遠回りしていこう
実は、ちょっと前から我に返っていた。
どうしてこうなった。
私は今、あぐらをかく謙太の正面から彼の胸に抱きついている。
両手で握りしめた、白い生地のオックスフォードシャツ。
私の背中をさする、大きくて暖かい手のひら。
心地よい温もりに包まれているような……。
つまりいっそのこと我を忘れっぱなしで良かったのでは?
いや、そうもいかないのだけれど。
謙太にしがみついて、大泣きしてしまった。思わぬところから、自分の境遇を理解してくれそうな人間が現れたのだからしょうがない。『私』が『波南美』になった経緯をまくし立てると、あっという間に理性が吹き飛び大泣きしてしまった。それも謙太にしがみついて。
いけない、まだ頭のネジが何本か行方不明だ。私はこんらんしている。いや、まあ、五ミリくらいは冷静なところもある。私、人のことを涙と洟水でビタビタにしてしまって何やってるんだろうとか、思わなくもない。
思わなくもないが、顔が上げられない……。彼のシャツに染み込んだ涙と諸々が、垂れ流した水分量を私自身に突きつける。羞恥心と罪悪感が綯交ぜになって死んでしまいそうだ。穴があったら頭から飛び込みたい。
「お……落ち着いた?」
「ひゃい……」
私が散らかりまくった思考をこね回していると、頭上から謙太の声が降ってきた。自分でも情けないくらい腑抜けた声音で肯定したが、まだちょっと顔向けできる状態ではない。完全に自業自得だけど、ちょっとじゃ済まないくらいブサイクになっていると思う。
ここでようやくハンカチの存在を思い出した私は、リュックを手繰り寄せてそれを取り出した。正直今更だとは思うが、これ以上彼のシャツをビタビタに汚すのは躊躇われた。私から抱きついた手前、自分から飛び退く訳にもいかず、相変わらず背中をさすられながらズルズルと長引く涙が落ち着くのを待つ。途中から、謙太が箱ティッシュを側に置いてくれたので遠慮なく鼻をかんだが、すぐに空になってしまって余計恥ずかしくなった。
引き際を見失ったまましばらくすると、私の下で謙太が身動いだ。
「ご、ごめん橘……足、痺れてきた……」
「え、あっ……!」
そりゃあ、人一人足の上に乗せてたら、足ぐらい痺れるだろう。
文字通り、私は彼から飛び退いた。すこし、体のおもて側が涼しく感じる。それだけ密着していたのだろう、そう思うと余計に顔が熱くなる。今すぐに飛び込む穴を探しにいきたい。とりあえず、ハンカチを持った手で顔を覆う。
しかし、そのおかげかどんどん頭が冷えてきたようだ。なんとも言えない感じに顔を歪めて悶える謙太を指の隙間から眺めていると、背筋に冷たい汗が一筋流れた。
(いやいやいや、いきなり抱きついて号泣するとかやばすぎるでしょ、ドン引き案件でしょこれ、あわわわ……)
取り返しのつかないことをしてしまったと震える。血の気が我先にと引いていく。謙太は情けない声を上げながら足を放り出して悶えている。ここは地獄?
「あー、あー、やばい! めーっちゃ痺れた!」
一度ゴロンと後ろに倒れた謙太は、反動を使って起き上がるとまた照れ臭そうに笑っていた。
そんな彼の、前を開けて羽織ったシャツの下、チャコールグレーのTシャツには大きなシミが黒々と広がっていた。
——私の諸々がたっぷりと……!
顔から、火が出る。
「うぁぁあ、こ、殺して……」
「あはは、別にいいよ大丈夫大丈夫」
彼は笑って痴態を許してくれるが、もうまともに顔も見れない。そんな私を気遣ってか、謙太は新しいティッシュを開封してテーブルに置いてくれる。
久しぶりに感情が大きく動きすぎて、心臓のあたりが痛い。頭の中が、ぐしゃぐしゃにかき混ぜられるような錯覚に見舞われた。
「いやあ泣いたねえ。麦茶飲みなよ。脱水してない?」
あまりにもケロっとした謙太が、グラスに麦茶を足してくれる。なにこいつ、なんでこんなにあっけらかんとしてられるのか。というか私、どれくらい泣いていたんだろう。小さく頭を下げて麦茶の礼を伝え、横目で時計を確認すれば針は午後三時のあたりを示している。軽く、一時間ちょっとは泣いていたらしい。心が急速にしぼんでいく。こんな醜態を晒してしまうなんて、最悪だ……。過労気味の涙腺が、また涙の準備を始めるのを感じた。
「それで」
向かい側から、謙太の落ち着き払った声が飛んでくる。
とっさに、顔を隠したまま身構えた。
「橘はさ、ええと。今も、その……永瀬さん? なの?」
あんな話をしたのだ、気になって然るべきだろう。謙太からすれば、中身が男だという女が、泣きながらしがみついてきたのだ。自分のことだけど、彼の身になって想像したらゾッとする。
「……ううん。もう、全部混ざっちゃった。もうどっちが本当の私か、わからない」
これも、本当のことだった。彩が死んだあの時から、私は遂に波南美と一つになってしまった。混ざり合った絵の具が元の色に戻れないのと同じように、今の私は『康平』とも『波南美』とも言い切れない、そんな存在。
「それなら、ってのもおかしいけど俺、今の橘は橘でいいと思う」
「ど、どういうこと?」
「今まで誰にも言えなかったんだろ。夢の中で誰かになって、そのまま別人になっちゃうなんて信じてくれるはずがないって。
