第2話 1、川本五郎

(起承転結の起、川本五郎)

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 川本五郎(かわもとごろう)は小学生時代には目立たない存在だった。

普通に小学校に入学して普通に授業をこなし普通に遊んだ。

4月生まれだったので低学年のうちは体格が学年の平均よりも少しだけ良かったが、それはよくあることだった。

よく注意すれば少しだけ違ったこともあった。

病気にならず、大きな怪我もすることがなかった。

だがそれもよくあることだった。

 川本五郎の家は小学校の裏手の小高い丘の中腹にある2階建ての白い建物で、周囲を白い塀で囲まれていた。

ただ一つの入り口には「川本研究所」と書かれた小さな看板が掛かっており、入口から建物の玄関までは舗装された30mの長さの小道が通じていた。

 郵便配達員は門の前にオートバイを止め、30mを小走りに歩いて玄関に達し、建物の玄関の前の風除室を開けて横に据えてある木製のベンチに郵便物を置く。

ベンチには「郵便配達員様へ」と書かれた100円硬貨が1枚入っている小さな封筒が毎朝一つ置かれている。

郵便配達員は入り口までの長い距離に不満を持つことはなかった。

 川本五郎の小学校の教諭は一度だけ家庭訪問をしたことがあった。

教諭が玄関前で車を止めて風除室に入ると、そこで出迎えたのは白髪の老人だった。

老人は教諭に川本五郎の保護者だと自己紹介し、年齢の差を訝(いぶか)る教諭に老人は川本五郎が施設からの養子であり、血のつながりは無いことを伝えた。

 小学校での高学年になると川本五郎は次第に目立つ存在になった。

学業成績は常に学年の最高であったし、体力も周囲の子供達に比べて圧倒的に優れていた。

当然、誰からも虐(いじ)められることはなかったし、誰かが虐められている時には虐められている子供に味方をした。

 川本五郎に喧嘩をしかけた子供は耐えきれない痛さを身に覚え、二度と喧嘩を仕掛けることはなかった。

川本五郎は殴りかかってくる子供の手首を掴んで手首の骨にヒビが入るほど掴むのだった。

手首の骨には実際にヒビが入っていたのだが、痛さの程度は測る手段がなく、子供は痛さを耐え忍ぶしかなかった。

 中学生になった川本五郎は完全に別格の生徒になっていた。

ペーパーテストでは全て満点だったし、校庭に設置されていた鉄棒でもオリンピック選手が演ずる技を軽々と披露した。

体育の授業で示した陸上競技の能力に教諭は信じられないほど驚いた。

100m走は9秒、800m走は1分30秒、10㎞マラソンは25分。

どれも世界記録を超えていた。

走幅跳は10mを超えていることが分かったし、中学生用の砲丸を30m以上投げていることが分かった。

しかも、それらの記録は手抜きをしていた結果であることが明らかだった。

 川本五郎は球技でも非凡の才能を見せた。

バスケットボールではセンターラインからのフリースローを確実に決めることができたし、軟式野球での打撃はホームランか四球だった。

柔道は技と言えるものではなかった。

組み合えば相手を浮き上がらせることができ、相手を左右に振り回してから畳に静かに横たえた。

剣道でも常に開始10秒以内に必ず抜き胴を決めて相手の背後に立った。

常に同じ技が来ることは分かっていたが相手は川本五郎の動きが早かったのでほとんど反応できなかった。

 要するに川本五郎は普通の中学生の何倍もの筋力を持っており、その筋肉の反応は常人よりも早く正確だったのだ。

そんな訳で川本五郎はいくつかの運動クラブから助人(すけっと)を頼まれ、五郎も日曜日であるなら快く頼みをきいた。

そんな五郎ではあったがどの運動クラブにも文化クラブにも所属しなかった。

川本五郎にとってはそれらのクラブは真剣になれるクラブではなかったからだった。

 川本五郎が入った高等学校は県内でも比較的有名な進学校で、五郎はもちろんトップで入学した。

川本五郎がその高等学校を選んだのは学校の位置が家から自転車で下り15分の位置にあったからだった。

高校生になった川本五郎は中学生時代よりは目立たない生徒になった。

相変わらず全てのペーパーテストは満点であったし、テストの模範解答として掲示板に川本五郎の答案が常に掲示されたが、運動クラブとは一切関わらなくなった。

川本五郎は毎日のように昼休みには図書館で本を読むか新聞を読むかインターネットを検索していた。

 体育の授業でも超人的な能力を見せることもなくなった。

中学時代の川本五郎の能力を知っている生徒は五郎が意識的に能力を抑えていると思った。

五郎はたいてい2番になり、体力的には特に優れたようにはみえなかった。

体育の教諭は川本五郎が一年生の時に言ったことがあった。

