第53話 52、ロシアでの夕食会
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歓迎晩餐会は穏やかな雰囲気で終了した。
ピョートル大統領も阿多首相と親しく社交辞令会話をし、時々川本五郎の方を見つめながら話した。
通訳のナターシャは川本五郎の方を見つめていることが多かった。
「今日の晩餐会は気分良く終わった。食事も美味(うま)かった。君の指圧のおかげかな。」
阿多首相は帰りの自動車の中で川本五郎に言った。
「それはよろしゅうございました。明日の午後には首脳会談がございます。午前中にお時間があれば10分間程お時間をいただきたいと思います。首相の背中を押しておきたいと思います。」
「もちろんそうしてくれ。会談中に腹が痛くなったらいやだからな。」
「時間が取れましたら連絡してください。」
「了解した。ところで僕は何色なのだ。」
「明るい黄緑でございます。詳細はホテルでお話しします。」
「分かった。それにしてもロシアは君のことをよく知っているな。僕が知らないことまで知っていた。」
「ロシアの情報機関は優秀なのかもしれません。アメリカの情報機関も恐ろしいところでした。30歳前の一等秘書官の日本の若造のことまで詳細に調べ上げておりました。それで恐ろしくなって大使に頼んで帰国させてもらいました。」
「聞いているよ。でもおかげで日本の憂鬱が一つ無くなった。」
川本五郎は翌日の午前中に阿多首相の背中を人差し指で走査してから指圧を始めた。
「総理、精密検査をしなければはっきりとは判りませんが、指の感触では潰瘍は治(おさ)まっていると思います。」
「そうか、ありがたいな。昨日から全く気にならないで過ごすことができている。ヒムラーの気持ちも良く分かるよ。」
「病気とはうまい言葉だと思います。交感神経と副交感神経は程よく釣り合う必要があるのだと思います。ヒムラーは前者が常時働いていたのだと思います。」
「分かった泰然自若が必要なのだな。ところで昨晩からずっと気になっていることがある。このままでは病気になるほどだ。」
「何でしょうか。」
「チャンプベルト大統領とピョートル大統領の色は何色なのだ。」
「透明感のある青色です。ピョートル大統領は少し濃いめです。」
「僕は明るい黄緑だったな。どんな政治家が僕と同じ色を持っているんだ。」
「分かりません。私が色を見ることができるのは直接見た場合だけです。鏡や写真やテレビ画像からは見ることができません。ですから私は自分の色を見ることができません。私はそれほど多くの政治家に会ったことはありません。多くの官僚には出会っておりますが国を指導する政治家とは会っておりません。」
「そうか。首脳会議には是非とも君を連れて行きたいな。君は何人もの内部スパイを炙り出していると聞いた。それも色で見つけているのかな。」
「秘密でございます、首相。公安課長はその方法をご存知ですが首相と雖(いえど)も言わないと思います。私と約束しましたから。それに私に二重スパイを見つけ出す能力があるなら私は二重スパイから狙われる立場になります。」
「そうだったな。すまなかった。二重スパイの話は話題にしないことにしよう。」
「ありがとうございます。」
首脳会談はクレムリン宮殿内で行われた。
川本五郎は通訳をしなかった。
首脳会談では川本五郎のような影響力がある人間が居てはならないからだ。
川本五郎は首相随行員の一人としてクレムリンの控え室で待っていたが時々部屋を出て宮殿内の廊下とトイレを観察した。
トイレにはウォッシュレットが付いて居なかった。
エカテリーナⅡ世もニコライⅡ世もこの宮殿に住んでいた。
川本五郎は空想を巡らして壁を見つめてニヤニヤしていた。
「川本五郎審議官閣下ではございませんか。」
突然後ろからロシア語の声がかけられた。
川本五郎が振り向くとそこにはナターシャが立っていた。
「おや、ナターシャさん。少し驚きました。ここの廊下は長いのに近づく気配にありませんでした。」
「廊下の絨毯が厚いせいだと思います。閣下はここで何をなされておられるのですか。通訳のお仕事ではなかったのですか。」
「廊下の壁を見て想像をしておりました。今日は通訳をしておりません。政治家の話ですから。ナターシャさんも通訳をなされていないのですね。」
「私の通訳は軽い会話の時だけです。」
「僕もですよ。」
「閣下は何を想像なされていたのでしょうか。楽しそうに見えました。」