夢で見てただけの俺だって誰にも話せなかったんだ。頭おかしいんじゃないかって思われるのが怖くて。そのくせ、もしもあの時自分に何かできていればって、ずっと後悔してた。けど、君はできたんだよ。それだけで、十分じゃないかな……」
「いっ、いいのかな? こんな、わたしでも」
「大丈夫。俺が、信じるよ」
もう、限界だった。
「うぅぅう……」
また涙と感情が溢れ出して止まらなくなる。
「でも正直これ見て大人の男とは思えないよね……」
謙太が、少し呆れたように呟くのが聞こえた気がする。
「うぅう、もうそれでいいよぉ……」
**
本日二回目ということもあって、今度は三〇分程度で泣き止んだ。流石に身体中の水分が抜けきってしまったような感じがして、都度継ぎ足してくれた麦茶を一気飲みする。目元や頬が、涙で荒れてヒリヒリしている。多分、鼻もティッシュでこすれて赤くなっているだろうが、リュックに使い捨てマスクを常備しているので多少は誤魔化しが効くだろう。それに、謙太の部屋から家までは徒歩で一〇分程度だ。六月なので昼も長い。もう少しだけ、お邪魔していてもいいだろうと思った。
私が二度にわたってビタビタの皺くちゃにしたシャツを着替えた謙太が部屋に戻ってきた。胸にポケットがついた、緑と白のボーダー柄のTシャツがまた爽やかで、清潔感がある。
「いやあ、お互いなんか気恥ずかしいことになっちゃったな……」
「あ、あの……シャツ、ごめんね……。ほんとうにごめんなさい……」
誠心誠意、謝罪の意を込めて土下座する。
「大げさだよ。涙くらい洗濯すれば一緒だし」
謙太は鼈甲柄の眼鏡の下、ともすれば頼りなくも見える微笑みを湛えている。
いや、その、それだけじゃないの付けちゃってまして……。
「べ、弁償します……」
「えぇ……」
恥ずかしすぎて、顔が熱い。この部屋にお邪魔して数時間だが、もうここ数年分の感情を消費したように感じた。泣き疲れとか、気持ちの乱高下とかで、全身ヘロヘロである。
しかし、安堵しているのも確かだった。どこか自分を否定されたような切なさと共に、こうなってから初めて地に足が着いたような感じも覚えている。
彼の言った通り、これまで私は誰にも打ち明けたことがなかった。きっと、信じてもらえないだろうという諦めと、私はなんとかなるという根拠のない自信から、一人で抱え込めると思っていた。しかし今、こうやって境遇を分かち合えた瞬間、全部溢れ出してしまったのだ。あまりに弱々しいメンタルだと笑うが、ある意味これでよかったのだとも思える。
——私は、どうしようもなく寂しがり屋だったみたい。
謙太が再び、空になったグラスに麦茶を注いでくれた。そして、元々お茶の入っていた容器が空になる。
「いやしかし、なんか納得だな。入院してた時はほとんど男のままだったんでしょ?」
「うぁ……おっしゃる通りです……」
意外と、意地悪なところもあるみたいだ。昔のことを掘っくり返してニヤニヤしている。少しだけイラっとしたが、苦言を呈する権利は私に無い。
「でも、今じゃ全然年相応というか、大学の同期と比べても幼いというか、ね」
「あーあーそうですあの時からほとんど身長伸びてませんチビですぅ……」
私はわざといじけるように、体育座りになって謙太を睨みつけた。
片膝を立てて座り、愉快そうに微笑む謙太と目が合う。
そして、二人同時に吹き出した。私はジェットコースターから振り回された後、急に居心地のよい場所に納まったような感じが面白くて。謙太は、きっといじける私が面白かったんだろう。
でも、本当に久しぶりにこうやって誰かと笑い合うことができたような気がする。
「ふぁー、泣いた泣いた。すっかり空っぽだ」
体育座りのまま、膝に顔を埋めるように、ため息混じりで呟いた。
「ん。今日一日でいろいろあったけど、なんかすっきりした顔になったね」
謙太が、一安心したとでも言いたげな口調で応える。彼とは、こうやって話を聞いてくれたり外出を手伝ってくれるようになって、まだ一月ちょっとしか経っていないのに、とても大きな秘密を共有してしまったような気分だ。現金なものだが、全てを打ち明けた上で、側にいてくれる人がいるだけで心はあっという間に軽くなった。
「うん。なんだか、これでようやく前に進めそうな気がする……」
「そっか」
「まずは、ちゃんと高校卒業しなきゃね……」
「そういや橘はまだ高校生だったっけ。忘れてた」
「あはは……社会復帰からはじめるよ……」
相変わらず日当たりの悪くて、薄暗い部屋の中。
ようやく前を向く決心がついた私には、これくらいの薄明かりがちょうどいい。まだ、日向を歩くには時間が必要な気がするけど、きっと、大丈夫だろう。もともと楽天的な性格が、久方ぶりに顔を出した。
「謙太。ほんとうに、ありがとうね」
「ンンッ! ま、任せといて……」
謙太は飲みかけの麦茶に咽ながら、右手で親指を立てる。
ありゃ、タイミングが悪かったか。
「だ、大丈夫?」
◆◆◆◆
波南美を家まで送った後、コンビニで夕飯を買って帰った。
とてもじゃないが、自分で作る気力は残っていない。
とりあえず買った海苔弁当を、袋のままテーブルへぞんざいに置く。とりあえずで選んだはいいものの、そんなに空腹を感じている訳では無い。
慣れてきたと思っていた部屋が、急に殺風景でものたりないものに感じる。そして、本当に嵐のような一日だった。
——波南美はもともと男だったって?
