泣き虫毛虫、どっかいけ

 二人で秘密を分け合った日から、ひと月ほどが経った。

 あれから私は、少しずつだけど、できることを増やしていった。

 例えば、登校日を少し増やした。まだ、人間関係を築くことに恐怖心は残っているが、学校はちゃんと卒業しなければ。

 また、将来ある程度ちゃんとした職につけるよう、専門学校への進学を決意した。散々迷惑や心配をかけてばかりの養親に頼らなければいけないのは心苦しかったが、なるべくアルバイトや奨学金で学費を賄っていきたい旨と合わせて進学の希望を告げた。


 ……なんとなくわかっていたが、かけがえのない私のは、とても嬉しそうに背中を押してくれた。学費の心配はいらないとまで言われたが、どこかで、ちゃんと恩返しをしていきたい。私は、本当に素敵な人たちに救われてきたのだと実感した。


 通い続けている心療内科でも、薬を減らしていく方向で話を進めている。あれ以来、自分でも驚くほどよく眠れていた。学校に勉強、一日でできることは普通の人よりよほど少ないが、何かするべきことがあると全然違う。たまに、昔のことを思い出して辛くなってしまうこともあるが、それで一日中身動きが取れなくなるようなこともなくなった。

 余談だけど、食欲も戻ったせいで少し太ってしまった。抗うつ剤に太りやすくなる副作用があるのは知っていたが、ここまでとは……。今着てる服がダメになったとか、そういう事はないけれど、ちょっとだけショック。


 それと、謙太とはより親密になったと思う。相変わらず公園で出くわしたり、また外出に付き合ってもらったりしている。たまにだけど、部屋にお邪魔して勉強を見てもらうこともある。とことん情けない話だが、私の頭はすっかり鈍くなってしまっているのだ。長文を読もうとすると目が滑るし、記憶力も怪しいし頭が回らない。受験から解放されてさほど経っていないはずの謙太には悪いが、私なんかより新鮮な頭をしている彼に家庭教師代わりになってもらっていた。


 **


 そして今日も彼の部屋で勉強を見てもらう予定だ。いつもお世話になりっぱなしなので、心ばかりのお土産も用意してある。お母さんと一緒に作った枇杷びわのタルトだ。ここ何年か半分引きこもりみたいな生活をしていたせいか、料理やお菓子作りにはそこそこ自信がある。謙太の作る『男の料理』も嫌いじゃないが、ちょっとここらで女子力を見せつけてやろう。


 朝から梅雨らしいグズグズした天気だが、私の心は晴れやかだった。少しずつ、人間らしさを取り戻していっているような気がして、それが面白くてひとりでくつくつと笑う。私は寂しがり屋だから、きっと誰かと一緒にいた方がいいんだと思う。やっぱり、謙太みたいな友達がいると気が楽だ。今度、佳奈にも紹介してあげよう。謙太は物腰柔らかいし、冗談も通じるからきっと仲良くできると思う。


 ——ほんと、佳奈にも悪いことしたなぁ。


 私は開かれたクローゼットの前で、着ていく服を選びながら物思いに耽る。中学時代のことを考えると、胸がちくちくする。よく、あそこまで腐ってた私を見捨てずにいてくれたものだと思う。謙太も、佳奈も、私の大切な恩人だ。


「さてと」今日は何を着て行こうか。


 一度声を出して思考を切り替える。テレビの天気予報では、真夏日とまでは言わないけれど、熱中症に注意とあった。いつも外出する時は、何も考えずにスキニーと適当なシャツやブラウスを着ていたが、それだと暑すぎるだろうか。

 ……久しぶりに、ワンピースとかスカートにしようか。


 気がつけば、手が勝手に一着のワンピース——北欧風の赤い花柄の——を取り出していた。不意に彩と過ごした夏がフラッシュバックして、涙腺を刺激する。

「うあっ」

 急激に涙が溢れそうになって、ワンピースを持ったままの両手で顔を覆った。膝の力が抜けて、崩れ落ちそうになるがなんとか堪える。布地越しに大きく息を吸い込むと、防虫剤の匂いの中に、柔軟剤の香りの面影がある。それを感じ取るとぎりぎりのところで涙は引いていった。

