だれかの記憶
「ほ、本当に、人を殺めたとか、そういう訳じゃないけど——」
テーブルの向こう、謙太は身じろぎもせず、私の散らかった昔話を真剣に聴いてくれた。全てを語り終えた頃には、グラスの氷はすっかり溶けきっていた。
母を見殺しにしてしまったこと。
父との暮らしのこと。
一人の青年——自分のことだけれど——の命と引き換えに、そこから抜け出したこと。
彩という、自ら命を絶ってしまった女の子のこと。
そして、彼女の力になる、味方だと大口を叩いたくせに、なに一つとして具体的な行動を取ることができなかったことを。
「私、心のどこかでなんとかなるって思ってた。あの子は、私なんかじゃないのにね」
彩は、碌な遺言すら残してくれなかった。私や、世界のへの恨みつらみの一つも残さず逝ってしまった。
もしかしたら、誰かに打ち明けてしまいたかったのかもしれない。私の中で成長しきった、行き場の無い罪悪感を。
——彼に洗いざらいぶちまけたところで、いったい何になるというのだろう。
「ご、ごめんね。こんな、暗い話……」
少し俯いた彼の瞳は、うまい具合に眼鏡のフレームに隠れて見えない。その表情は、悲しんでいるようにも、憮然としているようにも、少しだけ怒っているようにも見える。居た堪れない沈黙に、心がざわざわして、息苦しさを感じた。
時間にすれば数分にすぎない沈黙の後、あぐらの上で両手を組んだ姿勢のまま、彼は小さなため息をひとつ吐く。
「俺……何も知らなかったんだな。本当に、何も。何一つも……」
その声は震えているように聞こえた。ハッとして彼の顔を直視するが、目元は眼鏡のフレームに遮られたまま。
「ごめんね……」
申し訳なくなって、さっきまでの威勢はどこにいったのか、謝り癖が顔を出す。
「いや、いいんだ。むしろ、俺の方がごめん。また会えたのが嬉しくてさ、浮かれてた。たかが、一緒の病院に入院してただけなのにな……」
彼が、悔しげに唇を噛むのが見えた。
胸がちくりと痛む。
「わ、私もまた会えて嬉しいよ。今日だって、謙太がいなかったら、何もできなかったもん。わたし、卑怯者だから、人に甘えてばっかりで……。ごめんね、謙太。こんな話、聞きたくなかったよね」
そうだ。彼は私に戸惑いつつも、これまで不要な詮索をしてこなかった。そんな彼の恩を仇で返すように、私の身勝手な気持ちの整理に付き合わせたんだ。これで、距離を取られてもしょうがない。
私は、彼に嫌われたいのだろうか。リュックの中にしまった雑誌に載った、佳奈の作品が私を責める。思い通りに振る舞えないことが辛い。手のひらに嫌な汗が滲んで気持ち悪い。……目が泳ぐ。
「波南美」
謙太が、俯いたまま私の名前を呼ぶ。彼は、組んだ手に視線を注いだままだ。
「……なに?」
喉の奥に酸っぱいものを感じる。お腹の底から、力が抜けていくようで、声が震えた。
「後を追ったりとか、しないよな」
「そんなこと……わたしには出来ないよ」
「そうか……」
謙太は、何かを確かめるようにもう一度「そうか」と呟いた。
日当たりの悪い部屋の中が、より一層暗くなったように感じる。壁にかかったアナログ時計の針は今がちょうどお昼時を過ぎたあたりだと示しているが、どうやら本当に日が入りにくいようだった。
「よし! 昼飯食べていきなよ。俺作るからさ」
再びの沈黙を破ったのは、膝を叩いて立ち上がった謙太の一言だった。
「え、ご飯?」
「ああ。ちょうど昼だし、橘も疲れただろ? 簡単なのでよかったら食べてって」
私が咄嗟のことで答えあぐねる間に、彼はキッチンへの扉を開けていた。手慣れた様子でフライパンを取り出した彼は、流れるように冷蔵庫の中身を確かめながら会話を続ける。
「まあ、チャーハンぐらいしかできなさそうだけど。あ、何か食べれないものとかある?」
「えっ、あの、大丈夫だよ……」
「オッケー把握」
いや、違くて。ご馳走になるなんて、悪いよ。
