水の中のナイフ
暖房の効いた教室が笑い声に包まれた。
クラス一のお調子者が、今流行りの芸人の真似をして、池ちゃんを嘲ったのだ。
彼女は、吃りがちながら、精一杯英語の教科書のセンテンスを音読しただけなのに。
酷く嫌味な、不愉快な空気だった。
咄嗟に彼女を見れば、俯きながら崩れるように着席していた。生憎、席替えによって距離が開いてしまったが、ここからでもはっきりと見える。薄く小ぶりで可愛らしい耳まで真っ赤に染まった横顔。今にも決壊してしまいそうなほど涙の溜った瞳が、ぱっつんに切りそろえられた長めの前髪に隠れていた。
見兼ねた先生が注意するが、形だけの叱責なのは見え透いていた。
頭がカッとなり、周囲の音が遠ざかる。その後すぐ、悔しさと怒りが綯い交ぜになった感情が押し寄せ、吐き気がした。なぜか泣きそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
俺の小さな顎が、ギリリと鳴った。
——泣き出してしまいたいのは、彼女の筈なのに。
****
「ねぇ、大丈夫、池ちゃん……?」
昼休み、彼女は図書室から最寄りの女子トイレの個室に逃げ込んだ。
唯一鍵のかかったドア、その奥に彼女は閉じこもっている。時折、向こう側から鼻を啜り上げる音が響く。
冷暖房の無いタイル張りの室内には、外部から遮断されたように冷たい空気が満ちているため、吐く息が若干白い。指先がぴりぴりとかじかむ。
「あんまりここにいると、風邪ひいちゃうよ」
返事はなく、気配だけがざわついている。
無力感に、鼻の粘膜がツンとする。
「池ちゃん。保健室行く?」
それでも俺は開かない扉へ問いかけを続ける。
「じゃあ、サボっちゃおうか」
薄い簡素なドアの向こうから、ガタリと音がした。
「だっ、だめだよ、さ、サボったらまたみんなに嫌な事い、言われちゃう……」
ところどころ水っぽい音が混ざる声音だったが、ようやく返事が返ってきた。
予想以上に真面目で不器用な想いに苦笑する。
「大丈夫、私も一緒だから。それに、クラスのみんな一人一人と仲良くなる必要なんてこれっぽっちも無いよ。人の嫌がることする奴なんて赤ちゃんからやり直せばいいんだって、そう思えばいいんだから」
何度か鼻をかむ音がすると、扉が静かに解錠された。
が、しばらく待てど彼女は出てこない。
「どうしたの、大丈夫? 出れない? ……入っていい?」
無言の肯定だった。あまりにピンと張り詰めた空気に、体の芯まで冷えてしまうような気がする。俺は一度カーディガンの袖を指先まで引っ張り、その手でドアをゆっくりと押した。
あっけなく開いた個室に入ると、便器に腰掛けた池ちゃんが、自分の身体を抱くようにして震えていた。赤く腫れぼったくなった目元が前髪の隙間から覗く。暗がりの中、いまだに潤んだ瞳だけが煌々としていた。
「池ちゃん、寒いんでしょ。ほら、これ着て」
歩み寄りながら着ていたカーディガンを脱ぐと、彼女の肩にかけた。実際かなり寒い。彼女も着込んではいるが、こんなところでずっと座っていれば底冷えもするだろう。彼女の手を握ると、案の定冷え切っている。
「おーよしよし、かわいそうに、冷え冷えじゃないか。私が暖めてあげよう」
座ったままの彼女の肩に腕を回し抱き寄せると、冷え切った髪の毛が首元に当たった。サラサラとした新品のような頭髪からは、どこか懐かしいようなシャンプーの香りがする。たまに鼻を啜る彼女は口をつぐんだままだ。
俺は無意識に、名前を呼びながら、形のいい頭をゆっくり撫でて続ける。
「
彼女は夏休み以来、一層授業に集中するようになっていた。その中でも、特に英語に力を入れていた。
——わ、私ね、原書を、よ、読んでみたいの。それに映画とかも。
