泣いた、泣いたセリルラ
俺は張り切っている。
今日、池ちゃんが初めて
部屋の掃除、オーケー。
変なもの、置いてない。
年甲斐もなくソワソワして、部屋の中をうろうろしてしまう。以前、遥を初めてアパートへ呼んだことを思い出す。まさにそんな感じ。もちろん、如何わしいことはナシだけど。
「よっしゃ踊るか」
彼女が来るのは夕方十七時の予定だ。まだまだ時間に余裕が有り余る。
緊張しているのか、はたまた怖いのか、わけのわからないことを口走ってわけのわからない動きを踊りと言い切る。いやあ、生前はよくカレーを煮込む時とかに踊ってたんですよ、オホホ。
実際には、少し不安だった。
プール以来、一週間以上なにもやり取りをしていなかった。俺から送ったメッセージは既読のまま返事がなく、それ以来、追求するようなことはしていない。
また、図書館にも姿がなかった。部活や二年生になり仲良くなったグループと遊びに行ったりで、毎日足を運べたわけではないが、彼女を見かけるようなことはなかった。
それが、昨日急に連絡があったのだ。ずっと胸につっかえていたモヤモヤが一瞬で霧散するようだった。我ながら単純すぎて呆れるが、勝手に頬は緩んでしまう。久しぶりの連絡にすっかり舞い上がった俺は、食事中にも関わらず池ちゃんがどんな子なのかを力説してしまった。そんな、慌てて養親に許可をねだる姿は、年相応の女の子そのものだ。思い返せばちょっと恥ずかしい。
そして今日を迎えた俺は、鼻息を荒くして午前中早くから服を選んだり部屋の掃除をしたり、とにかくパタパタと動き回った。もちろん、使ってもらう寝具は天日干しして、フカフカのコンディションにしてある。いつもベッドで寝てるけど、今日は布団を並べて一緒に寝ようか、そんなことを目論んでしまう。
きっと、天使の寝顔なんだろうなあ……。とりとめのないことを考えていると、天日干しから回収したばかりの寝具が目に入った。魔が差して飛び込めば、夏の日差しに晒された布団は、どこか懐かしい柔らかさと匂いに溢れている。今のうちにしっかりマーキングしておこう。気持ちの悪い妄想を繰り広げながら、ゴロゴロと布団に埋もれていく。去年と違って、エアコンが解禁された部屋は快適だ。手触りのいい枕を抱き寄せると、思わず頬ずりしてしまった。
「んんーきもちいー」
はやく、池ちゃん来ないかなぁ……。
****
遠いところから、こころがくすぐったくなるような笑い声が聞こえる。私とちがって、つやつやしたソプラノで、可愛らしい女の子の声。ずっと、聴いていたい、大好きな声……。
「波南美ちゃん、おはよう」
んん、ほっぺたつつくのやめようね。起きるから、ちょっと待ってよ——。
あれ、私、誰に起こされてるんだろう。あ、甘い匂いがする……。
この匂い……池ちゃん!?
一瞬で覚醒した俺は、文字通り飛び起きた。
「だぁ! えっ、あっ……池ちゃん……。お、おはよう……」
えっちょっとなんで池ちゃんいるの? え、ちょっとまって俺寝てた? 超寝てた?
焦りと恥ずかしさと、飛び起きた衝撃で心臓が爆発しそうになっている。状況を確認しようと周囲を見渡せば、彼女は床に敷いたラグに正座していた。ざ、座布団かクッション、渡さなきゃ!
ドタバタと身の回りを確認すると、随分とアグレッシブな寝相をしていたらしい。綺麗に畳んだはずの寝具は見事にバラバラになり、洋服はひどい乱れようだ。
あっちを片付けたり、こっちを片付けたりしていると、鈴を転がすような笑い声が聞こえてくる。恥ずかしさによって血の気が引いた俺は、ようやく冷静になって、いつも使っているクッションを手渡した。
「ご、ごめんね、これ、このクッション使って!」
彼女は目尻に涙を浮かべながらクッションを受け取ると、面白くてしょうがないといった感じで続けた。
「波南美ちゃん、お、おはよう。よく、眠れた? うふふ。お腹とパンツ、ま、丸出しだったよ。アハハ」
彼女はそういうと、スマホの画面を俺に向けた。型落ち機種の画面には、両腕を豪快に上げたせいで、シャツがめくれ上がり白いお腹を露出した俺が収められていた。プリーツスカートも同様にめくれ、薄ピンクの下着がバッチリフレームインしている。気持ちよさそうに熟睡する間抜け面が恨めしい。
「もうだめ彩ちゃんのお嫁さんになる……」
恥ずかしいやら悔しいやら、まともではいられない。そのまま彼女の手を取り布団へ引き倒して、ふたりで笑いあった。
「あっはは、な、波南美ちゃん顔真っ赤っか」
「ね、彩ちゃん、パンツの画像は消そうね! ね! なんでもするから!」
「えー、な、なんでもしてくれるの? うふふ」
「や、やさしくしてね……? あはは」
連絡がつかなかったことでギクシャクするかもしれないと思っていたが、杞憂で終わったようだ。今までと変わらない、もしくはそれ以上の笑顔がそこにあった。
****
「大丈夫? のぼせちゃった?」
「…………。全然大丈夫っす……」
俺は今、うつ伏せで布団に潜り込み、水揚げされた冷凍マグロ状態だ。身動きひとつも取れる気がしない。もちろん、彼女の顔もまともに見れない。
い、一緒にお風呂入っちゃったねえ……。
これはもうカップルでは? いや、結婚かな?
