透明の日々

 長いようで短い夏は、その面影をすっかり無くし、この街にも秋がやってきた。

 ふと、教室から見上げる空は、思っていたよりもずっと高い。

 よく澄んだ十月下旬の秋空を眺めながら、社会の授業をBGMに考えに耽る。

 俺が波南美になって三年目。女の子も板についてきたでしょうか。最近では、生前どんなふうに過ごしていたのかも曖昧になってきていた。

 例えば、意識しなくても足を開くような座り方はしなくなった。トイレの前で一瞬迷うこともない。日常の所作が、女らしさを増していっている。思っていたより、生前の俺には、男らしさとか、そういうこだわりがなかったみたいだ。お気に入りの下着もあれば、可愛いデザインが気に入っているペンもある。

 たまに理屈っぽいとか、マイペースとか言われるけど、それは俺の『人となり』ということで勘弁してほしい。


 ただ、適応していく『外側』に比べて、『内側』はいよいよめちゃくちゃだった。


 俺なのか、私なのか。季節が巡るほど、その境界が曖昧になっていく。


 多重人格? いや違う。全く別物の、魂とでもいうべきなんだろうか、人間の根源的なものが入り混じった存在。身体こそ、十四歳の女の子だ。しかし、その中身には得体のしれない、グロテスクな何かが居座っている。もう、自分が誰なのかよくわからない。自信を持って『永瀬康平』だとは、とてもじゃないが言い切れない。かと言って、本来の『橘波南美』だとも思えない。俺は、永瀬康平として生きてきた記憶しか持っていないんだ。まるで、ろくな引き継ぎもなしに運用を任されたプロジェクトのようだ。知識も経験もないまま、なんとか形だけ繕って、自壊しないよう維持し続ける。

 そして俺の、私の中で大きさを増していく彩の存在が、心をかき乱していく。考えれば考えるほど気持ちは浮つき、その一挙一動に歓喜し打ちひしがれる——もう、病気だ。

 ゴールのない思考に溜息を吐く。左手でついた頬杖で、口元を覆って、周りに気づかれないように、長く長く息を吐き出した。

 私は、どこに向かうんだろうか。ある意味で年相応な青臭い問いかけを、色付き始めた校庭の木々に投げかけた。勿論、返事はなかった。


****


「それじゃあ、廊下側からソプラノ、アルト、男子で並んで!」

 十一月の頭に控えた合唱コンクールのため、放課後に一時間ほど練習時間が設けられている。教壇の上から、指揮者に立候補したクラスメイトが指示を飛ばす。俺はアルトで身長も低いため、扇形の弧になって並んだ中央あたりに陣取る。もちろん、一列目だ。

 このクラスのコンクールへのモチベーションは、可もなく不可もなくといったところか。真面目に歌わない男子に対して、仕切りたがりの女子がヒステリックになることもない。伝統の「ちょっと男子ー!」が現存しているのか確認できないのは残念だが、そうなれば剣呑な雰囲気になるのは生前に経験済みだ。なったらなったで面倒なのは確実なので、和気藹々とできるならそれに越したことはない。我らが二年五組は飛び抜けて上手いクラスではないが、十分真面目に取り組んでいると言えた。


 だが、意外と全体がまとまるまで時間がかかっている。手持ち無沙汰なため、何の気なしに配られた楽譜を眺めながら隣の子に話しかけた。

「アルトって地味に難しくない?」

 音痴なのは気合いで修正したが、慣れないアルトパートを歌うのは妙に疲れる。それに、どうもこの声、通らないくせにハーモニーに馴染まないと思う。自分のことだけど、難儀な声をしている。

「メロディー覚えにくいよね」

「裏メロはそれで美味しいんだけどさぁ」

 えっへっへと笑いあっていると、指揮者の子に軽く叱られた。巻き込んでごめんよ、私が悪かった。笑って誤魔化す。


 しばらくガヤガヤとしていたが、それも次第におさまる。すると、教壇の上で満足げな顔をした指揮者が視線を集めると、意気揚々と今日の練習の目的を説明し始めた。彼女は合唱部の部長らしく、クラスメイトに向けて歌のコツをスラスラと語る間に、ラジカセに合唱曲のCDをセットしている。ピアノ伴奏の音源を流すためだ。未だに化石のようなラジカセを使っていることに驚いたが、多分資金繰りがままならないんだろうと思った。