 あぶないところだった。こんな調子じゃ、泣き顔か泣いた後の顔が私のデフォルトになってしまうところだ。謙太に気を遣わせちゃうかもしれないし——。


「うっそでしょ?」

 せっかくだから、着てみよう。とかそんなことを考えた自分を呪いたい。身長的にイケると思ってたが、もっと別なところがダメだった。

 私は生まれて初めて、ファスナーが途中でつっかえるという経験をした。もちろん、男だった二十二年間と合わせて……。


「いや、でも? 中学時代の服が着れないのは当然では? 私ももう大人ですし?」


そういうことにしておこう。そう言い聞かせて、自分を守ることにした。ほんの少し、少しだけ虚しい……。


 実は私の誕生日は結構早い。この体はつい先月誕生日を迎え十九歳となった。そういえば、謙太は何月生まれなんだろう。私は、まだまだ知らないことばかりだなあと、小さくため息をついて途中で諦めたワンピースを脱ぎ去った。


 結局、涼しげな麻のひざ下丈のスカートと半袖のブラウスを着ていくことにした。


 ****


 見慣れてきたアパートの扉の前に立って、インターフォンのボタンを押下する。いつもと違う系統の服を着た私を見たら、謙太はどう思うだろう。そんなことを考えているとなんだか少し緊張してしまい、タルトの入った袋の持ち手を弄んでしまう。

 呼び出し音がピンポーンと響いてからちょっとして、扉の向こうから足音が聞こえてきた。

 おや、いつもより少し慌ただしい足音だなと思った時だった。


「はーい?」


 三〇センチくらい開いたドアから顔を出したのは、見知らぬ女の人。


「ふぇっ」


 いつもの鼈甲柄の眼鏡姿を想像していた私は面食らって、情けない声を上げてしまった。

 ど、ど、どちら様でしょうか……。まっすぐな黒髪を下ろした、きりりと涼しげな目元をした大人の女性だ。でも、午前中なのに酒臭い……。


「あら可愛らしい」

「えっあっ、あれっ? あの、す、すみません、ここ、謙太の、へ、部屋、間違えっ!?」

「あららら、君、謙太のお知り合い?」

「ふえっ、あっ、はいっ」

「……あー、ごめんね、今ちょっとあの子パシリに出しちゃったの。汚い部屋だけど、上がって待ってて」

 ちょうどその時、ポケットの中でスマホが震えた。ヴーン、ヴーンと繰り返す振動は、電話の着信だろうか。慌ててそれを取り出すと、画面には謙太の名前。

「へっ?」


 彼の部屋から現れた初対面の女の人に驚いて、若干パニック気味だった私を、その着信が冷静にさせた。


「あっあの、すみません、ちょっと、電話が」

「ありゃ、謙太かな?」


 だ、誰なんだろうこの人。私は彼女を訝しみつつ、電話に出ることした。


「も、もしもし? 謙太?」

『もしもし橘? ごめん、もうウチ来ちゃった!?』

「え、あ、うん、ちょうど今。し、知らない人が出て来て……」

『ほんっとごめん! 今日姉がくるの忘れてて!!』

「あっ、お姉さん?」

『あの人夜行バスから直接ウチに来たから、橘に連絡するタイミングなくて……!』

「そうなんだ……」

『すぐ戻るから、部屋で待ってて!』

「あ、うん。わかった」

『ごめん! それじゃ!』


 ブツリ。珍しく切羽詰まった様子の彼に気圧されて、終始生返事しかできなかった。あっけにとられて耳から離したスマホの画面には、不愛想なデジタル時計が表示されている。


「あっ。あの、謙太、くんの、お姉さんですか? わ、私、橘波南美っていいます」

「そうでーす。謙太の姉の、美沙でーす。よろしくねぇ」


 短い廊下の途中、壁にもたれかかってこちらを眺める彼女が、私へ何かを探るような視線を向けている。なんとも言えない居心地の悪さを感じて、尻込みしていると「ホレホレ」と催促され、私はおずおずと部屋に足を踏み入れた。


