いのちの居場所
今日は、以前連絡のあった「買い物の手伝い」当日である。
俺は目的地へ向かう電車の中で、並んで座る波南美の声に耳を傾けていた。
「あ、あの、中学の時、私美術部で……」
彼女の、小さな唇が懸命に言葉を紡ぎ出す。
「うん」
俺はいつものように、気持ちゆっくりめな相槌を打つ。
「その、同級生の子がね、い、イラストで賞を取って……」
「おお、すごい」
やはり、会話に対するストレスがあるのか、若干朱の差した頬は強張り、視線が泳いでいる。
しかし彼女も俺が自分のペースに合わせていることはわかっているのだろう。ところどころ吃りつつも話題を繋ごうとする。
波南美はとある経験から、人間関係に対して強い恐怖心を抱いてるようだった。メールやアプリの連絡先は養親や学校ぐらいしか登録せず、新しい名前——俺の名前だ——が追加されたのも、実に数年振りのことらしい。
今日の目的というのも、ほぼほぼ唯一繋がりのある子が、イラストだか何かで賞を取り、それが掲載されている書籍を買うためだった。どうも専門的な内容のようで、街中の大型書店まで足を運ぶ必要があるらしい。
しかし彼女は外出も苦手だ。特に人混みや賑やかな場所が苦手らしく、人酔いして具合が悪くなってしまうことがあるそうだ。日時については、彼女から俺に合わせると申し出があったが、そこは俺から平日を提案した。商業施設なら、平日の方が空いているだろうから。
彼女のためならば、伝家の宝刀『自主休講』でいくらでも時間は合わせられる。俺は地元の方角へ土下座を捧げた上で、入学二ヶ月目にしてその刀を抜いたのだった。
一応、ネット通販で買えないのかと訊いてみたものの、気持ちの問題で実際に店頭で購入したいと告げられた。なんとなく、その気持ちは理解できるし、そもそも想いを寄せている人と出かけるチャンスなのだ、断る理由がない。
お互い都合のよい日時をすり合わせ、当日を迎えた。とても気持ちの良い、初夏の晴れの日だった。
波南美と途切れ途切れの会話を続けながら、向かいの車窓を流れる景色を眺めた。何の変哲も無い街並みが、するすると過ぎ去っていく。建ち並ぶ家々の屋根の縁が白く反射して、チクチクと眩しい。小綺麗なマンションのベランダには、太陽光線を逃すまいと洗濯物がたなびいている。ラッシュ時は相当に混雑する車内も、平日の中途半端な時間なので乗客は少ない。対面するシートに座っている人も少なく、流れ去っていく景色がよく見えた。
——そんなありふれた情景が、何かとても尊い、美しいものに見える。初めての経験だった。
ふと隣に目をやれば、白いリュックを抱えた彼女は船を漕いでいる。睡魔に抗っているのだろうか、たまに目を大きく瞬いているが、抵抗も虚しく小さな頭が前後する。いつものキャスケットを被っていて、背中に届く髪の毛は緩めの三つ編み——入院中よくしていた髪型に似た——にしている。
俺の胸に切ない痛みが訪れた。一体、彼女はどんな経験をして、どのように、心を閉ざしてしまったのだろうか。
うまく言葉にできない気持ちを抱えたまま、彼女から視線を外せないでいた。すると、時間にしては短い間だったが、ついに彼女は睡魔に敗北を喫したようだ。体の前で抱きしめたリュックに顎を乗せて沈黙している。おかげさまで、存分に彼女の横顔を眺め続けることができた。
「橘、起きて。次で降りるよ」
軽く肩を叩いて、すっかり眠ってしまった彼女を起こす。
「んん……あっ、ご、ごめん……!」
未だ寝ぼけているのか、とろんとした瞳のままの彼女の顔がみるみる赤に染まっていく。そこまで恥ずかしがらなくたってと思うが、そんなに寝顔を見られるのが嫌だったのだろうか。
「わっ、私、いつも寝不足気味で……つい……」
「マジか、大丈夫? 体調ヤバかったら、いつでも言って」
彼女は耳まで真っ赤になって、自分は大丈夫だと繰り返す。
——記憶の中より圧倒的にしおらしい波南美もイイな、と無粋なことを考えてしまった。
