やさしい人たち

 思い返す。

 かつて、私が俺だった頃を。

 県庁所在地というだけで何もない田舎に生まれて。平々凡々な日常に退屈しながら、何不自由なく歳を重ねてきたこと。

 幼稚園から、小学校に中学校、高校に大学。いろんな人が周りにいた。幸運なことに、特別悪い人間とはあまり縁がなかったように思う。

 出会う人みんな、さやしい人が多かった。


 かくいう、本来の波南美の方はどうだったんだろう。理屈はよくわからないけど、今の私は波南美としての記憶も、ちゃんとある。詳しいことはよく知らないけど、体が記憶を持っているとかテレビで見た気もするし、そういうことなのかもしれない。とはいったものの、波南美のお母さんが死んでしまったときとか、そういう強い記憶は自分のことのようにわかるのに、それ以外の普通のことはどうにもうまく思い出せない。

 なんとなく、両親ともに健在だった頃は友達も多くて明るい子だった、ということは覚えている。


「包丁を持ってる時にぼおっとしない」

「あ、ごめんなさい」


 ついぼおっとしていた私は、すぐ隣で煮付けの味見をしていたのお母さんに叱られた。


『やさしい人』

 その言葉が人間になったら、この人たちの姿になるんじゃないか。ふとそう思った。

 私を引き取って、これまで育ててくれた人たち。お母さんとお父さん。偽物の波南美である私にとって、ただの他人と呼んで差し支えないような。

 それでも、この人たちが私に与えてくれた愛は本物だって、よくわかっている。それくらい、やさしくて、素敵な人たち。


 薬味用の万能ネギを刻む手に集中しながら、横目で様子を窺う。

 この家に来てからそれなりに経ったけど、今も背筋のシャンとした、綺麗な歳の取り方をしたひと。

 それでも、随分と白髪が増えたように思える。

 それに、テキパキと料理をこなしていくすっとした指には、こんなに皺が刻まれていただろうか。毎日忙しそうにしているお父さんが、腰を労る姿。それももっと珍しいものではなかったか。


 そう思ったら、胸の奥を、ぎゅっと握りしめられるような感じがした。


 そうだ。私は前もこんなきもちになったことがある。

 大学生の頃、進学したての頃に比べて帰省の頻度も減った時。確か、四年生のお盆だったと思う。

 高校生の頃は毎日乗っていたローカル線の車内の匂いに、最寄り駅の構造。実家の周りの住宅街の道。夏の日差しでぐんぐん伸びる庭の植木の枝葉や雑草の処理が間に合っていない冴えない実家。薄暗い玄関の中、笑顔で俺を出迎えてくれた母。


 眼に映るもの全部が、突然歳をとって、小さくなったように感じたときの気持ち。

 

 切なくて、哀しくて、避けようのないものを予感させるあの気持ち。


 怖い?

 それとも不安?

 身の回りのやさしさやしあわせが、自分の知らない間に奪われていくような、そんな気持ち。

 それなら、私や俺からそれを奪い去るものは何なのだろう。


 ——時間。


 すべての人々や物事にとって平等な、唯一絶対なもの。時間が過ぎれば、生き物は衰えるし、かたちあるものは壊れていく。痛みや悲しみだって、だんだん朧げになる。そしてまた同じことが繰り返されて、世界は回っていくんだろう。


 それなら、どうしてこんなに過去のことばかり、頭の中をぐるぐるしているのか。


「痛っ」


 そんな風に、答えの出ないことを考えていたら指を切ってしまった。

 反射的に手を引っ込めて、左手の人差し指を咥える。口の中に、鉄とネギの香りが広がった。あんまり美味しくない。お母さんは「ほらもう、集中してないから!」と私を叱る。そんなお母さんの表情に、私への遠慮のようなものは感じられない。お母さんは器用に、呆れたような、それでいて慈しむような顔をして私の指に絆創膏を貼った。久しぶりの消毒液は結構しみた。

 


 ****



「じゃあ私、お店の前で待ってるね」

「ごめん、すぐ戻るから」


 謙太は、申し訳なさそうに眼鏡の向こうの眉を下げると、コンビニの自動ドアに吸い込まれていった。


 もうすっかり夏だ。記憶よりずっしり重くて、まとわりつくような熱気が容赦なく体力を奪っていく。そのくせコンビニの店内はエアコンが寒いくらい効いていて、かえって体調を崩しそうだ。それに、ATMを利用するだけだという謙太にわざわざついていくのも考えもの。幸いお店の庇の下は影だから、こうやってお店の前で待つことにした。


 イベントやキャンペーンのポスターがごちゃごちゃと貼られた窓ガラスの前。頼りない日陰に身を寄せる私は、ショルダーバッグから水筒を取り出してその中身を一口飲んだ。今の両親から買い与えられたメーカー品の魔法瓶の水筒。すごい、まだ冷たい。昔、少年時代に使っていたスポーツ用の水筒は、すぐに氷が溶けて温くなっていたのを思い出した。