「いやあごめんね? お茶のひとつでも出してあげられればいいんだけど、アイツの部屋来るの初めてだからどこに何あるかわかんないのよ」


 美沙と名乗った彼女は、ざっくばらんな口調で詫びると、なんの躊躇いもなく謙太のベッドに腰を下ろした。凛とした雰囲気に、乱暴な口調が不思議とマッチしている。

「あ、お茶とか、コーヒーならその棚の二番目に置いてあると思います」

 そんなことを考えていたせいか、それとも親切心からか、余計な一言をこぼしてしまった。それを聞いた彼女は一瞬眉間に皺を寄せると、さらに胡乱げに私を見つめ口を開いた。


「……波南美ちゃんだっけ。初対面で悪いんだけれど、アイツとどんな関係なの? 見た感じ中学生か高校生? 随分とこの部屋のこと、知ってるみたいだけど」


 彼女の刺すような視線に射抜かれる。部屋に入ってすぐの場所に突っ立ったままの私は、何かいけないことをしてしまっただろうかとか、気に障ることをしてしまっただろうかと考えたが、思い当たることは一つもない。


 ——いや、もしかして中学生と間違われてるのか?


 あれ、これはなんか誤解されている気がする。確かに私はこんなちんちくりんだが、年齢的には謙太と同い年だ。


「あっ、えっと、友達です! 昔入院してた頃、病院で知り合いました」

「入院? それってアイツが小六の時よね」

「そ、そうです。同い年なんです私たち」


 私が言い切ると、なんとも言えない沈黙がやって来た。お互い、次の出方を探り合うような。しかし、その沈黙は彼女の素っ頓狂な声で破られた。


「へ? マジ? え、謙太とタメなの? アイツに脅されて嘘ついてない?」

 彼女は涼しげな印象の瞳を大きく見開いて、驚きを隠そうともせずそう言った。第一印象よりも、感情をストレートに表すタイプの人なのかもしれない。

「ほ、本当です! ええと、保険証、見ますか?」

「いや、そこまではいいんだけどさ……」

 またもや、お互い言葉に詰まる。

 ど、どうしよう。そこはかとない気まずさを感じながらも、どうして予めお姉さんが部屋に来ると教えてくれなかったのだと胸中で謙太を責める。

 だが、そんな苛立ちは彼女の発言によってかき消されることとなった。


「あー! 思い出した! 例のあの子か!!」

「あ、あの子?」


 片方の手の平にもう片方の拳を打ち付けた、教科書通りの「ひらめき」のポーズを取った彼女と、急なテンションの差についていけない私。


「いやあ、君がそうかあ。なるほどねえー」

 俄然テンションが上がったのか、ベッドの上であぐらをかいて前のめりになるお姉さん。今度は随分と楽しそうにニコニコと笑っていて、アルコールのせいか頬が上気している。なんとなく、謙太が物腰柔らかで落ち着いた青年に成長した理由を垣間見た。きっと、色々振り回されてきたんだろう。以前の私にも兄がいたから、何となくその心労が偲ばれた。


 私はそんなことを考えつつ、何も言えないでいると、彼女はしきりに「そっかそっかぁ」と繰り返しうんうん唸り始めた。


「いやあ、あのバカが一人暮らしに浮かれて未成年部屋に連れ込んでるのかと思ったよぉー。あーなるほどなるほど、お姉さん安心したー」

「はあ……」

 まだ私たち一応未成年だけどね。

「私のバイト先にもね、ストーカーに付き纏われて携帯とか全部変えて転職してきた人いるのよー。だから波南美ちゃん、アイツが何かやらかしたらすぐに私に言ってね。速攻でぶっ殺すから!」

「わ、わぁ、頼もしいです……」

 ヘッドロックをキメるジェスチャーを繰り出しながら、終始ご機嫌そうなお姉さん。完全に気圧された私は、生返事を繰り返すことしかできなかった。


 正直、どうしていいかわからない。間が持たないし、居心地も悪い。

 ……そうだ。こんな状況では勉強なんて手につかないだろうし、お菓子だけ置いてお暇しよう。それが正解だ。後で謙太には苦情を入れるとして、せっかく作ったお菓子に罪はない。お姉さんにも召し上がってもらおう。