「川本くん、君は超人的な運動能力を持っていると君がいた中学校にいる友人が言っていた。スポーツには興味を持たなくなったのかね。」

「先生、僕の運動能力は中学校時代から格段に向上していると思います。僕が運動競技に参加したら誰でも希望を失うと思います。そんな能力は公に示すべきではありません。」

 そうは言っても川本五郎の運動能力は時々色々な場面で公(おおやけ)になった。

ある時、学校の行事として登山をしていた時、一人の女生徒が林に両側を挟まれたガレ場の沢に悲鳴と共に滑落した。

女生徒は滑落を必死で止めて沢の途中で止まっていた。

川本五郎はリュックを背負ったまま林と沢の際をかけ降りて女生徒と同じ高さに達してから慎重に女生徒の横まで行って声をかけた。

 「横沢、ドジを踏んだな。横沢だからって沢を横に降りることはないだろ。痛みはあるだろうけど骨はどうだ。」

「川本君、助けに来てくれたの。ありがと。骨は折れていないみたい。」

「そうか。ちょっとそのまま待て。」

そう言って川本五郎はリュックから短いロープを取り出し、リュックの口を閉めてからリュックを皆のいる山道に投げ上げてから大声で言った。

「先生、横沢は大丈夫みたいです。今からそこに連れて行きます。」

 川本五郎は横沢の後ろ側に慎重に近づいてから言った。

「どうだ、横沢。背負われて上に行きたいか、それとも抱っこして連れて行ってやろうか。」

「おぶさって行くわ。」

「そうか。足場のいいところで背負う。最初は胴を持って後ろ向きに抱くから暴れるなよ。」

そう言って五郎は横沢奈々の胴に片手を回して後ろ向きに抱き上げ、そのままガレ沢を横切って沢の際(きわ)に行った。

 足場の良い場所に来ると川本五郎は横沢奈々を下ろし、屈んで横沢奈々を背負った。

持っていたロープを奈々の背中に回して胸の前で結んだ。

「横沢、今から上がるが脚はしっかりと巻きつけておけ。腕は首に回してもいいが首をしめないでくれよ。」

そう言って川本五郎は跳躍するように崖を駆け上がって山道に戻った。

 横沢奈々は夢見るようにしっかりと手足を五郎に巻きつけていた。

全学の女生徒の憧れの的の川本五郎に背負われているのだった。

横沢奈々にとってその日は幸せな日になった。

怪我は消えるがこの思い出は絶対に消えない。

 川本五郎の高校は進学高校であったので校門の近くに柄(がら)の悪そうな他校の高校生が時々たむろしていることがあった。

遠くから来ているのであろう。

大抵はオートバイ数台を近くに置いてある。

門の外側にたむろして帰宅の生徒に乱暴な言葉や卑猥な言葉を投げつける。

そんな言葉に反応して文句を言えば、それは相手の望む展開であった。

 川本五郎はいつもは自転車に乗ってそんな連中を通り過ぎるのだが、一度だけ、通り過ぎた後で自転車を止め、引き返し、連中の反対側に自転車を止めたことがあった。

五郎は自転車のスタンドを立て道路を横切り、10人ほどの男達の所にまっすぐ近づいて行った。

男達にとってわざわざ引き返して、たった一人で近づいて来る生徒に出会った経験はなかった。

近づいて来る生徒があるとしたら、腕に自信のある男子生徒数人がつるんで校門の内から出て来て牽制しようとするのだ。

 「なんだ、お前は。馬鹿か。文句でもあるのか。」

集団の中の一人が五郎の前に立ち塞(ふさ)がって言った。

「文句はありません。一人を除いて君らはまだ高校生であり大人ではありません。」

「舐(な)めた口をきくんじゃないか。何の用だ。」

「バイクに腰掛けた赤いシャツの方に用があります。君達のリーダーみたいですね。」

「なにい。お前、赤塚さんを知っているのか。」

「君はまだ未熟ですね。こんな時にはリーダーの名前を言ってはいけません。君は後で赤塚さんからお仕置きを受けるかもしれませんよ。」

 やり取りを聞いていた赤シャツの男はバイクの座席から滑り降りて立ち上がり、周りの男達を乱暴にどかして川本五郎の前に立った。

「俺に用だって。」

「赤塚さんでしたっけ。あなたは悪い心を持っております。周りの皆さんと違って更生できる余地はほとんどありません。このグループから離れてくれませんか。」

「そうか」と言いながら赤塚はいきなり右フックを川本五郎に放った。

 赤塚のフックは空を切った。

川本五郎はフックの速さよりも早く動いて赤塚の後ろに移動していたのだ。

赤塚は五郎が目の前から突然消えたように見え、狼狽して左右を見回した。

「後ろだ。鈍間(のろま)の赤塚。」

五郎は赤塚の50㎝後ろから声をかけて赤塚の後頭部を指先でつついた。

赤塚が後ろを振り向きながら体を回してもそこにはまたもや川本五郎はいなかった。

赤塚の動きに合わせて五郎は赤塚の背後に移動していたのだった。