しかし、すっかり卑屈になってしまった私は急な方向転換についていけず、腰を少し浮かせてオロオロすることしかできない。何度か断りを入れようと口を開けるが、うまく言葉にならなかった。
「あ、ごめん橘、空いたグラス持ってきてもらっていいかな。ウチそれしかコップ無いんだ」
彼は冷蔵庫からいくつか食材を取り出すと、手を洗いながら私に指示を出した。あえてこちらを向かない彼の声は、若干無理をして明るく振る舞おうとしているように聞こえる。
私はそれに従い、溶けた氷によって薄まったココアがみっともなく残るグラスを持って、キッチンに向かう。
「ん、ありがと。流しに置いておいて、先洗っちゃう」
彼は横目で私を確認して微笑む。すっかりトレードマークのようになっている白いオックスフォードシャツの袖を肘まで捲って、渡したグラスを素早く洗っていく。雰囲気通りに丁寧な折り目で捲った袖から、予想よりも筋張った腕が伸びていて、少し切なくなった。
「なんか、手際いいね」
「うん。俺ん
洗い終えたグラスを流し脇の水切りかごへ置くと、タオル掛けから食器拭きを取り出して私の前に差し出してきた。
「へえ、そうなんだ……」
あまりに自然な流れだったので、私は相槌を打ちながら受け取り、軽く水を切ったグラスを拭き上げる。その間も彼は手早く食材の準備を始めていた。
真新しいまな板の上には、使い込んだ包丁。その向こうには半分くらいの長ネギとピーマン半個、使い切りタイプのハム、レタス少しに卵が三つ用意してある。
「すごい、ちゃんと自炊してるんだね」
「お米とか野菜とか、頼まなくても送ってくれるから」
謙太は二の腕で鼻をかきながら照れ臭そうに笑った。
「あはは、わかる。私は使いきれなくてダメにしちゃったりしてたなあ」
「あれ。橘は今、その、実家だよね」
しまった。無心で水気を拭いていたせいで、余計なことを言ってしまった。
「あっそのっ、わ、私もよく手伝いでご飯作ってるから……それで……」
「ああ、なるほど。確かに、無いと思ってた食材新しく買っちゃって、古いのダメにしたりとかあるよな」
たぶん、彼は料理が嫌いじゃ無いのだろう。朗らかに笑いながら材料を刻み始めている。よかった、うまく誤魔化せたようだ。
しかし、今では自分ですら妄想のように感じるあの出来事のことを、負い目のように隠し続けているのも不思議なものだ。きっと、私の中身が別人だなんて打ち明けても誰も信じたりしないだろう。
嫌になる。こんな苦痛も、人と関わらなければ生まれないのに。謙太が隣にいるのに、厚かましくもネガティブに陥ってしまう私が恥ずかしい……。
「大丈夫? コップ、ありがとう。あとは座って待ってて」
「え? あ、ううん、大丈夫。何か手伝うよ」
私が軽く左右に首を振りながら答えると、また彼は照れ臭そうに笑う。
「それじゃあ、冷凍庫にお米あるから、それレンチンお願いできるかな。五分くらいで」
「うん、わかった」
彼の家の冷蔵庫は結構大きい。というか、単身者のものにしてはかなりオーバースペックな、冷凍庫が下段の引き出しにあるタイプ。彼は少し不機嫌そうな声音で「実家のお古押し付けられた」と言う。なるほど、大きいわけだ。
私は彼に一言断りを入れると、冷凍庫を開け、ラップで包んで冷凍した白米を取り出す。
「ええと、電子レンジ……」
「あ、そこのカーテンの奥ね」
やっぱり、生活力がかなり高い……。わざわざ目隠しを施すなんて、私じゃ絶対に気が回らない。なぜだろうか、少し負けたような気がする。
レンジの扉を開けて、回転皿に白米を置き、加熱時間をセット。使ったことのない機種だが、流石にこれくらいはわかる。無事動作し始めたのを見届けると、邪魔にならないよう部屋の入り口まで移動して、調理を進める謙太を眺めた。