服装こそ黒いズボンに白とネイビーのボーダー柄のTシャツという、シンプルな装いだが、喋り方や振る舞いは完全に女性のそれだ。入院していた頃なんて、自分のことを『俺』と言い、両手をズボンのポケットに突っ込んで無駄に男らしく病院内を闊歩していた彼女が、こんなふうになるとは。
不意に、己の下心に気がつき、嫌気が差した。表面は冷静に、優しく寄り添うような姿を繕って、腹の
再会の日や、さっきみたいに、彼女の体に触れる度に異性としての柔らかさを実感してしまう。それに、普段制服姿が多いためわかりにくいが、波南美は意外と胸がある。小柄な体格も相まって、実際のカップ数以上に大きく見えるのかもしれない。
彼女の笑顔が見たい、一緒にいたい、抱きしめたい、——結ばれたい。純粋な愛慕と、醜い劣情が混ざり合って腹の底に居座っていた。
自分の感情を理解すればするほど、喜びと苦しみが加速度的に増していく。波南美と再び出会って、いとも簡単に世界は輝きだした。今までの俺なら、こんなありふれた車窓の景色に感動することなんてほとんどなかったはずだ。
しかし、彼女が時より見せるとても悲しげな眼差しが、俺の理性を呼び戻すのだった。
「やっぱこっちまで来ると混んでるね。いけそう?」
流石にこの地域で中心的な駅だ、俺たちが乗った駅より余程混雑している。間も無く電車が完全に停車するタイミングで波南美に声をかけた。
「う、うん。大丈夫……」
体の前に回したリュックを抱きかかえたまま、彼女はただ真っ正面を見つめて答える。じんわりと、緊張が伝わってくるようだ。どうも、電車は乗ったり降りたりが苦手らしい。だからあの日は駅にほど近い公園で休憩していたのだという。
俺たちを運んだ電車が、ホームの然るべき位置で軋んだ音をたて停止すると、ドアがベルと共に開く。
「行くか」
「うん」
****
目当ての本は、二軒目の書店で見つけることができた。それを見つけるまで、波南美は消耗しながらも、全て自分から行動した。書店の店員に在庫を確認するのも、入荷予定を訊くのも。
「あ、あった。これ……」
「お、やったね」
彼女の手に収まったそれは、美術とか、イラストの専門誌だった。刊行のインターバルが大きいのか、結構なページ数のようである。彼女は目次を確認すると、中身を確認するためにパラパラと紙をめくっていく。果たして、その中の一ページに、波南美の友人の作品が掲載されていた。
「佳奈の絵だ。すごい。すごい……」
賞を取ったと聞いていたので、その素っ気ない載せ方に俺は拍子抜けしてしまった。見開きですらない。他の作品に比べれば大きいが、素人ながらもっと盛大でもいいのでは、なんて思う。
「へえ、綺麗だね」
その友人のイラストは、ファンタジーな世界の女の子の絵だった。俺は門外漢なので、どこが評価に値するかちんぷんかんぷんではあるが、第一印象が勝手に口をついていた。透明感のある色使いで、壮大な世界を描いている。しかし大きく描かれた可愛らしい女の子の表情はどこか寂しげで、背景の物語を想像させた。女の子は、大きくてブカブカのフードを被っている。そして、その真っ黒なマントには、なんとも言えない意匠の模様が描かれていた。呪術師とか、魔法使いだろうか。
「こ、この子ね、高校で、その、絵の具で描く絵に伸び悩んで、思い切ってデジタルに転向したんだって。もともと、上手だったけど、ほんとすごく綺麗……。頑張ったんだね……」
軽い衝撃だった。イラストへ慈愛のような感情を乗せた視線を注ぐ彼女が、今までとはまるで別人のように語り始めたのだ。心の重荷が軽くなったのか、小さな微笑みを湛えた彼女は満足げに本を閉じると、俺の方に向き直して口を開いた。
「け、謙太、今日はありがとう。これ、買ってくるね」
「……あ、ああ。よかったね、本、あって」
ゆっくりとレジの方へ向かう波南美の後ろ姿に、病院で一緒にいた頃の面影が重なる。一瞬のフリーズから回復した俺は、慌てて彼女を追いかけ、隣に並んだ。
