火の凛

 サンダルのストラップを留め立ち上がると、ワンピースの裾を払って生地についた軽い癖を伸ばした。麻のトートバッグを肩にかけ、忘れ物がないか確認する。特に、何もなさそうだ。顔を上げれば、廊下から養母が見守っている。

「それじゃあ、行ってきます」

 軽く微笑み手を振ると、やさしい言葉と共に送り出してくれる。なんて事のない、幸せで穏やかな日常の風景だ。


 地獄のような猛暑を除けば。


 玄関の庇から一歩進めば、重さすら感じる太陽光線が容赦無く降り注ぎ、俺の肌を焼いていく。くーっそ暑い。なにこれ、死んじゃう。

 これだけ暑いと、日焼け止めなんかすぐに汗で流れてしまうだろう。ちなみに、プールの授業で日焼けした部位は真っ赤になっていたので、波南美は日焼けが赤くなるタイプのようだ。

 俺はミントグリーンのリボンが結われたストローハットを深く被り直して気合いを入れる。一刻も早く、目的地の図書館へ向かわねば。夏に殺される前に。



 家から最寄りの図書館へ向かうには、短い間だがバスを利用した方が便利だ。というか、炎天下を歩いていくと本気で命に関わる。しかし、その乗車時間の短さゆえに、汗が引いて一息ついた頃にはもう下車しなければいけない。停留所から、図書館までおよそ五分の徒歩。幸い、植え込みや街路樹のおかげで少し涼しい。まあ、気休め程度だが、コンクリートジャングルより幾分かマシだ。


 ハンカチで流れる汗をぬぐい、ゴミみたいな歌を即興で口ずさむ。

「あっつーいよーあちちちーあちゅいーよービール飲みたいねー飲めないねー」

 もしかしたら、暑すぎて脳みそ溶け出してるかもしれない、思考がユルユルになっている。あれだ、もう開き直って日傘買ってもらおう。あれ意外と効果あるから。

 あついため息を腹の底からついて、もう一度額をハンカチで拭うと、図書館の入り口に佇む少女が見えた。クソ暑いのに律儀に外で待ってくれてるなんて、おじさんなんだか心苦しくて、ジュース買ってあげたくなるよ。それに、文学少女と夏か。いいねえなんかそそられるねえ。


「おーい池ちゃんお待たせー」

 ゆるゆると手を振って挨拶しあうのは、あれ以来仲良くなった池田さんこと池ちゃんだ。池ちゃんにはある程度ぼやかして家庭の事情を話している。読書家で、大人びた印象の通り、波南美の境遇を偏見なく受け止めてくれた。地頭もよく、その付き合いやすさから、今の俺唯一の友人と呼んで差し支えないだろう。ぶっちゃけ、彼女より目出度い頭の奴なんて腐る程いるし、下手な男子大学生よりしっかりしている。そんな彼女とは、夏休み中もこうやって、図書館で宿題をやったり読書を楽しんでいる。半分くらいは避暑目的もあるけど。

「わぁ、波南美ちゃん、き、今日もお嬢様だね」

「いやー、お、お母さんが買ってきてくれるから、なんか着ないと申し訳ないし」

 デニムのショートパンツと半袖のカットソーから覗く肌が眩しい。意外と活発そうな格好をしている池ちゃんに対して、俺はアンカー柄のプリントが夏っぽいワンピースだ。ご丁寧にセーラー襟までついていて、ロリロリしいことこの上ない。だが、どうにも養母である麗子さんが張り切っていて、Tシャツ短パンみたいな格好がしづらいのだった。

 ——まあ、いろんな服が着れるのは嫌いじゃない。

 前から思っていたけれど、紳士服はバリエーションがなさすぎてつまらない。かといって奇抜すぎる格好をする度胸はなかったので、よく柄物を好んで着ていた。

 ただ、地面からの照り返しが厳しいスカートとか、窄まった袖口とか死ぬほど暑いので勘弁してほしいです。だから俺いつも部屋だとTシャツ一枚なんだよ。

「あーもうムリ限界、さっさと中入ろう。エアコンで生きかえろう」


 図書館の自動ドアを通り抜ければ、バッチリ冷えた空気と、紙とインクの匂いが鼻腔を蕩かす。たまんないね、マジで生き返るよ。

「あぁ〜人権〜」心の底から腑抜けた声が出てしまう。

「波南美ちゃん変なの」

「いやほんと日本はいつのまにエアコンが生命維持装置になったんだ。私絶対にここまで来るのに何ミリか溶け出してるわ。やがて海に流れたら雲になって、雨として大地に降り注ぐから池ちゃん受け止めてね」

「うふふ、わ、私でよければ」

 ほーんとこの子可愛い。俺の適当な冗談にもちゃんと応えてくれる。なんでこんないい子がクラスで孤立するかねえ、思春期ってわからない。

 池ちゃんは、会話の中で少し吃る傾向がある。そのせいか、確かにコミュニケーションを始めることに対して、ハードルの高さを感じているのは伝わってきていた。でもそれがなんだっていうんだ。それだけで爪弾きにするなんて、あまりにも虚しくないかい。