彼は「なんか見られてると緊張する」とはにかみながらも手際よく調理を進める。いつの間にか、小さな鍋にお湯を沸かしていた。そこに中華スープの素を溶かし、レタスを千切って投入する。用意していた卵の一つを片手でお椀に割ると、荒めの溶き卵にして鍋に回し入れた。なるほど、共通の具材でスープとチャーハンを作るつもりらしい。長ネギを少量入れると、塩コショウで味を整える。何度か味見をした彼は、次にフライパンを加熱し始めた。
そこから、あっという間に昼食が出来上がった。男子大学生の昼食にしては十分すぎるくらいの手際だ。大した手伝いもできなかったが、謙太は事も無げにテーブルに料理を並べていく。スペースの関係か、部屋の中に設置した小さめな食器棚から、ランチョンマットまで飛び出した。想像以上の丁寧な暮らし振りに少し頭がクラクラする……。
「おまたせ。お口に合うといいけど」
「お、お見事です……」
私の目の前には臙脂色のマットの上、綺麗に盛り付けられたチャーハンとスープが湯気を立てている。先ほど洗ったグラスには麦茶が注がれ、なんだか普遍的なノスタルジアを感じた。
オロオロと対面に座る彼を見やると、ニコニコとこちらを眺めている。これは、私から食事に手をつけたほうがいいのだろうか。なぜか試されているような心持ちのまま、スプーンを手に取った。
「い、いただきます」
「どうぞー」
**
彼の勢いに飲まれていたせいか、さっきまでの暗い雰囲気はなく、和やかに雑談を交わしながら食事を済ませた。わざわざ平日に連れ出して、お昼ご飯までご馳走になってしまったなんて。もともとマイナスに振り切っていた私が言うのもなんだが、非常に負い目のようのなものを感じる。
「あ、洗いもの、私やる」
「ほんと? 助かるよ」
だから、これくらいはやらなきゃ。私はそう思って、自分と彼の分の食器を重ねて流しまで運ぶ。彼は相変わらずニコニコしたまま、一度に持てなかった器を持って私の後を追った。
しかし、なぜだろう。なぜ謙太は洗い物をする私の隣から離れないのだろう。微妙に居心地が悪くて、チラチラ窺うけれど、微妙に読めない表情をしている。
「あっ」
「ひゃ!?」
「あ、いや、新しい食器拭き出すの忘れてた」
彼はコロコロ笑いながら、新しい食器拭きの布巾を取り出して洗い物の水気を拭きとっていく。何かやらかしたと思って、ビクついてしまったのが恥ずかしい……。
私が洗った食器を水切りかごに置くと、すぐに謙太が拭き上げ、然るべきところへ収納して行く。しばらく、食器の軽くぶつかる音と、水を流す音だけがこの場を支配した。
そして調理に使ったフライパンに取り掛かろうとした時、謙太が優しい声音で切り出した。
「俺さ、橘のことなんにも知らなかったわけじゃん」
「えっ、あ、うん……」
「だから、正直、こうやって話しをしてくれて普通に嬉しいよ」
彼はシンクのフチに手をかけて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もしよかったらだけどさ、橘にも、俺のこと知ってもらいたいというか、なんというか」
「け、謙太のこと……?」
「少なからず、橘は俺に事情を黙ってるのが心苦しくて話してくれたって思ってる。今だから言うけど、ぶっちゃけ気になってたのは事実だしね」
「あぅ……。ご、ごめん」
気恥ずかしくて、ザバザバと音を立ててフライパンを洗う。それを見てなのかはわからないが、彼は小さく笑った。
「なんていうんだろうなぁ。さっきまでのを聞いた上でだけど、俺は橘のこと避けたりしないし、できればもっと仲良くというか、なりたいとか思うよ?」
なぜか最後の方が疑問形になっている。私がどういうことなのか確かめようと見やると、彼は斜め上の方をきまりが悪そうな表情で眺めていた。少し、耳の縁が赤くなっているようにも見える。
「わ、私が、謙太のこと、知ってもいいの?」
刈り上げたうなじのあたりを見上げていると、急に彼は振り返った。そのせいで、バッチリと視線がぶつかる。
「俺さ、中学の頃、急にぶっ倒れたことがあって——」
彼の独白が始まった。
