだが大国と対等になることができる。

昔ならそんな独立を求めた民族はとっくに滅ぼされていたはずだ。

トルコ共和国も必死になって民族の包含を試みている。

民族の包含が大国と伍すことができる道だからだ。

アメリカ合衆国は州の包含体として強い力を持っている。

トルコ共和国は民族の包含体として力を持とうとしている。

国を弱める民族の独立は認めない。

 川本五郎はささやかな歓迎会が終わって自由な時間ができるようになるとジョギングを始めた。

ジョギング開始2日目に拉致されてしまったロシアでの災難が重い経験となり、川本五郎は周囲を注意してジョギングした。

公園を縦断し、南鮮大使館を通り過ぎた辺りで角を曲がり、南に向かった。

さすがにその先にあるロシア大使館の前を通るのは憚(はばか)った。

中国大使館はロシアや米国や日本大使館からずっと離れた南の大使館群の中にあり、川本五郎はそこまで足を運ぶことはめったになかった。

日本大使館のある区画に接する区画には台湾大使館があった。

 「あんたはトルコ語がわかるみたいだな。焼肉を食わんか。」

川本五郎が公園のベンチで休んで辺りをながめているとベンチの後ろからトルコ語で声がかかった。

五郎が体をひねって後ろを見ると一人の青年が立っていた。

奥の木陰でバーベキューを焼いている集団の一人らしい。

おそらく英語に自信があるのだろう。

 「焼肉ですか。いいですね。少しトルコの肉の味を味あわさせてもらいますか。」

「おっ。やっぱりトルコ語ができるんだな。さっき、あんたが子供に声をかけていたのでそうじゃあないかと思った。」

「まだ覚えたてのトルコ語です。僕の言葉は通じますか。」

「普通のトルコ語だ。良くわかる。何か高級な話し方だがな。」

「テレビニュースで学びましたから。」

 「そうか。中国人か。」

「日本人です。」

「そうか。サムライの国だな。小さいのに強い。」

「ありがとうございます。」

「まあとにかく来てくれ。みんなに日本のサムライを紹介したい。焼肉を食ってくれ。」

「トルコの焼肉をいただきます。」

 その若者は川本五郎を林の奥の若者グループのところに連れて行った。

「おい、ヤポニャのサムライだ。」

「初めまして。日本人の川本と申します。お招きいただきありがとうございます。」

「俺たちは近くの大学のサークル仲間だ。息抜きにバーベキューをやってる。」

「何のサークルですか。」

「ヤールギュレシだ。」

 「それで皆さんはいい体をしているのですね。」

「ヤールギュレシを知っているのか。」

「実際に見たことはありません。トルコに来たのも初めてですから。でも伝統のあるレスリングだと知っております。でもなぜ油を塗るのですか。実際の戦いでは油は塗らないのですから。」

