スカーレット

 5時間目が終わるまで保健室にいた。

 そろそろ潮時かと思い、休み時間に合わせて教室に戻ると、なんともいえない視線が絡みついてきた。好奇心や揶揄い、同情やよくわからないものを見る目。教室という閉じた環境で視線に晒されるのが、こんなにも居心地の悪いものだとは。

 俺が歩みを進めれば、視線で後を追う者、飽きたように会話に戻る者、様々だった。特に今日は体育も無いため、制服姿の中にジャージ姿は俺一人、どうしても浮いてしまう。


 ——どうした、大人の余裕はどこに行ったよ、俺。


 年甲斐もなく、苦い感情が染み出し始め、うなじのあたりに汗が吹き出す。

 こんなの、俺が中学生の時も散々あっただろう。

 自分のキャラを誤って、痛いやつとしてクラスから浮いてただろ。それと変わらない、慣れてるはずだ……。そう自分に言い聞かせるが、悔しさや羞恥心は急速に心に満ちていった。


 俺は隠すようにポーチをバッグにしまう。そして、後ろの席の池田さんに謝罪と礼を述べるべく、椅子の背もたれから身を乗り出した。

 なんとなく、小声で言った。

「あの、さっきはありがとう。ごめんね、何から何まで手伝ってもらって……」

 彼女は今朝と同じ角度で活字から顔をあげるとはにかんだ。

「う、ううん、大丈夫。私、保健委員だし、そっそれに、橘さんと、喋ってみたくて……。ご、ごめんなさい、嫌なら大丈夫です……」

 俺は面食らった。明らかに内気で人付き合いの苦手そうな文学少女が、頰を染めながらコミュニケーションを求めてきた。ぱっつんと切りそろえた前髪の下で、形のいい眉が所在無さげに下がっている。

「あっ、そうなの? 全然いいよ、嫌じゃないよ」

 この子が友達と喋っているところは片手で数えるほどしか見たことがない。そんな彼女が、きっかけは何であれ勇気を持って俺に話しかけてきたことが、尊く感じる。続きを促すように微笑むと、おずおずと彼女は続けた。


「あ、あの、橘さんは、無視されて怖くないんですか……?」

「わお、ストレートな質問キタコレ」

「ひゃっごっごめんなさい」

 この子かわいいな。

 精一杯首を縮めているせいで、ハードカバーの本に隠れようとしているようにも見える。

「ふふ、嫌じゃないわけじゃないけど、あんまり気にならないかな」

 正直、友達関係に飢えているわけではないし、一人なら一人で問題なかった。それに、嫌々俺のことを無視しているそぶりを見せる子もいる。クラスが一枚岩じゃないのはすぐにわかった。

 ——そもそも、俺はこの場にそぐわない、一種の異物だ。

 本当の中学生でなければ、生まれながらの女子ですら無い。

 なるべく穏便に、空気のように過ごせればそれでよかった。

「すごいな……橘さんは……。わ、私、お話するの、苦手で、ずっとこんな感じで、だから、橘さんが、すごいなって思ってて……」

 より一層頬を赤くして彼女は言う。ぽつりぽつりと、所々吃りながら、なんとか喋ろうとする姿が胸を打つ。

「いやあ私なんて大したもんじゃないよ。それより池田さん、すごい読書家だよね。3日以上同じ本読んでるの見たことない」

 俺がそう言うと、彼女の表情がパァっと輝き出す。こんなに表情豊かな子だとは、今まで思いもしなかった。さっきまで沈んでいた気分が一緒に上向くようだ。

「たっ橘さんもよく本読んでますよね! ぶ、文庫本片手で読んでるの、み、見ててかっこいいなって思ってました……!」


 カッコつけて読書してたとこ見られてたんかい、俺。


 しかもかっこいいとかあんまりまっすぐに褒めるものだから、こっちが恥ずかしくなる。実際は癖で片手持ちしているところもあるが、この小さな波南美の手では非効率極まりないのでほとんどカッコつけだったのだ。いいかい、厨二病は完治しない。

「そ、そう? あっあははは……」

 俺は、なんともいたたまれなくなってしまった。

 その後6時間目が始まるまで、読んでる本のことなどについてお喋りを続けた。その間、俺たちのことを、時たま面白くない顔で眺める連中が居たことには、気づいていた。


「それじゃ、ホームルームを始めますが、その前に」

 窓際最前列の俺と、担任の榎本先生の目が合った。メガネの奥の瞳に、薄い困惑の色が見える。

「橘さん、学校に不要なものを持ち込んでるって聞いたんだけれど、本当?」

 どうやら誰かが先生に有る事無い事吹き込んだらしい。それでも先生は今までいい子ちゃんを演じてきた俺が、急に校則違反をしたことに半信半疑なようだ。

 それに、これは軽い見せしめだろう。現に、教室のどこかから、囁き声が上がる。

「——あー、バッグ、見ますか?」

 俺は特に悪びれず、全てさらけ出すことにした。バッグの中のスマホは電源を落としてあるし、問題があるとすれば今朝のボディーシートだろうと勘ぐる。「ごめんなさいね、ちょっと失礼するわ」彼女はそういうと、俺の持ち物調査を始めたが、すぐに目当てにたどり着いたようだ。