「いつもの席空いてるかな」

「まだ午前中だし、だ、大丈夫だと思うよ」

 奥まったところにある丸テーブル、ここがいつもの定位置だった。白いカーテンが空調に揺れる窓際の席は、明るく勉強や読書に最適だ。冷房の効いた屋内なら、強烈すぎる日差しもいっそ清々しい。

 池ちゃんの言う通り、無事馴染みの席を確保することができた。

「今日で課題はほとんど終わりそうね。うひょー夏休みまだ半分あるのに終わるとか人生初ー」

 二人で荷物を下ろしながら、他愛もない世間話を、ささやき声でする。

「え、ええ、波南美ちゃん、べ、勉強できるんだからもったいないよ」

「え、あっはは、調子いいのは今だけ今だけ。いつか池ちゃんに抜かされそう」

 今でこそ授業内容が容易く、成績も上位だが、内容が進んでいけば直に横並びになるだろう。俺高校生の勉強とか絶対忘れてるもん。中三でも怪しいかもしれない。まあ、平凡でも、慎ましく生きていければいい。

「私、こ、国語しか自信ないや……」

「いいじゃん国語。池ちゃん本読んでるところ眺めるの好きだよ、私」

 テーブルに肘をついて、悪戯っぽく微笑むと、池ちゃんが恥ずかしがってペンケースで顔を隠そうとする。そのペンケースもウサギの耳が付いていて、少し少女趣味すぎるくらいなのもまた良い。

 はーヤバイヤバイ、何かに目覚めそう。相手は女子中学生だぜ。いや、今の俺も女子中学生か、よし、合法だな。


 ……なーに考えてんだよ俺、本格的に暑さにやられてんな。


 まあでも、こうやって同年代の友人や、心の拠り所になるような関係があれば、遥に頼ることなく歩いていけそうだ。そもそもの話、波南美と遥の間には本来何の関係も無いのだ。少し寂しいが、いや、死ぬほど寂しい夜もあったが、なんとかやっていけそうだと思えた。



 昼時になると、俺たちは一度図書館を出て飲食ができるエントランスの一角を陣取った。

「な、波南美ちゃんはいつも通りお弁当?」

「うん。今日も池ちゃんの分、多めに作って来たよ」

 彼女の両親は共働きのうえ父親は単身赴任中らしく、夏休み中の昼食はいつもコンビニで買ったものだった。不憫に思った俺は、こうして集まる際に弁当のおかずを多めに持参している。まあ、大学四年間一人暮らしをしていれば、なんだかんだ料理ぐらいできるようになる。しかも今は家の食材や冷凍食品が割と自由に使えるので、夏休み中の弁当を拵えるのは苦ではなかった。

 どうよこの女子力。


「いつも、ご、ごめんね、ありがとう」

「いいのいいの、さあ召し上がれ」

 弁当が痛まないようにと準備した、簡易的な保冷バッグから二人分の箸とタッパーに入ったおかずをそれぞれ取り出す。使い捨てのウェットティッシュと合わせて差し出せば、池ちゃんは笑顔で受け取ってくれる。

「な、なんだか、お、おかあさんみたいだね」

「ママって呼んでもいいのよ」

 ふたり、穏やかに笑い合いながら昼食をとる。最近読んだ本や漫画のこと、映画のことや夏休み中の出来事、取り留めのない会話が続く。彼女との会話は、無駄に共感を求めるような話ではなかったし、必要がなければお互い無言でも構わないスタンスが心地よかった。彼女は、静寂を共有して楽しむ事ができる人間だった。


「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした」


 昼食を取り終わると、俺はトートバッグから魔法瓶の水筒を取り出し、麦茶で一服つける。うん、冷たくておいしい。こうも暑いと麦茶以外を飲む気が起きない。以前はあれだけ常飲していたコーヒーが波南美の体に合わないのは残念だが、これはこれで趣があっていいと思う。口の中をスッキリさせると、池ちゃんのリュックから覗く本が目に入った。

「あれ、児童文学? 珍しいね」

 俺が思わず反応すると、彼女はすこしはにかんで答えた。

「前からき、気になってた本、取り寄せてもらったの。へ、変かな?」

「ううん、全然変じゃない。児童文学も面白のいっぱいあるよね。ルドルフとイッパイアッテナとか、ナルニア国物語とか好きだったなぁ、懐かしい」

「ナ、ナルニア国物語! わ、私も大好き!」

 うわあ、素敵な笑顔。

「じゃあ名作児童文学とスティーヴン・キング交互に読む遊びしよう」

「え、嫌」

「ですよねー」

 我ながら意味のわからない冗談だ。なんだそれ、絶対胃がムカムカしてくるって。



****



 結局、夏休みは部活と図書館を往復する生活だった。親しい人も限られる上に、スマホはフィルタリングのため、機能が制限されているので特定の人としか関わりがない。学校という小さな社会を除けば、子供の世界は当時思っていたより狭かったんだと実感した。