「ふむ。・・・その方が面白いからだろうな。」

「そうですね。その方がおもしろいですね。」

 「会話より先ずは焼肉を食ってくれ。」

そう言って五郎を連れて来た若者は紙の皿に焼肉の串を4本載せて五郎に渡した。

「いただきます。」

「それはそうと日本のサムライは強いのか。」

一人の体格のいい若者が言った。

「僕は特別に強いのですが、強い人もいれば弱い人もいます。」

川本五郎は串の肉を食べ終わって言った。

「川本が強いんだって。そんなに強そうな体格ではないが。」

 「僕は力が強く素早いのです。焼肉のお礼に僕の力をお見せしましょうか。」

「ぜひとも見せてくれ。」

「了解。君の名前は。」

「カヤだ。カヤ・オスマン(Kaya Osman)。」

「炎の岩ですか。カヤ君、僕は君と対決して4秒で君に勝つことができます。試してみますか。怪我はさせません。」

「面白い、やろう。日本のサムライと対決だ。おれも川本に怪我はさせない。」

「了解。」

 二人は芝生の生えた平地で2mの距離で向かい合った。

「じゃあ、行きますよ。1、2、3の3で試合開始です。・・・1、2、3。」

そう言って川本五郎はカヤに向かって跳び込み、ぶつかる寸前で横に跳び、再び地面を蹴ってカヤの後ろに回った。

カヤの股間に右手を回し、左手はズボンを掴んで両手で真上に回転をつけて放り投げた。

カヤの体は真っ直ぐ6mほど回転しながら上がり、それから落ちて来た。

 カヤは悲鳴を出す暇もなかった。

川本五郎は落ちてくるカヤの胴体をしっかり受け止め、そっと芝に着地させた。

「どうです、カヤ君。試合では着地の時に足払いをかけるか、頭を下にして投げ上げます。横に向けることもできます。いかがですか。」

「負けた。信じられない。木より高かった。確かに4秒以内だ。おれの体重は100㎏あるんだぞ。投げ上げるのもすごいがそれを受け取ることができるってのもすごい。ヤポニャのサムライはみんなこうなのか。」

「僕は特別に強いのです。」

 「おれは川本の姿が見えなかった。ニンジャみたいだ。目の前から突然姿が消えた。お前たちは見えたのか。」

カヤは周りの仲間に聞いた。

「見えた。川本はお前の寸前で右に跳んですぐに左に跳んでお前の後ろに行ったんだ。ものすごく早く動いた。近くでは見えないだろうな。お前を投げ上げるのははっきり見えた。川本はお前のズボンを掴んでわざわざ回転をかけたんだ。右手だけでお前を木の高さまで投げ上げたことになる。信じられない。」

男たちは川本五郎の細身の体をしげしげと見つめた。

とても100㎏の人間を6mも投げ上げることができる体格ではない。

 「それではジョギングを続けます。ごちそうさまでした。」

川本五郎はそう言って公園の道に戻り、左手を挙げてジョギングを始めた。

トルコ相撲の面々は五郎の細身の体が視界から消えるまで動かないでじっと眺めていた。

 この出来事はそれだけでは終わらなかった。

翌日、川本五郎が同じ公園の道を走っていると、昨日、五郎が座っていたベンチに若い娘が座っていて五郎が近づくのをじっと見ていた。

「待ってください。日本の川本さんですか。」

川本五郎が娘の目の前を通り過ぎる時、娘が立ち上がってトルコ語で言った。

五郎は走るのを止め、娘の方に向いて言った。

 「川本ですが、どなたでしょう。」

「良かった。聞いた通りだったわ。私、エミン・イルマズと申します。昨日ここで貴方と試合をしたアンカラ大学のヤールギュレシサークルのマネージャーです。」

「そうですか。なんのご用でしょうか。」

「あのー、失礼でしょうがどちらにお勤めでしょうか。貴方を見つけて連絡先を聞いてくるように皆んなから頼まれてお待ちしておりました。ここにいた仲間以外はサークルの誰も試合の話を信用しないのです。」

「そうですか。僕はこの公園の近くにある日本大使館の次席参事官の川本五郎と申します。僕に連絡したければ日本大使館に電話をしてください。」

 「まあ、日本の外交官でしたか。次席参事官と言えば大使の次ではなかったですか。」

「良くご存知ですね。そうなります。」

「私は大学で政治を専攻しておりますから。」

「そうでしたか。トルコは特に政治が必要ですからね。」

「まあ。意味深長なご意見ですね。本当に川本さんはトルコ語がお上手です。」

 「会話が通じて良かったと思っております。トルコ語の会話は二週間前に学びましたから。」

「あのー、2年の間違いではないですか。」

「いいえ、2週間前です。その前はロシアに居ました。その前はアメリカでその前は中国です。」

「まあ、それでは4カ国語が話せるのですか。」

「いいえ。僕は特別で二十数カ国語が話せます。トルコ語が一つ加わったかもしれませんね。」

「まあ。信じられない。でも信じます。貴方はあのカヤを木よりも高くに投げ上げたそうですから。」

「焼肉のお礼で技をお見せしました。」

 「川本五郎さんは驚くことばかりです。」

「この世界には色々な人がいるのですよ。若い美人のエミンさん。」

「まあ。いつか川本五郎さんに連絡してもいいでしょうか。」

「いいですよ。それではまた。サークルのみんなによろしくとお伝えください。」

そう言って川本五郎は左手を挙げてジョギングを開始して走り去って行った。

エミン・イルマズはずっと後でトルコ共和国の大統領になった。

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