「橘さん、これね」

 白く細い指には例の長方形のパッケージが保持されている。無香料でもダメだったか。どうやら校則違反かもしれないと、池田さんは知っていたらしい。

「色々気になるお年頃だと思うけど、一応禁止されているのよ、橘さん。これからは、気をつけるように」

 榎本先生は俺に目線を合わせて静かに諭した。『一応禁止』のところから、同情のニュアンスが感じられる。先生も古臭い校則だと認識しているようだった。

「はい……すみませんでした。以後気をつけます」

 しおらしく反省する俺の返答に一つ頷くと、先生は教室中に伝わるように見回して言った。

「みなさんも、不要な物の持ち込みはしないようにね。あんまりひどいと、クラス全体で持ち物検査になるわよ」

 その宣言に教室がざわめく。ブーイングやとりあえず検査を免れた安堵に紛れて、俺に対する非難も聞こえてきた。

(これは、やらかしてしまったな……)

 シクシク痛む下腹部をさすりながら、俺は一刻も早く教室を抜け出したい気持ちに駆られていた。



 美術室の引き戸をギャラリと開け放つと、各種絵具の匂いが満ちる空気が俺を出迎えた。

「お疲れ様でーすっ」

 ぶっちゃけ学校には部活をしにきているようなものだ。授業は未だ楽勝、クラスの雰囲気は微妙、そうきたらオアシスは部室しかない。雑多な物質の匂いが、苛立ちがちな精神を鎮める。油絵具の溶剤の匂いがするので、すでに佐々木先生は何かしら作業をしているようだ。


「波南美くん、いつも早いね」

 例の浮浪者こと佐々木先生が美術準備室の開け放った扉から顔を出す。

「そうですかー?」

 適当にあしらいながら空いている机にバッグを下ろす。想定外のタイミングで着替えたジャージも、美術室なら問題ない。結局絵具やら何やらで汚れやすいのだ、部員はほとんどジャージで活動している。

 俺は汚れ防止のためのエプロンを引っ張り出すと、鼻歌を歌いながら着用していく。

 ギャラリ。

「おっ波南美ちゃん、早ーい」

 扉の開く音に振り返ると、3年生の先輩がいた。鼻歌、聞かれただろうか。

「おっお疲れ様です……」


「なんかさー、波南美ってさあ、集中してると口とんがるよねー、子供みたい」

 ——これは上手くいきそうだ。

「ちょっとぉ、聞いてる?」

 ——あ、またステムがガバった……。フリーハンドやめようかな。

「うまくいかない……」

「波南美ー! 聞いてんの?」

 突如、耳元で声が弾けた。

「うわっびっくりした!?」

 苛立った声の元を見ると、隣でデッサンをしていた美術部唯一の同級生、佳奈がプリプリしている。


 まただ。


 最近気付いたことだが、無意識に集中しすぎていることが増えている。いや、極端になったというべきか。何も手につかない時は死ぬほど何もできないし、あちこち手を出してしまってどれも中途半端になることも多くなった。こんなことは初めてだった。

「あーごめんごめん、全然気づかなくて。なにかあった?」

「もーなんでもない!」

「えぇ……。わ、やっぱ上手いね、佳奈」

 彼女のキャンバスを覗き込んで実力を褒めると、少し気を良くしてくれたようだ。表情が若干和らぐ。実際に彼女は美術部のホープだ、デッサン力がずば抜けている。

「波南美はずっとそれやってんね。なんだっけ、レタリング?」

「そうなのよ。フォント作りたくて練習中」

 佳奈が、俺の知らないうちに机に散らばった方眼紙をまじまじと見つめる。こんなに散らかしているのに気づかなかったのはまずいな。

「めっちゃ描いてるけどあんま上手くないね。直線ヨレヨレじゃん、狙ってんの?」

 この子すごいキツイんだ。実際上手いから何も言えないけど。

「そうなんだよねぇ。昔はこんなじゃなかったんだけどさぁ……」

 そうなのだ。この体、文字も下手くそならば、線すらまともに引けない。確実に筆跡やスケッチの癖は俺のものなのに、どうしてもコントロールできないブレのような感じがあるため、どうにも上手くいかないのだった。

「あっごめん、……もしかして入院してたことと関係ある?」

 俺のデリケートな部分をほじくり返してしまったと思ったのか、鉛筆で汚れた指先を口元に寄せて、気まずそうな顔をしている。

「いやあ、どうなんだろ。私の授業のノート見る? 汚すぎて読めないかもよ」

「……そんなに?」

「たまに私も何書いてるか読めねえんだこれが」

「マジかヤバすぎでしょ」


 正直うんざりしていた。喜び勇んで美術部に入部してみれば、自分が想像していた以上に何もできなかった。リハビリも兼ねてずっと書体のレタリングを続けているが、どうもこの体は不器用らしい。既存の書体をなぞってみても、線はふらふらと迷走し、筆圧も安定しない。近頃ようやく見れるようになってきたと思ったが、佳奈からは『あんま上手くない』と一蹴された。思い通りにいかない悔しさと焦燥感に涙すら出そうになる。

 でも負けられない、そう思った。

 何にだろう。この体? 運命?

 娯楽も少なく、親しい人もいない現状、下手くそでも手を動かすことが俺を慰めた。


 その時、俺と佳奈の肩に厚ぼったい手がかけられた。

「波南美くん、佳奈くん、もう終わりの時間ですよ。片付けて、下校してください」

 佐々木先生は律儀な人なのか、いつもこうやって肩を叩いたりして要件を伝えてくる。大きく重い手のひらが肩に乗ると、どうしても悪寒が走るが、どうやらみんなにやっているのでこれが彼のやり方なのだろう。

 いつの間にか、下校時間になっていたようだ。窓の外は夕暮れに染まり始めている。外の気温を考えた途端、今まで忘れていた体調不良がどっと戻ってきた。

 俺は湿度でハネた髪を忌々しげに耳にかける。どうやら、厚ぼったい雲は何処かに消え、気持ちの良い夕焼けが拝めそうだ。人の気持ちも知らずに、夏が来た。

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