以前、彼女の家で映画を観た際に、少し照れながらこう言った。
ロスト・イン・トランスレーション。他言語に翻訳する際、どうしても失われてしまうニュアンスや意味。彼女はそれを確かめてみたいという。自分の中学生時代と比べるまでもなく高い志に俺は感心しきりだった。
そして、できれば側で支えてあげたいとすら思った。もっとも、俺の語学についての知識や学力は人並み、もしくはそれ以下だが。
しかし、彼女の想いは裏目に出た。積極的に授業に参加しようとすればするほど、クラスメイトからの足の引っ張り合い、出る杭の打ち合いの標的となった。何度か庇うために俺が矢面に立ったこともあるが、嘲笑われる度に彼女は傷ついただろう。
俺なんかどうでもいい、一体どれだけイジられてきたと思うんだ。中学の教室で、高校の部活で、サークルや研究室の飲み会で。すっかり耐性もあしらい方も身についた俺に比べれば、彼女はナイーヴすぎた。
それにあと一月もすれば春休みだ。
もしかしたら、二年生では違うクラスになるかもしれない。今のクラスの空気は最悪だ。『俺』でも『波南美』でもどっちでもいい。彼女の数少ない友達の『一人』として、最後まで味方でいよう。そう決心していた。
「学校しか知らないと怖いけど、逃げるのって悪いことじゃないよ。三十六計逃げるに如かずって言うでしょ。子供の悪口なんて、構う方が無駄なんだから」
ゆっくり頭を撫でていると、体温で温まったせいか、シャンプーの香りに彼女の甘い成分が混ざる。いつの間にか震えも止まっていたようだ。
すると、彼女は頭上の俺の手を取り、涙の跡が痛々しい瞳で見上げてきた。
「な、波南美ちゃんは、偶に私とか、み、みんなのこと子供扱いするよね……」
どきりとした。全て、見透かされていたのかもしれない。
でも、もしかしたら、彼女になら言えるかもしれない。
そう思ってしまった。
「まあね……。私……実は、23歳のお姉さんなんだよ」
俺が波南美になって、瞬く間に一年が過ぎ去っていた。
「あ、あと、本当は、私……」
「あはは。波南美ちゃんいつも冗談ばっかり。あ、あんまり面白く、な、無いことも多いから加減したほうが、いいよ」
ころころと笑う彼女を見ると、安堵と苦しみが胸に染み渡った。
そりゃそうだよ。こんなの、冗談にしか思えない。常日頃から訳の分からないことばかり言っていたせいか、狼少年にでもなったようだ。
むしろ、『本当は波南美じゃない』なんて口走る前に、冗談だと笑ってくれて助かった。どうやら、この秘密はまだ打ち明けられないらしい。
俺は泣きそうになるのを堪え、一度奥歯を噛み締め、小さく深呼吸して笑った。
「えーマジ? ちょっと傷ついたわ。でも、彩が笑ってくれるならそれでいいよ」
この言葉に他意はない。彼女には、できるだけ笑っていてほしい。
「へっくし! うー寒い。ほらほら、場所変えよう、暖かいとこに」
思っていたより体が冷えていたようだ。カーディガンも着ないで長居するには寒すぎる。俺は彼女の冷たい手を引いて個室を出た。もちろん、このまま教室に戻る気は一切なかった。
俺たちは、予鈴が鳴った後の図書室に滑り込んだ。真冬の薄曇りのせいか、節電のため照明を一部落とした図書室は思ったよりずっしりと暗く、貸し出し用のカウンターの周りだけ明かりが灯っている。
周囲を見渡すと、暗がりから浮かび上がった小島のようなカウンターに佇む、学校司書と目が合った。
「おや、もうお昼休みは終わりましたよ」
総白髪のとても穏やかな老紳士だ。俺も図書室はよく利用しているので、なんとなく顔見知りである。相手もそれに気が付いたのか、意外だという表情になる。
「すみません。私、教室には戻りたくないんです。お願いです、ここにいさせてください」
「ど、どうして、波南美ちゃんが……」
