私のほしいもの

 しばらくして私が泣き止むと、やっぱり、二人は困った顔をしていた。

 何かしてしまったんじゃないかとオロオロしている美沙さんと、表情を強張らせつつも落ち着いている謙太。それに対して私は、また失敗してしまったと項垂れることしかできない。情けなさとか、罪悪感が心をチクチクと責め立てる……。


「あ、あの、ごめんなさい。もう、大丈夫です」


 いつのまにか差し出されていた箱ティッシュで鼻をかみながらそう告げると、美沙さんの顔に安堵の色が戻る。初対面の子がよくわからないタイミングで泣き出すとか、心臓に悪かっただろう。私ならどうしていいかわからない。

 というか私、謙太の部屋のティッシュめちゃくちゃ使ってるんじゃないだろうか。今度、お詫びしなきゃ。


 そんなとりとめのないことを考えていると、私の目線に合わせる為に屈んだ美沙さんが、少し子供をあやすような優しい声音で話しかけてきた。


「本当に大丈夫? ごめんね、波南美ちゃん。びっくりさせちゃったかな……」

「……はい。本当に大丈夫です。あの、こちらこそ、驚かせてしまって、すみません……」


 私が頭を下げて謝罪すると、ちょっぴり困ったような笑顔を浮かべた美沙さんと謙太が目を見合わせていた。たぶん、言外でいろいろ探りあっているんだろう。

 というか、美沙さん謙太と同じくらい身長あるんだ……。謙太もたっぱがあるほうじゃないけど、男性の平均くらいはあるだろう。まじまじと眺めると、やっぱりスタイルがいい。ちんちくりんな私とは段違いだ。


 私が勝手にダメージを受けていると、謙太が声をかけてきた。


「えっと、もしよければ俺から姉ちゃんに説明しとくよ。座って待ってて」

「う、うん。ありがと……おねがい」


 謙太なら、うまい具合に説明してくれるだろうという、根拠のない安心感のようなものを覚える。眼鏡の奥の、若干申し訳なさそうにしている瞳が不思議と頼もしく思えた。

 謙太は私の返事に頷くと、お姉さんを連れて部屋を出た。最初は廊下で二、三会話をすると、玄関を開けて外で話し始めた。


 一人、部屋に取り残された私。なんともいえない手持ち無沙汰な時間が訪れる。

 どうしよう。

 そうだ、せっかくだし、タルトもあるからコーヒーでも淹れて待っていよう。今までも何度か私がお茶を淹れたこともあるし、お皿やカトラリーの場所もわかるし許可も得ている。やることを見つけた私は、意気揚々と電気ケトルに水を入れ、お茶の準備をはじめた。


 電気ケトルの動作音とエアコンの音、そして食器の触れ合う音だけがシンとした部屋に響く。梅雨らしい曇り空のせいで、ただでさえ日当たりが悪くて薄暗いこの部屋がより沈んでみえた。でも、泣いた後の虚脱感のせいか、お湯が沸くのを待ったり、人数分の食器を用意する時間が妙に心地よく思える。


 優しい静けさに、ちょっと気持ちが上向いた時、大事なことに気が付いた。

 まずい。この部屋、ありとあらゆる物が足りない。確か、謙太は各食器をローテーションできるように二つ一組みで用意していた。なので、私だけがお邪魔したときは何の問題もなかった。が、今日は美沙さんもいるので、どうしても足りないものが出てきた。お皿もフォークもカップも。

 ううむ、謙太の分は最悪タッパーのまま出せばいいとして、コーヒーはどうしよう。普通のグラスじゃダメだし、他に代用できるものは……。


「あ、これでいっか」


 ちょうど、部屋の隅に置いてあったトートバッグから、保温できるタイプのタンブラーが飛び出ているのを発見した。たぶん、学校に持っていってるんだろう。謙太には悪いけど、ここは間に合わせのもので我慢してもらうしかない。あとは、フォークじゃなくて箸でいいでしょ。どうせ謙太だし。