聞けば、私たちが出会った病院では、脳に出来た腫瘍を取る手術のため入院していたらしい。脳の病気と聞いて、母のことがフラッシュバックした私に、謙太は笑いながら「良性の腫瘍だったから大丈夫」と気をなだめてくれた。
そして、食事の後片付けを終えた私たちは、部屋に戻り、それぞれ座椅子に腰を下ろした。彼は、冷蔵庫から持ってきたボトルから、私の分のグラスに麦茶を継ぎ足してくれた。
「け、謙太は、だ、大丈夫だったの……?」
「ここに今いれるくらいにはピンピンしてる」
謙太はいたずらっぽく、右腕で力こぶを作るポーズでおどけてみせた。
彼は少し気の抜けた顔でため息のような長い息を吐くと、昔語りを続けた。
「ここからはさ、ちょっとオカルト臭いんだけど、まあ、橘はそういうの好きそうだからいっか」
「な、なにそれ……」
オカルト臭いとは、どういうことだろう。他人事ではなさそうな予感に、私は自然と両手を握りしめていた。
「倒れた時、変な夢を見たんだよ」
——変な夢。
今度は、私が息を呑む番だった。
**
中学二年生の八月を目前にしたある日、急に倒れた彼は気がつくととても寒いところで土木工事のようなことをしていたらしい。大きな木を切り倒し、運んでを、ただただ繰り返す日々だったという。
大きな体格の白人に見張られている中、やせ細った日本人が強制的に熾烈な労働を課せられていた。謙太はそれを誰かの視点としてずっと見ていたらしい。彼は身動き一つ取れない中、死んでしまいそうなほどの空腹や疲労を感じたという。それが、かつてシベリア抑留と呼ばれた悲劇の記憶だと、しばらく経ってから気が付いたそうだ。
その後、病気の再発等を疑って検査してみるも、体は健康そのものだったという。そんな彼の語りに耳を傾ける私の中で、もはや確信めいた既視感が膨らんでいく。
「本当に、死んでしまうんじゃないかって、毎晩眠るのが怖かった」
彼は呻いた。しばらくの間、眠る度に彼はシベリアにいたという。マイナス三十度の中、食料もなく、不衛生極まりない環境で、謙太は死の恐怖に怯えることしかできなかった。そして当時中学生の彼は、目覚めた後、誰かに相談することもできずにいた。
しかし、それは突如として終わりを告げる。夢で見ていた視点の主が、とうとう亡くなったのだ。木を切り倒している途中に、そのまま力尽きたのだという。
——最期に、途方も無い望郷の念と後悔を残して。
それ以来、謙太はその夢を見なかった。しかし、彼には心残りがあった。ちょうどその昨年に亡くなった曽祖父が、抑留経験者だったのだ。
曽祖父は、たまに酒を飲んだ時だけ、苦しそうに過去の経験を語ったという。それも、要領を得ない断片的なものだった。まるで、古びてボロボロになった本から、読めるところを無作為に抜粋するような内容だったそうだ。
**
「なんだかさ、急に虚しくなったんだ。もっと話を聴いていればよかった。
夢の中で見ていた人たちにも、
だからさ、あの戦争のこととか勉強できる大学まで来ちゃった訳……」
何かを誤魔化すように笑った彼の顔が、どんどんぼやけていく。
おかしい。私はまだ視力もよくて、近眼なんかじゃないはずなのに。謙太が、部屋の景色が滲んでいく。
壁掛け時計の秒針の音が鼓膜に絡みついて、息ができない。生暖かいものが、止めどなく頬を、輪郭を伝っていくのがわかった。
「うぉっ!? た、橘、どうした!?」
「おんなじ……わたしも、そう、だった……」
私は、彼に縋り付いて、ほんとうの全てを打ち明けていた。今の『私』は、かつて『波南美』の代わりに死んだ男だと。夢で見た波南美を助けようとした、独りよがりな正義感の成れの果てだと。
勝手に涙が溢れ出して、頭が真っ白になって、どんな風に話したか、ほとんど覚えていない。それでも、彼の温もりはすぐそばにあったことを覚えている。
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