彼女は、何かを堪えるように真っ直ぐ前を見つめていた。
涙だろうか。
◇◇◇◇
本当に、佳奈はすごい。
高校から始めたデジタルであっという間に頭角を現して、賞まで取ってしまった。彼女はこの春から芸大に進学して、今も芸術の道を歩んでいるという。
歩みを止めてしまった私と、自分から道を切り開いていく佳奈。
最初にこの話をメッセージで見た時、とても辛かった。彼女は昔も今も変わらない距離感で接してくれていて、現在ではほぼ唯一関わりのある同年代の子だ。それだけでも惨めになるのに、彼女はブレイクスルーを成し遂げたのだ。行き止まりを抜け出すために、全部捨てる覚悟で別の道を探し、大きな成果を手に入れた。これからも、彼女は飄々と壁を乗り越えていくだろう。遥か下に、立ち止まったままの私を残して。
だから、実際に作品を目にするのが、とても怖かった。
とても惨めな、情けない気持ちになると思っていた。
だから、私自身が逃げ出さないように、謙太に付き合ってもらうことにした。
——私は卑怯者だ。
しかし、そんな斜に構えた覚悟は杞憂に終わった。見開きですらない一ページにレイアウトされた彼女の作品は、確実に中学時代に隣で見ていた、彼女と地続きのものだった。アナログとデジタル。手段が変わっただけで、そこからアウトプットされた世界は、ありのまま、佳奈自身のモノだ。この作品からは、彼女の、なりふり構わない、意地でも創作を続けるという覚悟と、自己満足だけでは終わらないという目標が伝わってくるようだ。
本当に、彼女らしい。私以上に美術室に入り浸って、鉛筆や絵の具を人一倍消費していた彼女の姿が蘇る。筆の動きに合わせて揺れる髪の毛と横顔が、昨日のことのように思い出せた。
私の中に、じわりと暖かいものが満ちる。世界についていくことを諦めた私を繫ぎ止める、細くて柔らかい糸を見つけたような気持ちだった。
昴のようなやつもいたけれど、私はあの美術部が好きだった。部としてギリギリの人数で、先生も何を考えているかよくわからなくて、どこかマイペースな空気が流れていた空間。懐かしくて、涙が出そうだ。確かにあの時、私と佳奈は隣同士、机に向かっていたのだ。佳奈の作品には、その片鱗が散りばめられていた。
もちろん、情けない気持ちにはなった。
でもそれは、今の私にとって精一杯の前向きな情けなさだった。
向精神薬と睡眠導入剤で腑抜けた頭に、血が巡りだす。
時間はかかったけれど、少し、前に進めそうな気がする。
ビニール袋に包まれた本を、宝物のように恭しくリュックにしまい込む。いつかの夏休み、同じように本を入れたカバンを抱えた彩の姿がフラッシュバックした。
「あ、あの、謙太。これから時間、ある?」
私は、彼の好意を無下にしたくない。右隣に立つ、謙太を見上げて問いかける。
少し、話がしたかった。
「時間? うん、大丈夫」
彼は左手首の端末を数回操作しながら即答する。多分、予定なんて何も無いのだろう。わざわざ講義をサボって、平日に時間を作ってくれたことはわかっている。何か気まずいことがあるのか、予定を確認するポーズを取り繕う彼が微笑ましく思えた。
そんな彼とは、実に六年ぶりの再会だ。最初、彼はこの偶然に浮き足立っているようだった。しかし、抜け殻みたいになってしまった私を目の当たりにして、すぐに何かを察したらしい。
自業自得だな、と自嘲する。あの時の私は、これからどんなことが起きるのかを深く考えもせずに、どこか夢現のようにふわふわとしていた。まだ『俺』が、『私』になってすぐのこと。少女としての振る舞いを知らず、無意識に謙太達を子供として扱っていた頃。どうやらその記憶は強烈だったみたいで、言葉の節々に、変わってしまった私への戸惑いが感じられた。
いろいろあったんだよ。私も。
それを、全部話すね。
「じゃあ、場所どうしようか。カフェとか、橘は大丈夫?」