 開き直ってインスタントコーヒーにお湯を注いでいると、部屋に二人が戻ってきた。


「いやぁごめんね。ちょっとふざけ過ぎちゃったみたい、私」


 改めて謝る美沙さんに続いて、謙太が私の耳元で続ける。


「橘のこと、少しぼかして伝えたから」

「うん、ありがとう。もう大丈夫」


 謙太の心遣いに感謝して、私はコーヒーを勧めることにした。


「あの、美沙さん。よかったらこれ、召し上がってください」

「えっ、いいの? んー美味しそう! お菓子作り上手なんだね」

 まともなカップとお皿の前に座った美沙さんが、枇杷のタルトを褒めてくれる。ちょっと横着してタッパーに詰めてきたから形は崩れがちだけど、褒めてくれるとムズムズする。

「ありがとうございます。母に教えてもらって、色々作ってるんです」

 私がそう返すと、美沙さんは「素敵」と呟いて、優しく微笑んだ。


 ——ああ。その笑い方、謙太とよく似ている。


 そんな美沙さんの隣では、謙太がタッパーのままのタルトと箸、タンブラーになみなみ注がれたコーヒーを悲しげな瞳で眺めていた。きっと、新しい食器を買い足さなきゃとか、なんで自分だけこんなに適当なんだとか考えてるんだろうな。しょげ返った彼を見て、予めお姉さんが部屋にやってくることを教えてくれなかった罰だと内心ほくそ笑むと、なんだか少し気が晴れた。


「あの、私の方こそ、取り乱してしまってすみませんでした。たぶん、謙太くんから色々お聞きになったとは思うんですが、橘波南美です。よろしくお願いします」


 なんとなく正座して、少しかしこまって二度目の自己紹介。


「あらら、ご丁寧にどうも。では私も改めまして、謙太の姉の美沙です。こいつの三つ上で、大学四年生。よろしくね」


 美沙さんが、謙太から奪った座椅子の上で居住まいを正すと、所作と裏腹に明るいトーンで返してくれた。

 なるほど、私たちより三つ年上なのか。こうなる前の自分からすれば一回り年下だけども、今の私から見るととても大人に見える。仕方がないことだけど、なんだか複雑な気分。

 そんな感想をつらつらと思い浮かべていると、一瞬で足を崩してあぐらになった美沙さんが膝をペシンと叩きながら続けた。


「いやほんと、この愚弟がお世話になってるみたいでごめんねぇ。朝っぱらから酒飲んでる私が言えた話じゃないけど」

「いえ、あ、あの、私の方こそ、謙太くんには助けられているというか……」

「なにー? 謙太のくせに生意気だなぁオイ?」

「なんで俺に飛び火するんだよ。俺は何も悪いことしてねえって」


 大きなため息を吐いた謙太を見た美沙さんの視線が、私と謙太の間を往復する。もう一度私と目があったその顔には、優しい微笑みが浮んでいた。


「まぁ、こんな弟だけど、人並み以上に世話焼きなやつだからさ。波南美ちゃん、なにかあったら容赦無く顎で使ってやって」

 彼女は、そういうとスマホを取り出して続ける。

「波南美ちゃんスマホは持ってる? 連絡先交換しよう」

 こいつに言えないようなことがあったらいつでも連絡してね、いつでも駆けつけるから。と、いたずらっぽく言うと、メッセージアプリの画面を表示させたスマホをテーブルの上に差し出した。


 また、私に新しい繋がりが生まれようとしている。こんな、まだ出会って数時間も経っていないのにそんなことが言えるような、優しい人がまた一人。


 私は、無意識に許可を求める様に謙太の方を見つめていた。

 すると彼はいつもと同じ、眼鏡の奥の優しげな瞳を細めて頷く。

 慌てて美沙さんと向き直せば、彼女は未だ微笑みながら私を見つめていて。


「あ……その……あ、ありがとうございます……」


 半ば流される様な感じだけれど、私もスマホを取り出して、連絡先を交換した。美沙さんは満足げに頷くと、フォークでタルトを切り取り口へ運ぶ。

「なっにこれ美味しー!」


 どうやら、お口に合ったらしい。私は少しだけ安堵して、連絡先の増えたスマホを撫でながら二人を眺めた。


「というか姉ちゃん、なんで朝っぱらから酒飲んでたんだよ」

 ベッドの縁に腰掛けた謙太がタンブラーのコーヒーをすすりながら発言した。確かに、こんな時間に出来上がってるなんて、何か理由があるんだろうか。

「そりゃあ、開いててよかったナントカ水産ってあるじゃない。バスから降りてすぐにあったのよ。行かざるを得なかったわけだ私は」

「アル中かよ」

「失礼ねぇ。ほら、ちゃんと震えは止まってるから安心しなさい」

 さっきバスが苦手って言っていたのはなんだったんだろう……? というか、本当に大酒飲みなんだ。こうなる前の『俺』はそこまでお酒強くなかったし、今の私もアルコールを摂取したことがないから、早朝から飲酒をしようというメンタルが理解できない。

