あなたの言葉

「あのさ、君、もしかしてだけど、小学六年生の頃入院してた?」


 誰? 小学校の頃、入院?


「俺、藤巻。藤巻謙太っていうんだけど」


 言われてみれば、確かに既視感のようなものがあった。


 穏やかすぎて、なんだかもうぼやけてしまったような遠い記憶。ずっと薬を飲んでるせいか、頭にモヤがかかったような、膜のようなものが張っているような感じがして、集中できない。

 確か、私が今の私になってすぐの、時間がゆっくり流れていたようなあの頃。坊主頭で、少しませてたけど、ゲームが好きだった男の子。


 そういえば、そんなこともあったっけ。


「間違ってたら悪いんだけど、相原? 相原波南美……?」


 彼の口から紡がれたのは、私の昔の名前。


「え……あっ、う、うん……」


 舌が回らなくて、勝手に煮え切らない返事になってしまう。

 それでも、私の返事を肯定と受け取った彼は、とても嬉しそうな、優しい顔になる。


 どうして、そんなに嬉しそうな顔をするの? そんな、私なんて、会えて嬉しいような人間じゃないのに。


 昔のことが、堰を切ったように溢れ出して、左上から、右下へ景色が流れ出す。目が回りだしている。


 また、吐き気が蘇り、呼吸が浅くなる。頭の中で白いモヤモヤが絡まりあって、よくわからない不安や悲しみに心臓が悲鳴をあげた。


 ——もうやめて。私を知らないで。覚えていないで。


 すっかりコントロールが効かなくなった感情は、あっというまに綯交ぜになって、出口を見失う。

 消えてしまいたくて、逃げ出したいのに、立ち上がって歩き出すことも思いつけない私は、再びリュックに顔を埋めて世界をシャットアウトすることしかできなかった。カタツムリみたいに、自分の殻に閉じこもってしまいたいとすら願う。


 ぎゅっと瞼を閉じれば、赤っぽい暗闇に緑や青の模様が蠢いて、それに集中していると少しだけ冷静さが戻ってくる。私なりの、心を落ち着かせるためのやり方だった。


「相原!? どこか悪いのか、やっぱり救急車!?」

 取り乱した声とともに、慌ただしく砂を踏みしめる音がして、柔らかな体温が、ブレザー越しの肩に伝わる。


「ひゃっ」


 突然触られたせいでびっくりしてしまった。反射的に飛びのいてしまい、喉から声になり切らないおかしな悲鳴がこぼれた。


「あっ、ご、ごめん……。だ、大丈夫か? そうだ、水。これ、未開封だから……」


 私の拒絶に傷ついたのか、一瞬だけ寂しそうな顔をした彼がオロオロと、ネイビーの帆布でできたトートバッグから小さなミネラルウォーターのペットボトルを取り出して手渡そうとしてくる。

 どうやら、更に私の目線に合わせてくれたのか、彼は砂の地面の上に片膝をついていた。黒くて柔らかそうな生地のパンツだ、乾いてサラサラになった砂は、簡単には落ちないだろう。

 悪いことをしてしまった。

 彼の優しさを思わず振り払ってしまったことに気がついて、良心が痛んだ。


「だ、大丈夫……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 私には、もう謝ることしかできない。優しくされればされるだけ胸が苦しくなって、そのことが罪悪感として心を蝕んでいく。


 私はほとんどパニック状態だった。目が回って、喉が詰まるせいで声は言葉にならない。くちびるだけが謝罪の形に動くたび、両目には潮が満ちるように涙が溜まった。


 ——お願い。こんな私に関わらないで。気持ち悪い奴だと思ってどっか行って。


「ごめん」


 彼は一言そういうと、私の隣に座って、ゆっくりと背中をさすりだした。


「大丈夫。ゆっくり、吸って、吐いて。ゆっくり、ゆっくり」


 ゆっくり? 何が? 息? 呼吸をすればいいの?


 もう一度ぎゅっと目を閉じると、私を支えているのか、左肩と背中に熱を感じた。背中を上下に往復する熱を追いかけると、どうやらこのリズムで息をするとちょうどいいと気づく。


 ゆっくり、吸って、吐いて。


 そのおかげもあって、急速に目眩と吐き気がおさまっていった。

 暖かな手のひらに合わせて息を吸えば、しっかりと肺が酸素を受け止めているような実感がある。

 そして、私は全身に冷や汗をかいていたようだった。急にそれが冷えたのか、寒気がする。

 しかし、彼の手の当たったところだけが不思議と心地よかった。こんな距離感に誰かがいることが久しぶりすぎてムズムズする。


 なんだか恥ずかしくて、隠れたくなってしまった。


「も、もう、平気……。あ、ありがとう」

 顔を上げずに、手で彼との間に隙間を作るようにして回復したことを伝えた。

 そんな、まともに目を見て感謝もできない自分が嫌になる。家族や学校、病院以外の人と、こんなに接するのなんて、それこそ四年ぶりくらい。すっかりコミュニケーションのやり方がわからなくなっているみたい。


「そうか……よかった」


 彼も、季節外れの大汗をかいていたようだ。自分までゆっくりな呼吸になっていたのだろうか、一度大きく深呼吸をして、眼鏡を外して額を拭っている。口元には、安心したのか、小さな微笑みが浮かんでいた。


「これ、飲んでいいよ。常温だから、体冷やさないと思うし」

 謙太の手から、先ほどのペットボトルが手渡される。確かに、何か飲み物を飲んだ方がより落ち着けるかもしれない。『ありがとう』の一単語を言うだけなのに、妙に気恥ずかしくてモニョモニョと口ごもってしまった。