池ちゃんすっごい柔らかかった……。遥には悪いけど、中学生すごい……瑞々しい……。
もう思い残すことないな、うん。このまま成仏してしまおう。この百合が咲き誇る世界に俺は不純物だ、ゴミクズだ。誰か『破ぁ!』とかいって、不思議な力で俺を消し去ってくれ。お盆はもう終わってんだよちくしょう。
しばらく悶えていたが、流石に布団の中は息苦しい。
「んんあつぅい……」
いくらエアコンが効いていても、布団にまみれていれば暑い。新鮮な空気を求めて顔を出すと、池ちゃんがブローした髪をブラッシングしていた。
濡羽色の、背中まで届く髪が、部屋の灯を反射している。すこし癖があって、肩上で切りそろえている俺とは正反対だ。すっかり女性らしい丸みを帯びた四肢が、ゆっくりと同じ動作を繰り返す。ふと、水色のパジャマのその下を思い出して赤面する。
「池ちゃん、今夜隣で寝ていい?」
タオルケットから顔だけ出して問いかける。
すると、彼女はブラシを持った手を止め、小首をかしげて言う。
「わ、私はいいけど、ベッドで、ね、寝ないの?」
「お布団、もう一組持ってくる」
少しだけ、懇願するような声音で提案すれば、彼女は小さく頷いて微笑んだ。
「私も、ほんとは、一緒がよかった。ご、ごめんね?」
「やったぜ! お布団マッハで取ってくるね。あ、好きな本とか漫画とか雑誌とか読んでていよ!」
俺はすっくと立ち上がり彼女に伝言を残すと、布団を追加すべく部屋を後にした。正直、胸が高鳴って仕方がない。俺の部屋で、隣あって一晩過ごすのだ。眠れなかったらどうしよう。嬉しくて、少し不安で落ち着かない。
「池ちゃんお待たせ!」
俺が布団を抱えて部屋に戻ると、彼女は適当な雑誌をパラパラとめくっていた。興味のある内容の時に、養親にねだって買ってもらっているデザインの専門誌だ。
「あっ、波南美ちゃん、これ、か、勝手に読んじゃってた」
「うんー、いいよー。それ面白い?」
彼女が読んでいる号は、著名なタイポグラファーのインタビューが掲載されている。門外漢には少しとっつきにくい内容かもしれない。
「うん。わ、私アルファベットの成り立ちとか、し、知らなかったから面白いよ」
「さすが池ちゃん、知識に貪欲だねえ。その雑誌ねえ——」
俺たちは、その後も雑誌や小説、ファッションとか、他愛のないテーマでおしゃべりを続けた。時に寝転びながら、時に彼女の髪を弄びながら。楽しい時間は短く感じるもので、そうしている間に夜は
そろそろ、寝てもいい時間だ。
夏休みとはいえ、あまり夜更かしをしてもしょうがない。八月も下旬になれば、そろそろ新学期に向けて体内時計を戻さなくては。とはいえ、まだ素直に寝るつもりはない。消灯して、布団に入った後でも会話はできる。むしろ、非日常的な雰囲気があって、それがスパイスとなるだろう。
「それじゃ、電気消すねー」
「うん。ありがとう」
壁面のスイッチをパチンと切れば、明るさに慣れきった視界が一瞬暗闇に染まる。だが、近くの街灯や他の民家の灯がカーテンの隙間から差し込み、薄ぼんやりとした明るさに落ち着く。いつもと違う部屋の様子に、足元へ注意を払って自分の布団にたどり着いた。
寝転がって、横を見ればそこには池ちゃんがいる。
短い間、非現実的な光景にフリーズしていると、彼女は俺の視線に気づいたようだ。照れ臭そうに笑うと、俺と同じように横向きの姿勢になる。
「えへへ。わ、私、お泊まりするの、実は初めてなんだ」
「そうなんだ。ふふ、彩の初めて頂戴しました」
「ちょ、ちょっとそれはセクハラ」
腕を伸ばせば届く距離、枕を並べて一緒の部屋にいる。そう実感した途端、胸が高鳴った。彼女の香りに、嗅ぎなれたものが混ざっている。家のシャンプーを使ったからだ。小さな喜びと、なんとも言えない多幸感が訪れた。
しばらくの間、笑いあったり、ちょっかいを出し合ったりしていたが、不意に静寂が訪れた。見つめ合う彼女の瞳に、睫毛が影を落とす。
「彩、どうしたの?」
少し不穏な色を帯びた空気に、たまらず問いかける。
すると、彼女はゆっくりと、躊躇いの混ざった速度で手を伸ばし、俺の手を握った。
「その、きゅ、急にお泊まりしようって言って、ごめんね……」
目は伏せたまま、ぽそぽそと話し始める。
「全然大丈夫。というか嬉しかったもん」
少しでも安心してくれればと思い、楽しげに応える。
「あの、こ、この前、ライン無視してごめんね。ちょっと、い、色々あったんだ」