「あ、あの、これ、枇杷びわのタルトです。よかったら謙太くんと食べてください」

 私は部屋の中央に置かれたテーブルへにじり寄ると、持参した袋を置いてそう絞り出した。まるで賄賂を渡して見逃してもらうような心持ちだった。

「うわっすっごい! これ、手作り?」

 彼女が歓声を上げて袋の中を覗き込む。その勢いに押され気味な私は、図らずしも退路を塞がれたようなかたちになる。

「あ、はい……。一応、そうです……」

 こんなことになるのなら、適当な紙袋に適当なタッパーで持ってこなければよかった。急に気恥ずかしくなって、耳が熱くなるのを感じる。


「なるほどねぇ、こんな彼女ができれば浮かれるのもしょうがないかぁ」

「……か、彼女?」

「いやほんと、いつも愚弟がお世話になってますぅ」

「えっ、いや、私たち、そんなんじゃ……」

「いやいやいや! いいってそういうの。だって今日もお部屋デートだったんでしょ? ほんとごめんねー謙太バカで。私ネカフェにでも行ってるからさぁ」


 彼女は「つーか最悪だよねデートとダブルブッキングとか、アホかよ、バカかよ」と暴言を吐きながら、自分のらしき荷物を纏めていっている。


「あのっ、わたしっ!」


「ただいま!」


 玄関のドアを開ける音と謙太の声。……この事態の元凶がのこのこと帰ってきた。本当にナイスタイミングだと思う。歳の割に落ち着いていて、いい奴だと思っていたけどダメなところもあるんだな。そう思った。そして、できれば私がこの部屋を去るまで戻ってきて欲しくなかった。話がややこしくなるでしょうが……。

 そして、不機嫌そうな足音が部屋の扉を開けた時。


「コラー! このバカ太、デートの約束忘れるとか最低だぞ!! 死ね!!」

「んべっ!?」


 買い物袋を下げた謙太が部屋にやってくるなり、お姉さんの投げた枕が顔面にぶち当たる。顔面にぶつかった枕は、一瞬の間重力を忘れ、妙にゆっくりと落下した。

 当のお姉さんは、間抜け面のまま固まる謙太を見て爆笑している。


「この……このクソ姉貴! クソ酔っ払い! いきなり何すんだよ!?」

「んん……? おやおやおやおや? 謙太くぅん、君どんなに怒ってもおねーちゃん呼びだったよね? ね? あれれれれ、彼女の前でカッコつけたいお年頃? ッハー! そんなの高校で卒業しとけよぉ!!」

「は、はぁ? うっせえな!! 朝っぱらから酒飲んで女捨ててるくせに!」

「夜行バス苦手で眠れなかったんだからしょうがないでしょ!? つーかそもそもアンタがちゃんとスケジュール管理しとけば良かっただけじゃん! それじゃ留年するよ留年!」

「う、うっせえな! 全然フル単余裕ですー!!」


 ——わあ、きょうだい喧嘩だ。実に見事なきょうだい喧嘩だ。


 売り言葉に買い言葉。ぽつねんと立ち尽くす私をスルーして、どんどんエスカレートしていく二人。


 それを眺めていたら、ふと、兄との喧嘩を思い出した。二つ年上の兄とは、何から何まで喧嘩ばかりだった。

 おもちゃから、ゲーム、おやつの取り合いに、その原因の枚挙に暇がない。男兄弟だったから、成長するにしたがって怪我をすることもあった。今では、それも全部遠い記憶の中、思い出でしかない……。


 胸が、締め付けられる。


 かつての自分にあったはずの、暖かな関係が、すぐ目の前で繰り広げられている。私は、それを羨ましいと思ってしまった。


 なんて、なんて私は浅ましいんだろう。ようやく自分を受け入れて、少しでも前向きに生きていこうと思った途端に人を羨むなんて。私自身、羨望や妬みの感情を持たない聖人君子のような人間じゃないことは十分理解していたが、それでも、やりきれない思いがあった。

 唯一の理解者でいてくれると思っていた謙太は、私が失ってしまったものをたくさん持っているんだ。被害妄想に近い疎外感を、覚えてしまった。


「あぅっ、あっ、ご、ごめんなさいっ」


 そして、すぐに泣き出してしまう自分が大嫌いだ……。ここで泣いたら、二人を困らせてしまうのに、私の涙腺は我慢することを知らなかった。


「ちょっとー謙太!! 波南美ちゃん泣いてるじゃない! サイテー!!」

「うわっ、大丈夫か波南美! どうした!?」


 二人同時に私に駆け寄る。

 二つの手の平が、嗚咽する私の背中をさする。

 それは、確かに、彼女と彼が血の繋がったきょうだいなのだと主張していた。


 なぜか、こぼれ落ちた涙がラグを汚さないといいな、なんて考えながら腕で涙を拭った。

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