「素晴らしい宮殿ですね。美しい淑女とは話題にしてはならないことを想像しておりました。」
「まあ、何でしょう。」
「ナターシャさんが日本でしばらく過ごせば分かることです。ナターシャさんは日本に来たことがありますか。お若いのに流暢に日本語を話すことができます。」
「暫く日本に住んでいたことがあります。東京です。」
「そうでしたか。今夜は日本国の答礼の夕食会がホテルで開かれます。ナターシャさんも来られるのならそこでお会いしましょう。」
「楽しみにしております、川本五郎審議官閣下。」
廊下での長話は良くないことだった。
川本五郎は随行員の控え室に戻った。
日本政府主催の夕食会は五郎たちが泊まっていたメトロポリタンホテルで行われた。
会場は半立食形式で、阿多首相とピョートル大統領は並んで一つのテーブルで食事をし、他の参加者はビュッフェ形式の棚からいくつかある丸テーブルに食べ物を運んで飲食した。
阿多首相と話をしたい者は二人が並んだテーブルに行って阿多首相と話をする。
ピョートル首相と話をしたい者は同様にテーブルに行って話をする。
両首脳の監視の下で会話をするわけだ。
川本五郎は通訳としてではなく主催者側の出席者として参加した。
その方が自由に動くことができる。
ナターシャはロングドレスを着て参加していた。
夕食会が始まるとすぐにナターシャは川本五郎に近づいて来た。
「川本五郎外務審議官閣下、おじゃましてよろしいでしょうか。」
「いいですよ、ナターシャさん。今宵は一段と魅惑的ですね。」
「ありがとうございます、閣下。閣下も素敵だと思います。」
「ナターシャさん、お願いがあります。私を五郎と呼んでいただけませんか。その方がずっと心地よく感じます。」
「ありがとうございます、・・・五郎。どうぞ私をナターシャと呼んでください。私もその方が心地よく感じます。胸が高鳴ると思います。」
「了解、ナターシャ。飲み物を二人でもらいに行ってから壁の椅子に座って話をしませんか。」
「喜んで。」
川本五郎とナターシャはアルコール飲料を持って壁の椅子に並んで座った。
「五郎はお酒に強いのですか。」
「強いと思います。お酒を飲んでも酔うのは飲んでいる間だけです。僕は肝臓の機能が優れているようで体内のアルコールを素早く分解してしまうようです。ナターシャは強いのですか。」
「私も強いと思います。でも暫くは心地よい気持ちでいられます。」
「それはいいですね。」
その時、一人のウェイターが近づいて来て川本五郎に言った。
「川本閣下、ピョートル大統領がお呼びしております。」
「了解。今行きます。」
そう答えて川本五郎はナターシャを連れて首相と大統領の座るテーブルに行った。
「お呼びですか、大統領。」
「女みたいな言い方だが、君と会えないのが寂しくてな。ナターシャが君にピッタリ付いているので会えるチャンスは無いと思った。それで強権を発動したのだ。」
「ホスト側といたしましては、今宵、大統領には楽しんでいただこうと考えております。私は何をいたしましょうか。」
「うむ、そうだな。カイロでのピアノを聴かせてくれんか。帰りかけた大使達を引き止めて集めたというピアノだ。うちの大使もその音に釣られたらしい。」
「了解しました、大統領。この部屋にはピアノがありません。この部屋の入り口の広間に白いピアノがありましたからそれで演奏いたします。大統領は椅子を用意してもらってピアノの横に座って聴いてください。それから今日は大サービスです。大統領には私のバイオリン演奏もお聴かせしようと思います。それでよろしいですか。」
「ありがとう。それでいい。ナターシャはバイオリンも得意だ。一緒に聴いてもらおう。」
「了解。総理、ホテルにバイオリンを用意するよう言っていただけませんか。」
「了解した。」
ピョートル大統領と阿多首相がピアノの横に座ると川本五郎は言った。
「大統領、カイロで演奏したピアノ曲はロシアのハチャトリアンの『剣の舞』とロシアのコルサコフの『熊ん蜂の飛行』とシューベルトの『魔王』、グリーグの『山の魔王の宮殿にて』、ショパンの『革命のエチュード』と『子犬のワルツ』でした。最初の2曲は人々の足を止め集めるためです。次の2曲は私の紹介みたいものです。最後の2曲は殺した17人への鎮魂のつもりでした。それでは始めます。」
川本五郎はカイロでの演奏と同じ演奏をした。
違っていたのは曲の始めに曲の題名をピョートル大統領に伝えたことだった。