すっかり、私の扱いに慣れさせてしまったようだ。今日一日だけでも、私を気遣うような発言を何度もしている。
「謙太の部屋がいい。だっ大事な話だから」
少し長くなるかもしれないし、人がいるようなところではしにくい内容だ。帰りの最寄駅から、ほど近いところで一人暮らししている謙太の部屋が丁度よかった。
「おっ俺の部屋っ!? た、多分大丈夫……いや、ちょっと片付けさせて……?」
私の希望に面食らったのか、例の考え込む姿勢のまま、固まって了承してくれた。彼の顔が少し赤くなっているが、部屋が散らかっているんだろうか。この時期だから、一人暮らしに慣れてきて乱雑になっているのかもしれない。一人暮らしを始めたころの『俺』を思い出してしまう。
「ごめんね、私、わがままばっかりで」
「いやっ、全然大丈夫! むしろ、なんだろ、汚かったらごめん……」
****
謙太の暮らす部屋は、本当にあの公園の目と鼻の先だった。道路を渡ってすぐ、細い路地の先にある新しめなアパートだ。彼は、日当たりが悪い分相場より家賃は若干安めなのだと笑いながら言う。
彼の部屋は二階建アパートの一階、最奥の角部屋だ。確かに、風通りも日当たりも悪そうだ。今の私なら、色々理由をつけて住もうとは思わないだろう。実に男子らしい部屋選びだと思った。
「お、おまたせ。どうぞあがって」
超特急の片付けが終わったのか、べっこう柄の眼鏡の下、複雑な表情をした謙太が部屋のドアから顔を出す。
「お、おじゃまします……」
言い出しっぺは私のはずなのに、ドアから時々漏れてきていた、慌てた様子の物音を聞いているうちに緊張してしまっていた。
それに、同世代の男性の一人暮らしの部屋に上り込むなんて、無防備すぎるだろうか。今更、どうしようもないことばかり思い浮かんで頭の中が騒がしい。
いや、謙太は随分と大人な雰囲気の青年に成長していたし、昔馴染みの友人を招くような気分だろう。大丈夫、大丈夫。
私はどこかに言い訳をしながら、スニーカーを脱いで彼の部屋に上り込む。何の変哲も無いが、新しさがまだ残る単身者向けのアパートだ。キッチンの備え付けられた短い廊下の先に、8畳ほどの部屋が広がっている。
「おじゃま、します」
玄関と同じように呟きながら、部屋へ足を踏み入れれば、そこはなんてことのない、男子大学生の一人暮らしにしては整いすぎているくらいの部屋だった。
「ちょっと飲み物持ってくるから、ここ座ってて」
健太が示すのは、部屋の中央に置かれた楕円形のローテーブルの前の座椅子だ。ご丁寧に、真新しいクッションも備え付けてある。量販店で売られているビーズの細かいクッションだ。
「あ、ありがとう」
入れ違いにキッチンへ向かう謙太へ礼を述べるが、私はうまく笑えているだろうか。多分、ぎこちないだろうなと思う。
勧められたまま座椅子へ座ると、テレビ台代わりのカラーボックスに詰められた漫画が目に入った。こういう感じ、自分が大学生だった頃と何も変わらないんだなと感慨深い。すんと鼻から息を吸い込めば、スプレータイプの消臭剤の香りがする。なんだか、甲斐甲斐しくて可愛らしさすら感じてしまった。
「おまたせ。お、俺の部屋何か変?」
丁寧にコースター付きで、アイスココアがテーブルに置かれる。
「ううん、大学生の部屋だなって。いいと思う」
「やっぱり、そんな感じする? 雑誌とかみたいにはいかないよね……」
テーブルの向かいに腰を下ろした謙太は、自分の部屋の中なのにどこか居心地が悪そうだ。日当たりの悪い部屋の中、しっとりとした沈黙が訪れる。私が唇を湿らそうとココアに手を伸ばした時、どちらかのグラスの氷が崩れて、カランと涼しげな音がした。
「あのね、わ、私、人殺しなんだ」
目の前の優しい彼の、息を呑む音が聞こえてくるようだった。
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