「じゃあ、自由曲の頭から一度通してみよう! 音楽の授業でやったから大丈夫だよね」


 まばらな返事と、パラパラと楽譜をめくる音が教室に満ちる。指揮者が右手を上げ、クラスの意識がまとまったのを確認すると、ラジカセのスイッチを入れた。ピアノ伴奏が流れ出すのに合わせて、掲げた右手がテンポを刻み出す。

 音楽をやめてからしばらく経つけれど、この瞬間は嫌いじゃない。程よい長さの前奏が終わりに近づくと、指揮者の左手がゆっくりと上がり、ソプラノパートへ歌の入りを予告する。両手が4拍子を刻むと、次の小節から歌が始まった。


 流石に現役の合唱部員だ、耳がいい。一回通しただけで、各パートに改善点をモリモリ指摘していく。とは言え、あくまでも学校行事の合唱コンクールだ、専門的な説明は避け高すぎない目標を設定していく。

「アルトの皆んなは、音程が低くて大変かもしれないけど、暗い声にならないように気をつけて。橘さんが上手だからお手本にしよう!」

 ん、なんだって、俺を見本にしろって?

「んんー? 私を?」

「やっぱ橘さん音楽センスあるんじゃん」

 周囲から俄に持て囃され、頬が熱を持つ。若干照れ臭い。

「というか暗くならないようにってどういうこと?」

 俺の右隣の子が、少し体を俺の方に傾け伺う。


「それはね、簡単に言っちゃえば口を大きく開けて口角を上げようってこと!」


 素朴な疑問に対して、耳ざとく教壇の上から指示が飛んできた。

 視線を右にやれば、若干傾いたままの隣の子は「そうなの?」という瞳で俺を見ている。

「まあそんな感じ。そうすると音が気持ち明るく聞こえるから、カラオケでも使えるよ。これでブサイクボイスから卒業だ」

 照れ臭さを隠すため、無駄におどけて返すが、指揮者の指示を補足するようにアドバイスした。するとどうだろう、指揮者の子が思わぬ掘り出し物を見つけた時のような顔で俺を手招きしている。

「橘さん! ちょっと前で聴いてみてくれる?」

「マジか」

 どうやら小さな墓穴を掘ったらしい。

 渋々合唱の列から離れ、手招きに応じて教壇に上がる。

 指揮者の後ろにつくと「各パートへの指摘があったらじゃんじゃん言って」と耳打ちされたので、首肯で承諾の意を伝えた。


「それじゃあもう一度、頭から!」

 もう一度同じ曲を、クラスメイトが一番だけ歌う。その間、俺は全体をざっくりと確認していく。基本的に、中学校の合唱コンクールは男子の声が弱い。恥ずかしいやら面白くないやらで、どうしても他パートより声が小さく聞こえる。実際には、音程が低いため女声より声が通りにくいというのもある。しかし、低音が小さい音楽は非常に退屈だ。全く聞こえない訳ではないが、この中途半端な状況だけはなんとかしたい。


「どうだったかな!?」

 指揮者の子が、曲をちょうどいいところで止めると俺に振り返って意見を求める。

 この子すごいハキハキしてるなあ。そんなことを思いながら、気になっていた男子パートに声をかける。キツくならないように、なるべくおどけながら、身振り手振りを交えて語る。


「どうせ素人なんだから上手にお歌うたいましょうなんて思わないでさ、もっとドカーンとかバーンとかウオーって声出そうよ。やる気のない口パクとかバレてるし、下手にもじもじしてると余計ダサいぞ」


 俺が男子パートの方まで出向いて見てやると、ついに観念したのか声量が大幅に改善した。なお、実際にはかなりヤケクソといった感じで、女声とのバランスは最悪だ。しかし、ここからまとめていくのは俺の仕事じゃない。それに、念のため音程自体がヤバそうな子にはこっそりフォローを入れておいた。ここまでやれば十分だろう。

 残りの調整を指揮者に任せると、俺は元いたアルトのパートに戻った。やれやれ、想定外の出番だった。

「橘さんって、男子の扱いうまいよね」

「まあこんなチビッコからあんなこと言われたらやらざるを得ないよね。私の勝ちだフハハ」


****


 合唱の練習が終わり、スペースを開けるために移動した机などを復元する。これが、合唱コンクールまでしばらく続くのだ。部活に精を出している身なら、なんと歯がゆい期間だろうと想像する。俺自身は、厳しくもなんともない美術部員なので、特に痛手はない。コンクールや出品の予定も無いので、日々描きたいモノを描き、つくりたいモノをつくっている。お気楽なものだ。