 私は、冷たい液体が喉を通り抜ける感覚に嘆息すると、ハンカチで頸に滲んだ汗を拭って視線を彷徨わせた。目の前の道路、少し先の方には逃げ水。見ているだけで暑くなりそうな景色だ。細々こまごまとした街並みの道沿いという立地だからか、お店の前には自転車が数台だけ止められるような小さなスペースがあるだけ。むかし住んでた街では、よほど都心部に行かない限り、駐車場が付いていることがほとんどだった。むしろ、トラックのドライバーが休憩できるくらい広い敷地のお店の方が馴染み深いかもしれない。


 最近増えた、身を焼くような郷愁に小さなため息をついた時、道の向こうから一台のバイクが徐行でやってきた。

 精悍な顔つきの、真っ黒なカウル付きバイク。それなりに排気量の大きい車種なのか、お腹の底に響く重低音が耳に届く。それに跨るライダーは、シールドがミラーになっているフルフェイスのヘルメットにメッシュのジャケットという装い。そして、車体に負けない長身と体格。なぜか頭の中に謙太が比較対象として浮かんだ。……謙太じゃ勝てないだろうなあ。何とは言わないけど。


 無意識にそれを目で追っていると、そのバイクはウインカーを出してコンビニの軒先に停車した。

 よく手入れされているのか、日差しをギラギラ反射させるバイクから降りたライダーは、すぐさまヘルメットを脱ぎ去る。そのヘルメットの下から現れたのは、黒々とした短髪を爽やかに刈り上げたスポーツマン然とした青年だ。そして、暑くてたまらないといった表情をしている彼と目があった。



 咄嗟に『あっ、やばい』と思ったものの、どこかで見たことがあるような顔立ちに目が離せない。それは向こうも同じなのか、彼は驚きの色を浮かべると、ヘルメットをミラーにかけスタスタと近づいてきた。


「よお。久しぶり」


 低くて、男らしい声が頭上から降ってくる。

 

「……ど、どちら様でしょうか」

 

 私は、ガタイの良いシルエットを見上げながら、たじろぐようになんとかそれだけ絞り出した。

 

「あー、俺だよ。中学ん時一緒だった若山。ホッケーの」


 あ、っあー……。

 ようやくこの既視感が腑に落ちた。ファーストコンタクトこそ年相応の悪ガキらしさで私に絡んできたものの、それ以降はそれとなく気を遣ってくれていた同級生の子だ。しばらく見ない間に、随分とでっかくなっていて気づけなかった。2回目の中学時代、まるで、ずっと昔のことのようだ。


「あ、うん、ごめんね。久しぶり、若山君……。よく、私だってわかったね」

「おう。俺記憶力いいから」


 彼はそう言って不敵に唇の端を持ち上げる。そんな、ちょっと気取ったような振る舞いも、タッパがあってがっしりとした体つきのせいか良く似合っていて、思わず少し笑ってしまった。

 

「この辺住んでんの?」


 若山君は、メッシュジャケットのジッパーを開けながら周りを軽く見渡してそう言った。


「うん。この辺り」


 彼は「そうだったんか」と頷くとジャケットを脱いだ。プロテクターの入ったジャケットの下に隠されていたのは、筋肉でアームホールがパツパツになった白いTシャツ。夏の太陽の下によく似合う、眩しいばかりの肉体美。周囲へ生命力を振りまくようなその景色に、すこしだけめまいがした気がした。


「あ、あいかわらず鍛えてるんだね……?」

「筋肉は裏切らないからな。筋肉はいいぞ」

「あ、あはは」


 なんとか笑顔を取り繕う。ほんとうに、めまいがするような気がする。

 思い出す、思い出す。中学時代のこと。

 暑さとは関係のない、嫌な汗が滲んで。視界がぐらぐら回ろうとし出す。


「ん、どうした?」


 長身の彼が、身をかがめてなんか言った。「橘、大丈夫かお前。顔色悪いぞ」なにを言っているのか、いまいちわからない。謙太より、おしゃれに気を使った感じに整えられた眉が困っている。吐き気。なにか言え、私。人をむやみに困らせるな。なんで気の利いたこと一つも言えないんだ、バカ。唾を飲み込む。息ができない。

 

「あ、あの!」

「あ゛?」


 その時、彼の向こう側から謙太の声がした。無意識に、私と向かい合うライディングブーツのつま先へ固定されていた視線を上げると、とても強張った表情の謙太がいた。彼は、両手を居心地悪そうに何度か握り直すと、言葉を続ける。


「俺の、ツレが、なにかしました?」

「あ? ツレ……?」

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かげおくりの君へ ふえるわかめ16グラム @waaakame16g

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