赤塚が再び体を回し始めると川本五郎は後ろに跳び、赤塚が前を向いた時には既に3mも離れた位置にいた。

 「ほんとに鈍間(のろま)ですね。赤塚さん。少し黙って苦しんでみますか。」

そう言って川本五郎が赤塚を見つめると赤塚は喉を押さえて両膝をついた。

赤塚は「きっ」と言っただけで「きさま」と言うことができなかった。

空気が貴重だったのだ。

赤塚は喘息の重度の発作と同じ症状をしていた。

気道が収縮し空気は出せるが空気を吸うことが難しくなくなっていた。

言葉を発すれば肺の空気はなくなるし、体を動かせば血中の酸素濃度は低下する。

話すことも体を動かすこともできなかった。

 「赤塚さん、どうしました。このグループから離れてくださいとお願いしているのですが。」

赤塚は声を出すことができなかった。

肺の中の僅かな空気を使うわけにはいかなかった。

「声を出したくないようですね。でもこのままでは5分も経てばあなたは低酸素脳症になって脳がだめになり一生廃人になります。10分も経てば自律神経系がだめになり死にます。私は何もしておりませんから貴方は突然死になるわけです。」

「わっがった。」

赤塚は貴重な空気を使って低い小さい声を絞り出してから地面にうつ伏せに倒れて痙攣を始めた。

 「痙攣が始まりましたか。あと1分もすれば廃人ですね。皆さん、赤塚さんは急病です。このままだったら死にそうです。仲間だったら早く介抱してあげてください。あなた方のリーダーですよ。」

グループのだれも動かなかった。

「やれやれ、薄情ですね。」

そう言って川本五郎は道を横切り、自転車に乗って自宅の方に走っていった。

 川本五郎が見えなくなると赤塚は呼吸を取り戻した。

赤塚が正常になるまでには10分間が必要だった。

動けるようになると赤塚は無言で自分のオートバイに乗り川本五郎の去った方向と別な方向に走っていった。

グループの他の者達も無言でオートバイに分乗して赤塚の後を追った。

このグループは二度と校門の前にたむろすることはなくなった。

 川本五郎の人間離れした能力が評判になると五郎の家庭にも関心が高まる。

ある時、一人の若い女性新聞記者が川本五郎の家庭での日常を取材するために川本研究所を訪れた。

川本研究所には留守録電話機があり、通常は留守録電話を通して取材を申し込むのだが大抵は無視される。

女性記者はアポイントメントなしで突撃訪問したのだった。

川本五郎本人が玄関前の風除室で応対した。

 「何のご用でしょう。」

「誇大新報の者です。川本五郎君ですか。」

「私の質問を理解できませんでしたか、誇大新聞の者(もの)さん。」

「ですから、取材に来ました。」

「『ですから』とおっしゃいましたが『ですから』の中身について者さんはまだ言っておりません。」

「ですから取材に来たのです。」

「論理が理解できないようですね。もう一度最初から始めますか、誇大新報の者さん。何のご用でしょう。」

 「・・・誇大新報の社内明子と申します。取材に伺いました。」

「いいですね、社内明子さん。それが論理です。取材は貴女の仕事であって、それで貴女は生活をなさっているのですね。」

「もちろんです。仕事です。」

「貴女は自分の生活のために貴女の時間を使っております。私は何のために私の時間を使うのだと思いますか。」

「そんな風に考えたことはありません。強いて言えば新聞に載るためです。」

「新聞に載ることが私の利益だとお考えになっているのですね。」

「違いますか。」

「私の質問に最初に答えてください。そうすれば貴女の質問に答えましょう。」

「新聞に載ることは貴方の利益になると思っております。」

 「そうですか。私はそうは思っておりません。ですから貴女は貴女の生活のためにご自分の時間を使い、私は何の利益もなく私の時間を使わなければならないのです。不公平だと思いませんか。」

「・・・不公平だと思います。」

「なかなか素直ですね、誇大新報の社内明子さん。父は病気で寝ております。今日は取材を受けることができません。お引き取りください。」

「わかりました。今度来る時は貴方に利益をもたらすような時間を与えるように考えてから来ることに致します。貴方は川本五郎さんですか。」

「そうですよ、社内明子さん。今度いらっしゃるときはアポイントメントを取ってからにしてください。アポイントメントを受けるということは私の時間を使うことを私が了承したということを意味しますから。」

「了解しました。今日は引き取ります。」

社内明子はそう言って帰って行った。

社内明子は川本五郎に言い負けたと感じた。

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