 後片付けが一段落すれば、ようやく自由の身となる。若干の開放感を覚えながら、自分の机に戻り身支度を始めた。ほぼ毎日使う通学鞄は中学生活折り返しを過ぎ、くたびれたところも出てきているが、まだまだ機能的に問題ない。十分に卒業まで耐えそうだ。

 俺が机から必要な物を鞄へ仕舞うと、仲良くしている二人組から声がかかった。

「波南美ちゃん波南美ちゃん、日曜日ヒマ? 映画見に行かない?」

 ボブカットの似合う、柔らかい雰囲気の子が俺に問いかける。週末のお誘いだ。

 頭の中で予定表を開くが、特に予定はない。お小遣いにも余裕があるはずだ、映画プラスアルファくらいなら問題ないだろう。

「日曜ね、空いてるよ。何見にいく感じ?」

「えっとねー、先週からやってるんだけど——」

 そう言いながら彼女たちは俺の机を取り囲み、好き好きにスマホの画面やら映画のパンフレットを広げ、やれ主役の俳優が誰だの何々ちゃんが可愛いだの、原作の漫画がいかに素晴らしいだの捲し立てはじめた。


 これは、完全に教室を出るタイミングを逃してしまった。

 彼女らは普段は分別わきまえた子たちだが、ちょっとこだわりの強いところがあり、テンションが上がると饒舌になる。まあ、俺も人並み以上に小説も漫画も映画もアニメも見るので、同じ穴の狢と言えるが。

 とりあえず、時と場所を選んで楽しめる人は嫌いじゃない。

 実際俺も気になっていた作品なので、一緒にきゃっきゃしておこう。


 八重歯が可愛らしい伊藤さんが思わせぶりな顔で俺に話を振る。

「それで、例のドチャクソイケメン君だけど、なんか夏休み終わってから雰囲気変わったよね?」

 例のドチャクソイケメンとは、確実に美術部の後輩である昴のことだろう。

「あいつねぇ、確実に夏休みデビューだよ。元が茶髪だからって、調子乗って色抜いてんの。美術部の皆んなからからかわれてる」

「えぇーなんか意外ー。もっと純朴で可愛い系じゃなかった? 調子乗っちゃってるのも可愛くて良きだけど」

 驚き半分うっとり半分といった感じでボブカットの千葉さんが合いの手を入れる。確かに近頃調子に乗って、若干チャラついてきた彼も需要はあるだろう。むしろ、整いまくった顔面と相まって、少女漫画の登場人物顔負けである。ふと、ムラムラといたずら心が芽生えてきた。

「あ、そうだ。あいつがウケ狙いで脱いだ時の画像あげる。本人曰くフリー素材だからクソコラでもなんでも使っていいよ」

「えー! 何これ何これ超肌白い! ヤバー!」

「美術部公式フリー素材、これは捗る……」

 わあ。この子たちとてもいい顔をしている。これは是非とも奴を調子に乗らせて、フリー素材のライブラリを増強すべきだな。俺も彼女らに合わせて悪い笑顔のまま、それぞれのスマホに画像を転送した。いつかおやつ代くらいに化けてくれると儲けものだ。



「んんーっ。それじゃ、私部活だから。また日曜日ね、バイバーイ」

 一度伸びをすると、彼女たちに別れを告げた。

「波南美ちゃんまたねー」

 お揃いのセーラー服に身を包んだクラスメイトたちと、すれ違い際に別れの挨拶を交わす。一年のギスギスした雰囲気とは打って変わって、穏やかでいい子たちばかりだ。同じ学校なのに、クラスが違うだけでこんなにも過ごしやすいのかと驚いた。


 ふと、スマホの画面を確認すると、一通のメッセージが表示されていた。


『今日部活終わったら一緒に帰らない?』


 差出人とその内容を確認した途端に心が飛び跳ねた。思わず胸が高鳴って、パスワード解除に手間取ってしまう。お、落ち着け私。すぐさま手近なトイレに駆け込むと、返事のメッセージを作成して送信する。


『おけ! いつも通りでいい?』


 そう。いつも通りじゃないか。

 それでも、頬が緩むのを止められない。今にもミュージカル映画のように歌って踊り出してしまいそうだ。

 ふと、流しの上に設置された鏡に映る自分と目があった。桃色の頬に、赤く染まった耳朶。期待と喜びに、まるい瞳が若干潤んでいる。


「アハハ」


 左右逆向きの私が、一緒に笑い声をあげる。

 ひとりの恋する少女がそこに居たのだった。

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