 ただ、フィルタリングに関してはどうもウチの条件が厳しいだけなのかもしれない。まあしょうがないよね、波南美の境遇を考えれば、養親が多少過保護になるのも致し方ない。ただ、SNSは怖いよ、みんな気をつけようね。同級生諸君はバリバリデジタルネイティブ世代かもしれないけど、俺の時はまだギリギリネチケットっていう言葉があったよ。死語だね。ネットに関する意識が根底から違いすぎて戦慄するくらいだった。


 そんな夏休みの中でストレスなのが、生活の範囲がめちゃくちゃ狭いことだった。俺が中学生の時は、どうしてたっけ。……読書とゲームしかしてなかったわ、残念。今と変わんないわ。中学生とはいえ、自力で移動できるエリアが狭すぎる。車や原付に慣れてしまった精神には、移動自体がストレスだ。クッソ暑い中、公共交通機関に押し込まれてまで遠出する気にはなれなかった。


 そして、夏休みも最終盤、重い腰をあげて遊びに出てみれば、天気予報にも無いゲリラ豪雨の歓迎を受ける羽目になった。折りたたみ傘では到底対抗できそうにない、バケツをひっくり返したような雨。数メートル歩くだけで濡れ鼠だろう。俺と池ちゃんは既の所で手頃な位置にあったコーヒーチェーンに逃げ込んだ。


「夕立というには些か情緒に欠ける降り方だねえ……」

 背の高いグラスに注がれたアイスココアをチビチビ飲みながら窓の外を眺める。湿度も急激に上がったのか、氷の詰まったグラスはすっかり汗をかいている。コースター代わりに敷いた紙ナプキンが濡れていく。

「ほ、ほんとだね。でも、あ、雨宿り間に合ってよかった。買ったばかりの本濡れちゃうところだったよ」

 向かいの席に座る池ちゃんが、グレープフルーツジュースを一口飲み込んで頷く。大事そうに抱えているリュックには、贔屓にしている作家の最新作が入っている。いくらビニール袋に入っていても、紙の本だ。濡れればひとたまりもないだろう。

「め、珍しくズボンでよかったね」

 池ちゃんはふと思い出したように呟いた。ああ、俺の服か。

「ヒラヒラした服にしなくてよかったよ。やっぱり夏はTシャツ短パンだね」

 今日はある程度うろつく予定だったので、思い切ってラフな格好をしてきたのが吉と出た。いつものような服装で雨に打たれるのはぞっとしない。先日買ったばかりのボタニカル柄のデカTシャツはなかなか好評で、気分がよかった。


 大きな窓の外では、未だ大粒の雨が弾けるように降っている。雨脚が強すぎて、足元数十センチが白く泡立っているように見える。

 日没後のように真っ暗になった歩道で、ワイシャツ姿の若いサラリーマンが一人、街路樹の下途方に暮れていた。あらあら、傘をさしてても膝上までびしゃびしゃですよ、御愁傷様です。

「ふぁああ、ちょと走ったから眠くなってきた……」

「波南美ちゃん、お昼寝好きだもんね」

「よく寝れば背も伸びるかなって」

「あっはは、波南美ちゃんは今のままがいいなあ」

「ハァー発育強者の余裕は違いますねぇ」

 コーヒーチェーンの隅、まだ幼い俺たちの笑い声がころころと転がった。


 こんな日常が続けばいい、そう願ってしまうくらいの平穏だった。

 だが、ふとしたタイミングで、どうして俺なんかがと、自問自答する。

 池ちゃんは誰の友達なのだろうか。『俺』か『波南美』か。無邪気に笑う彼女といると、どうしてもそんなことは忘れそうになるが、大きくグロテスクな秘密を隠している事実が、俺の心に蟠っている。ベタつくタールのような感情が、俺の心を暗い方へ引きずり込んでいくようだった。

 俺が手に入れるものは、俺のものにも、波南美のものにもならない、全てが宙ぶらりんになるような虚無感だけがあった。


「……波南美ちゃん、だ、大丈夫? 怖い顔してる」

 また考え込んでいたようだ。本を閉じた池ちゃんが、心配そうに俺を覗き込んでいる。

「あ、うん、大丈夫。なんでもない」

 氷が溶けて薄くなったココアを一気に飲み込むと、日差しが戻ってきたことに気が付いた。

「晴れてきたね。そろそろ、帰ろっか」

「う、うん」

 雨宿りのための想定外の出費が痛かったが、まあこういうアクシデントもいいんじゃないかな。雨上がりの空気を胸いっぱいに吸い込むと、そう思えるような気がした。


「ねえ、波南美ちゃん。休みがお、終わっても、ま、また、遊ぼうね」


 傾き始めた陽光が眩しいのか、少し目を伏せて彼女は言う。柔らかそうな頬は薄紅色に上気し、口元は綻んでいる。彼女にとって、楽しい夏休みになっただろうか。そうだと嬉しい。


「もちろん。今度はどこ行こっか、映画でも見に行く?」

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