 それが、悔しかった。

 そんな風に、まだ感じることができるのだと自分でも少し驚く。久しぶりに話をしてみようと思った。


「あ、あの、わたし、波南美だけど——」



 ◆◆◆◆



 俺は、引越しからさほど経っていないせいか絶妙に生活感の薄い部屋へ帰宅すると、嫌に重ったるく感じていたバッグを肩から下ろす。適当に、ポールハンガーの足元に投げやると、先ほどまでの記憶を反芻しはじめた。


 確かに、あの女の子は相原波南美だった。


 しかし、俺の記憶の中で笑う彼女とは、まるで別人になっていた。


 彼女には両親がいないこと。

 今は親戚に引き取られ、『橘』という苗字になっていること。

 一年間空白期間があって、今高校三年生だということ。


 体調を気遣い家まで付き添うと申し出た俺に、ところどころつっかえながら語る彼女の姿は、とても小さく見えた。


 出会った時は、お互い小学生で、身長も横並びだった。同じ病院の入院仲間という意識もあり、初めて女子と気が合った。短い入院期間だったけれど、思いの外楽しく過ごすことができたのは彼女のおかげだったと思う。

 そんな彼女と、こんな場所で再会を果たすとは思ってもいなかった。それも、とても憔悴した姿で。


 思い返せば、入院中の彼女はひどく痩せていた。同学年の女子と比べても、ガリガリだったと思う。

 彼女は、学校の事はほとんど話題にしなかったし、春から通う中学も把握していなかった。


 それは何故か。今なら仄暗い方の理由がいくらでも推察できた。ネグレクトとか、虐待とか。

 あの時の俺の世界は狭かったから、学校で友達と会って、家に帰れば家族が待っていて、食事があるのが普通だと思っていた。だから、妙にゲームが強くて、勝つと憎たらしく笑う彼女の抱えているものに気がつくことができなかった。


 想像に過ぎないが、複雑な過去を抱えていたであろう波南美が、なぜあの歳であっけらかんと笑えていたのか。

 現に、さっきまで一緒にいた彼女はとても疲れていて、弱々しかった。身長はあまり変わってなさそうだけど、すっかり大人びた双眸に涙を湛え、しきりに謝る彼女は見ていられなかった。


 ——そりゃあ、こっちでも何かあったんだろうな。


 話を聞けば、通信制のような高校に通っていて、今日は丁度登校日だったらしい。それが、帰宅中に気持ち悪くなって、あの公園のベンチで一休みしていたところに俺が出くわしたのだった。


 多分、あの時無駄なお節介を焼かなければ、あそこまで取り乱してしまうこともなかった筈だ。そう思うと、なんとも申し訳ない気持ちになった。

 好きだった女の子を、形はどうであれ泣かせてしまったことが心に蟠りを残す。あの感じだと、日頃は家に閉じこもっているんだろう。全く日に焼けていない、青白い手の甲が目に焼き付いている。

 きっと、外出することのハードルも相当高いに違いない。彼女には、悪いことをしてしまった。そのお詫びというか、何かできればいいが……。


「そういや、あいつのこと、何も知らないんだよな」


 一人暮らしを始めたからか、独り言が増えてしまった。

 安っぽい壁紙に、放たれた言葉が虚しく吸い込まれていく。

 手に持ったままの、宅配便の不在票が俺を責めているように感じた。


 ****


 それから、あの公園で波南美と会うようになった。丁度彼女と俺の下校時間が重なるので、短い時間だが会話を重ねることができた。ちなみに彼女はココアが好きで、会う時に持っていくと殊の外喜んだ。


 基本的には、俺が聞き役に徹する。彼女の話したい時に、彼女のペースで会話をした。それ以外は、天気のこととか当たり障りのない世間話をして過ごす。

 また、彼女は少し会話が不自由になるときがあった。話している間に思考が散らかってしまうのか、内容が尻切れ蜻蛉になってしまうのだ。本人もそれには気が付いているらしく、言い淀んだ後に、頬を少し赤くして困ったような、泣き出しそうな作り笑いを浮かべていた。

 俺は、その表情かおを目の当たりにする度、胸の奥にちくりとした刺激を感じた。


 ——きっと、あの日、自分の恋心に気が付いてしまったんだ。


 出会ってから、これまで、頭のどこかで彼女の影を探していたのだ。そりゃ、他の女の子を好きになるはずもない。既に俺は、無意識のまま片思いを続けていた。


 そんな、同い年でありながら現役女子高生の波南美だが、たまに制服を着ていないこともあった。どうやら定期的な通院もしているらしい。その時は、いつも決まって黒くて細いズボンに地味な色のシャツとグレーのカーディガンを羽織って、キャスケットを深く被っていた。


 彼女は「おしゃれはもうやめた」と、とても悲しそうに言う。


 対話を重ねるごとに、記憶の中の少女と、目の前の波南美とのギャップが広がっていく。しかしそれも、幼い俺が勝手に想いを寄せていたからだ。結局、今も彼女の人となりはいまいち掴めない。とても深い悲しみや後悔を抱えていることは確かだが、彼女はそれを話してはくれなかった。

 それも、しょうがないのかもしれない。再会を果たしたとはいえ、一緒にいた時間は数週間足らず。お互い成長してからは、いまだ数日。心を閉ざしている彼女が、俺に全てを打ち明けてくれる理由がなかった。

 自分の無力さが歯痒くも、今はただ側にいることしかできなかった。


 そうして、五月も下旬に差し掛かった頃、珍しく波南美からメッセージが届いた。

 買い物を手伝ってほしいという内容だった。

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