 正直ちょっと引いた。


「姉ちゃん、俺が家から出た途端そこまでアル中進んだんだ……」

「ちょっと謙ちゃん、やだもう恥ずかしいこと言わないの! めっ! 私なんかがアル中なんて烏滸がましいですわ!」


 割とドン引きしている謙太と、言葉の割に特に何も感じてなさそうな美沙さんが取っ組み合う。でも、二人の表情からは、これがなんども繰り返された日常のひと場面なんだという雰囲気がにじみ出ていた。


「ほんと、いいきょうだいだなぁ……」


 私は、そんな二人を眺めながら、ちょっと濃いめのコーヒーをすすった。



 ◆◆◆◆



「ねえあんた、本当に波南美ちゃんと付き合ってないの? あれで」


 姉ちゃんが、ストロングな缶のプルタブを開けながら投げやりに訊いてきた。


「……んだよ、付き合ってないよ」

「ふうん」


 なにか、含みのあるような相槌を打つと、一気に缶を呷る。一種の男らしさすら覚える飲みっぷりに実の姉ながら少し呆れた。生まれる性別間違えたんじゃないの。


「ぷっはー! ……でもさ、今も好きなんでしょ? 退院してからしばらく波南美ちゃんのことばかり話してた時と同じ顔してるよ、あんた」

「あーあーあーあー。なんで覚えてるかなあ……」


 思わず頭を抱えた。

 ほんとロクでもないことばっかり覚えてやがって。昔のことを掘っくり返してきたくせに、声と表情が真面目モードになっていた。酔いのせいで頬は若干赤みがかっているけど、いつもの茶化すような雰囲気は無い。こうなると、どうしても姉と弟という力関係を思い知らされる。


 俺が身悶えてると、姉ちゃんは少し疲れた声色で独り言ちた。


「ほんと、我が家は恵まれてるわ。お父さんもお母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんも元気で、ザ、フツーの家庭って感じでさ」


 姉ちゃんにも、思うところがあるらしい。片手でチャプチャプと缶をもてあそびながら、遠い目をしている。


「うん」


 波南美のことを想うと、本当にそう実感する。彼女は平凡で幸せな経験と、どうしようもない不幸の経験を併せ持っている。二つ分の人生を歩んできた分、それだけ、今の俺たちきょうだいがまぶしく思えたと、別れ際に恥ずかしそうに耳打ちしてきた。


「謙太、波南美ちゃんのこと、幸せにしなきゃダメだよ」

「俺、できるかな」

「そんなこと言ってると、どっかの誰かが波南美ちゃん取っちゃうよ」

「それは、嫌だな」

「よしよし、謙太も男を見せるべきだな」

「やめろよ姉ちゃん」


 姉ちゃんが俺の頭をワシワシとかき回してきた。身長はかろうじて俺の方が高くなったけど、そこまで差があるわけじゃない。でも、こうやってワシワシされるのはいつぶりだろう。今も仲はいいけれど、気がついたらされなくなっていた。

 なんとなく振り払う気にもなれなくて、口で咎めるだけにしてされるがままにした。


「あーあ、なんか愉快なことになったわぁ。そんじゃ、私夕方まで寝るから、よろしく」

 スコォンと軽い音とともに空き缶をテーブルへ叩きつけると、姉ちゃんは文字通りベッドに飛び込んだ。そして、小さく「んぐぇ」と奇声を発したのを最後に、あっという間に寝付く。こんな人でも、血を分け合ったきょうだいなのだと思うと頭痛が痛い。


「……はいはいおやすみおやすみ」


 俺は、泣き出した波南美と、さっきのやりとりを反芻しながら、いびきをかき始めた姉ちゃんにタオルケットをかけてやった。

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