「いいの。私に任せて」
挑むような、祈るような視線を彼に送る。
少し考え込むようなそぶりを見せると、皺の刻まれた口角が穏やかに上がる。
「サボタージュ、ですか」
「正々堂々、サボるつもりです」
「学年とお名前は?」
「一年一組橘波南美です」
「橘さんですね、よく図書室を利用していらっしゃいますね。なにかのっぴきならない事情がおありなんでしょう。ですが、先生方にはちゃんとご報告しますよ」
「お心遣い恐れ入ります」
無事許可? を得た俺は、池ちゃんの手を引いて一番奥の目立たない席へ向かう。校庭がよく見える、お気に入りの席だった。
程なくして、授業開始のベルが鳴った。
「彩、授業、サボっちゃったねぇ。どう、今の気持ちは?」
「ど、どうしよう……わ、わ、私こんなの初めてで……。お、怒られるかな……?」
不安でたまらないのか、手はずっと繋いだままだ。波南美より、少し大きな手はすっかり暖かさを取り戻している。
「まあ、怒られるだろうね。先生とか、もしかしたらお母さんからも。……怖い?」
「こ、怖いよ。だって、こんな悪いことするの、初めてだし……」
「選んだのは彩だよ。教室に戻ろうと思えば、いつだって戻れたじゃん」
俺の言葉に、彼女の目が泳ぐ。そう、俺は一度も無理強いはしていない。この決断は彼女の下したものだ。
「で、で、でも、教室は、みんなは、もっと怖くて……」
「そうだね、私はこれでよかったと思ってる。頑張ってる彩が笑われるのって、おかしいよ。意味のない嘲りに苦しんでる彩は見たくない。私は、ずっと彩の味方だから」
頷きながら話を聞いていた彼女の頬を、大粒の涙が伝っていった。
「わっわっわ、大丈夫? こ、これ使って」
俺がハンカチを手渡すと、彼女は何度も礼を言いながら、とうとうと語り始めた。
「な、波南美ちゃん、ご、ごめんなさい……。私、初めては、話しかけた時、波南美ちゃんなら大丈夫そうって、卑怯なこと考えてた。私より小さいし、ひ、ひとりぼっちだし、話しかけても、キモいとか、言わなさそうで……。わ、私、小学校から友達も少なくて、もしかしたら、ひとりぼっち同士仲良くしてくれるかもって、打算的な考えで接してた……」
ハンカチで拭うそばから、頬を伝う涙は止まらない。
「だ、だから、私、波南美ちゃんに優しくされる権利ない……」
ようやく、彼女は真剣な目で俺を見つめてきた。
「あっはは。そんなこと考えてたの? 考えすぎだよー。……私は、彩と友達になれてよかったって思ってる。それじゃダメ?」
「ダメじゃ、ダメじゃない……。けど、ほ、本当にいいの?」
「この波南美ちゃんに任せなさいな」
俺は彼女の手を握り返して、囁くように言った。
「辛くなったら、言うんだよ。私たち、人間同士、言わなきゃ伝わらないことばっかりなんだから。約束ね」
重く横たわる鼠色の空から、真冬の冷たい雨が降り始めていた。
****
結局、あの後風邪をひいたのは俺だった。
午後の授業を丸々サボったことで先生および養親からお叱りを受けたが、当日から上がった熱によって有耶無耶になったのは幸いだった。
また、池ちゃんも若干吹っ切れたようで、周囲からの揶揄いを真に受けなくなったようだ。俺が風邪で休んでいる間に、榎本先生からのサポートもあったらしい。
そうして俺は、中学二年生になった。
残念ながら、池ちゃんとは別のクラスになってしまったが、昼休みの図書室や休日に会っている。
あんなに長く感じた中学時代も、中身が成人済みだと恐ろしく早く感じる。毎日の学校や部活動、家でする宿題。時間はあっという間に過ぎていった。
俺が、波南美になって2度目の春だった。
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