今も脳ミソは混乱を極めている。正直、信じられないけれど、信じるしかないような話だった。今の彼女に至るきっかけが、俺も経験のある『誰かの視点』で見る夢だというのだから、質が悪い。そんなの、信じざるを得ないし、それならば入院当時の飄々とした男らしい振る舞いにも辻褄が合う。
そんなことを考えていたら、波南美に抱きつかれても逆に冷静になれた。
「ということは、俺の初恋の相手って中身が男だったのか——」
悶えた。
コンビニの薄茶色い弁当用ビニール袋の隙間から覗く海苔弁当が、妙に気に障る。
「なんだよ、なんか文句あるのかよ」
弁当に問いかける。
俺はバカか。
しょうがないだろ。当時のクラスの女子と違って話しやすくて、一緒にいて楽しいと初めて思えた女の子だったんだから。めっちゃチョロいぞ十二歳の俺。
そして、今の俺も悲しくなってくるくらいチョロいな。
悶々としてしまって仕方がない。
そうだ、先にシャワーでも浴びてしまおう。そう思った俺は替えの下着とバスタオルだけ持って、浴室へ向かった。
「なんかすげえ疲れたな……」
すっかり増えてしまった独り言をこぼしながら、服を脱ぎ去っていく。すぐ洗濯するものは洗濯機へ、そうでもないものはカゴの中へ機械的に分ける。すると、今日着ていたTシャツと白シャツが目に入った。
波南美の、いろいろ染み込んだシャツだ。
妙に指先がチリチリする。自分一人の部屋なのに、なぜか脱衣所の扉を確認してしまう。頭の中に、悶々ふたたび。それはあっという間に思考能力をダメな方向へ動員してしまう。
いちど喉を鳴らすと、カゴの中の白シャツを拾い上げた。泣きじゃくる波南美が、何度もしがみついてきたせいですっかりシワが付いている。
いや、今からやろうとしてること、かなり変態っぽいな。でもこれ、自分の服だし、おかしくないよな。そんな調子で、誰に向けたわけでもない説明と言い訳を繰り返す。しかし、腹のそこから湧き上がる衝動には勝てなかった。
波南美の頭がくっついていたあたりに見当を付け、そっと匂いを嗅いだ。
「アッ」
彼女の感触が、匂いが、マッハで蘇る。
思っていたよりもずっと柔らかくて、暖かった。それに、意外とむっちりしていて、初めて人間の体の重さを意識した。そして何よりも、人生で最も至近距離で感じた女の子の香り……。
「ンダッハァアァ!?」
手に持っていたシャツを思いっきりカゴにシュート! 冷静になれ、俺!!
あ、危ないところだった……。今日のあの距離、童貞には危険すぎる。落ち着くんだ、ただの変態に身を堕とす必要なんて無い……。
……チラリと、横目でグレーのTシャツを見る。
「いや流石にね、こっちはヤバイでしょ……」
大人しく、洗濯機の一番奥に突っ込んで、シャワーを浴びた。それでも、俺の頭を埋め尽くす悶々としたモノは少しも晴れなかった。
男子大学生のシャワーなんて、烏の行水で十分だ。あっという間に入浴を終え、首にタオルをかけたまま部屋に戻る。心なしか気が紛れたような感じもあるし、若干食欲も出てきた。ご飯を食べたら、まだ慣れないけれど大学生らしくチューハイでも飲んで寝てしまおう。そうしよう。
そんな決心をしながら、テーブルに投げ出していたスマホをチェックすると、一件のメッセージが届いていた。もしかして波南美じゃないかと一瞬ドキリとしたが、それも取り越し苦労だった。
「なんだ、姉ちゃんか」
どれどれと、内容を読んでみれば、七月の頭に泊めてくれというものだった。なにやらコンサートだかでこっちに来るらしい。
「オーケー、と」
身内同士の素っ気なさすぎる返信を済ますと、俺は晩酌に取り掛かった。
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