「無理して、話さなくてもいいよ」
繋いだ手に、力が加わるのを感じる。何か、思いつめたような、どこか投げやりなため息がひとつ。
「ふぅ……。あっ、あのね、わた、私のお母さんね、ずっと、ふっ、不倫してたみたいなの……」
「それって……、彩は、知ってたの?」
とても疲れ切った、悲しげな表情で頷く。いつの間にか、彼女の瞳から涙が溢れていた。
「お父さん、単身赴任から、お盆で帰ってきたら、集めてた証拠とか出して、大喧嘩になっちゃって……。い、いろいろそれどころじゃなくなっちゃって……」
そう彼女は言い切ると、決壊してしまった涙を手でぬぐい始める。
「わっ、わたし、怖くて、何もで、できなくて……!」
俺は、ベッドのサイドテーブルからティッシュの箱を取り出すと、そっと彼女に手渡した。
彼女は、小さな嗚咽を漏らしながら、しきりに感謝を述べている。
今まで胸に満ちていた感情が、ストンと切り替わるのを感じた。
「彩、どこにも、居場所が無いんだね……」
そうだ。彼女はずっと孤独に追い込まれていたに違いない。学校で、家庭で、本当に安らげる場所が無いんだ。学校のことを家庭で話せず、家庭のことを話せるような人は数少ない。この子は、頭がいいから、母親の不倫なんてすぐに気が付いただろう。そして、優しいから、それを表に出さず、ずっと心に仕舞っていたんだ。
思わず、柔らかな肩を抱き寄せれば、その体は小さく震えている。今日まで、どれだけ孤独な戦いを続けてきたのだろう。俺の小さな胸の中で、嗚咽が一層大きくなる。
「辛かったね、寂しかったね。大丈夫、私がいるよ。彩。ずっと、ずっと味方だよ。ねえ彩……」
ゆっくり、ゆっくり頭を撫でる。夜の色に溶け込んだ髪の毛が、敷布団の上に流れ出している。これ以上、言葉を続けることができない俺は、無力感を噛みしめるように彼女を抱きしめた。この子に、何をしてあげられるんだろうか。奥歯がギリリと鳴った。
****
泣き疲れたのか、彩は穏やかな寝息をたてている。
二人の間で、片手は繋いだまま。
眠気はひどいけど、簡単に眠れそうにない。
もう一度死んでしまいそうな程に胸が痛い。
俺は、私は、この子の友達だから、逃げることも、前に進むこともできない。辛い境遇に耐える彩のことを考えれば、想いを秘めたまま、平静を装って振る舞うこと以外の選択肢は無いんだ。
ふと、恐ろしい想像が頭を過ぎった。
彩の両親が離婚して、私たちが、離れ離れになる未来。もしかしたら、彼女はそのことも考えていたのかもしれない。そんなことになったら、彩は本当のひとりぼっちになってしまう。
——私だってそうだ!
心を許せる人なんて、彩一人しかいない。そんな彼女を失うことを想像すると、怖くて、悲しくて心臓がねじ切れそうだった。自分がわからなくなる。どこかで、全部台無しになってしまう恐怖と、いっそそうなればなんて暗い希望だけが渦巻いている。幸せな時間のはずだったのに、今度は私が泣き出してしまった。
隣で眠る彩を起こさないように、天井を睨みつけ、奥歯を噛み締めて嗚咽を堪える。
私、こんなに彩のことが大好きなのに、何一つ伝えられない……。彩のためにも、伝えちゃいけないんだ。親友として、味方として側にいなくちゃ。
でも、もしも全部、過去も、想いもさらけ出したら、彩はどんな顔をするだろう。悲しい顔して、同情してくれるかな。それとも、気持ち悪いって、私のこと嫌いになるかな。
今日の光景を思い出せば、彩はほんとに綺麗だった。生まれたままの姿を恥ずかしがる様も、温まって上気した四肢も、そのすべてが。
汚れた身体の私なんかが、隣にいてはいけないような気がして、ひどく惨めで逃げ出したくなった。
だって私、身体も心もぐちゃぐちゃだもん。
私の心? 俺の心? なんなの、なんなんだ? 一体、わたしは誰なの?
一度ぐるぐる考えだすと止まらない。堪えきれない感情が、とうとう嗚咽になって溢れ出した。もう、涙を拭うことすらしたくない。
「うぁ……んぐ、あ、彩っ、大好きだよ。ずっと友達でいようねっ。私を一人にしないで、お願い……」
どうしてこんなに胸が痛いんだろう。まるで圧搾機にかけられているように、肺から空気が逃げ出して行く。部屋の中で、窒息死しそうだった。
もう、私と俺の全部が涙になって、流れていけばいいのにと思った。
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