川本五郎は音楽家がコンサート会場で題名を告げないで演奏し、演奏を終えて何も言わずに退出するのが嫌(きら)いだった。
「聴かせてやる」という意識と「聴いてもらう」の意識の違いだと思っていた。
川本五郎から言わせればプロの演奏家はそれほど大した者ではないように見えた。
川本五郎はそっくり同じ演奏をすることができたのだ。
川本五郎がピアノ演奏を終えると周囲を囲んでいた聴衆から拍手が起こった。
ピョートル大統領も阿多首相も拍手した。
「素晴らしい演奏だった。川本吾郎外務審議官。各国大使達が音に誘われて集まって来るはずだ。鳥肌が立って体が硬直した。涙も自然に出てきた。」
「お粗末様でした。先ほどお酒を飲みました。まだ体内のアルコールは分解されていないようです。続きまして川本五郎のバイオリン演奏です。よろしいでしょうか、大統領。」
「ぜひとも怪物の演奏を頼むよ。」
「了解。有名なチゴイネルワイゼンです。」
そう言って川本五郎はバイオリン演奏を始めた。
川本五郎は高音が聞こえ難(にく)い老人のために高音部の音は大きくした。
演奏を終えるとピョートル大統領は目頭を押さえていた。
「お粗末様でした。まだアルコールが残っているようです。今度は僕の声をお聴かせします。ナターシャさんこの曲を弾けますか。」
そう言って川本五郎は「ともしび」の前奏をバイオリンで演奏した。
「ロシア民謡の『ともしび』ですね。もちろん弾けます。」
「演奏をお願いできますか。今度は歌おうと思います。」
そう言って川本五郎はバイオリンをピョートル大統領の後ろにいたナターシャにバイオリンを渡した。
ロングドレスのナターシャは前に出て川本五郎と並び、五郎を見つめてから演奏を始めた。
「夜霧のかなたへ別れを告げ、雄々しき益荒雄(ますらお)出(いで)て行く。窓辺にまたたく灯火(ともしび)に、尽きせぬ乙女の愛の影。優しき乙女の清き思い、海山遥かに距(へだ)つとも、二つの心に赤く燃ゆる黄金(こがね)のともし火、永遠(とわ)に消えず。」
川本五郎はバイオリンのキーよりもずっと低いキーで1番と3番をロシア語で歌った。
それは呪文のようにも聞こえた。
周囲の聴衆は涙を流し、ナターシャはバイオリンを演奏しながら膝が震えていた。
そして最後にはとうとう演奏ができなくなり蹲(しゃが)み込んでしまった。
川本五郎は優しくナターシャを立ち上がらせて言った。
「ナターシャさん、すみませんでした。少し感情を込めてしまったようです。」
「いいえ、五郎審議官、感動で立っていることができませんでした。」
「素晴らしかった。素晴らしい歌声だった。」
いち早く立ち直ったピョートル大統領が言った。
「ロシアの民謡は素晴らしいものです。今度は日本の歌をご紹介して川本五郎の余興を終わりたいと思います。題名は『地上の星』で、各地で黙々と働く名もない労働者の歌です。」
川本五郎はピアノの前に座って演奏しながら「地上の星」をロシア語で歌った。
「風の中のスバル。砂の中の銀河。みんな何処に行った。見送られることもなく。・・・地上の星を誰も覚えていない。人は空ばかり見ている。・・・。」
歌が終わってもだれも拍手をしなかった。
聴衆は胸が詰まって声を発することができなかったのだ。
「日本はこんな曲を持っているのか。」
この時も大統領がいち早く立ち直って川本五郎に言った。
「はい、大統領。私が好きな歌の一つです。ロシア語に翻訳しながら歌ってみました。ですから荒削りです。もう少し考えればもっと洗練された歌詞になると思います。」
「これで十分だ。君の声のせいかもしれんが胸が詰まって涙が出ていつもの声を出すこともできなかった。」
「楽しめましたか、大統領。」
「うむ、十分に楽しんだ。川本五郎を肌で知ったよ。君の低音は恐ろしい力を秘めているな。あんな声で命令されたらだれも拒めない。ビルから飛び降りろって言われたら飛び降りるだろうな。」
「お国のウォッカはよく効くようです。ようやく酔いが覚めました。今日は少し調子に乗り過ぎたようです。以後気をつけます。」
「そうしてくれ。頼むよ。」
その後、阿多首相とピョートル大統領は元のテーブルに戻った。
ナターシャは何も言わずに何処かに行った。
感動で小水を漏らしたらしかった。
日本政府主催の夕食会は無事に終了した。
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