錆びた指輪

 図書館のエントランス。背もたれのない椅子に座る、見慣れた後ろ姿にゆっくりと近付いていく。足音をたてないように、慎重に。

 両手には買ったばかりのペットボトル、こいつをお見舞いしてやるぜ。しかも、今日の髪型はシニヨンときた。まさに御誂え向きである。

「いーけーちゃーん!」

 俺は健康的な白さが眩しい首筋へ、結露し始めたペットボトルをくっつけた。

「ひゃうっ!?」


 中学二年の夏休みも絶好調、猛暑日が連日続いて言うことなし。今日も今日とて図書館で池ちゃんとデートと洒落込んでいる。やっぱ真夏にはキンキンに冷えた図書館と文学少女だね、たまんねえぜ。

 ちなみに以前あんなことがあった昴は、なんと夏休みの間のほとんどをカナダで過ごすらしい。英語も仏語もできないらしいけど大丈夫なんだろうか。まあ、美術部へのお土産が楽しみなので、彼には頑張っていただきたい。


 飛び跳ねるように短く叫んだ彼女の後ろから顔を覗き込み、挨拶を交わす。

「も、もう、波南美ちゃん、びっくりしたよぉ」

 文句を言う彼女は、素っ頓狂な声をだしてしまったのが恥ずかしいのか、顔を赤くしている。さっきのリアクション、グッドでした。ぎゃんかわ。尊い。

 ふと、素朴な長さの睫毛が、大人びた色気を持ち始めていることに気づく。あらぁ、池ちゃんこの一年で随分大人になったのね……。


 俺は先ほど彼女を驚かすのに使ったペットボトルのお茶を手渡した。

「これあげる。お養母かあさんが、暑いから池ちゃんの分も買いなって」

 最初は戸惑っていたが、説明をすると納得がいったようで、短いお礼とともに受け取ってくれる。話を聞くと、イヤホンで音楽を聴いていて、俺が来たことには全く気がつかなかったそうだ。


「その髪可愛いね」

「あ、ありがとう。おかしく、な、ないかな?」

「大人っぽくて似合ってる、眼福眼福。お団子の部分食べちゃいたいくらい」

「波南美ちゃん、夏になると、ちょ、ちょっと変?」

「そうなの、夏が私を狂わせるのさ……。今日も暑すぎて死にそう……」

 もう取り繕うことないよね。ヘラヘラ、のらりくらりとやっているのが性に合うのだ。それにしても、彼女と一緒にいるとなんだか余計にふざけてしまう。大丈夫かな、俺。一線超えてしまわない?

 ……でもぶっちゃけたまにムラっとくるよね。すげえいい匂いすんだもん。


 彼女の隣で、お茶に口をつける。冷房と冷たい液体によって、外側と内側から体の火照りが鎮まっていく。ようやく人心地つけそうだ。

 最近聴き始めた音楽を、楽しげに語る彼女の横顔を眺める。頭の真ん中あたりで結ったお団子の下から、後れ毛がいくつか束になってうなじにかかっていた。細い首に、やわらかい輪郭が女性らしさを主張する横顔。桃色のくちびる。

 さっきから、妙に音が遠い。大きな窓の向こうの景色が、夏の強烈な日差しにきらめいている、どこか現実離れした映像。


 不意に、目の前の愛おしい存在に触れたいと思った。抱擁してしまいたいと思った。そんなことができたら、なんて素敵なんだろう。そう思った。


 楽しそうにお喋りを続ける彼女の横顔。普段学校では見せないだろう笑顔が、俺だけに向けられているような錯覚——その優越感と独占欲に気が付いてしまった。


 ……でもさあ、俺中身こんなだし、体の性別は同性だし、あんまりだよ。報われるはずがない。これが、もしも普通の少女同士なら、少し倒錯した思春期の一ページになるんだろうか。自分の心を自覚した途端に、理性が全てを否定した。


 馬鹿野郎、頭の中身まで中坊になってんじゃねえよ。あまりに平穏な生活が続くから、どうして俺が『波南美』になってしまったのか忘れてしまったのか? 全部俺のエゴが招いた結果だ。永瀬康平はあの時に死んで、橘波南美の体に俺が居座っている。俺はただひたすらに、終わりのない、贖罪を続けるだけだ。

 いつの日か俺も、この体に馴染んでいくんだろうか。完全に女になって、そうしたら、普通に生きれるのか。むしろ、この体にとって、俺は不純物に過ぎないんじゃないか……。俺が消えてしまったら、元の波南美に戻るんだろうか……。

 なんとなく、そんな時は来ないのではと思った。


「ねえ、な、何か顔についてた?」

「えっ、あ、あぁ、ごめんね。ぼーっとしてた……」


 いや、一緒にいれる、この時間だけで十分だ。

 心に刺さる一本の棘になっていけ。せめてもの強がりだ。


 でも、本当は、心細くておかしくなりそうなんだ。

 この夏が終われば、俺が波南美になって二年が経つ。まったく訳のわからないまま、小さな女の子になって、赤の他人の家族になって。見知らぬ土地で、中学生をやり直すなんて正気の沙汰じゃない。だが、泣き喚いたところで、俺が俺であることを証明することは不可能だ。ありのままをさらけ出したところで、ただのキチガイ扱いされてさようならだろう。

 そんな中、彼女がいてくれて本当によかった。情けないけれど、心の拠り所だった。


 だからお願い。ここ最近、ずっとクマが濃い理由を教えてくれよ。

 心配なんだよ。笑ってはぐらかすなんて、あんまりだ。


「彩、最近疲れてない?」

「ううん、大丈夫。げ、元気元気」


 今すぐにその手を取りたい。白魚のようなその手を、ぎゅっと握りしめたかった。


「眠れてる? 最近暑いもんね」

「そうだね。ちょっと、ね、寝つきが悪いかも」


 いや、女の子同士だ。それくらい、日常茶飯事でしょ。

 そっと、彼女の放り出した左手に己の右手を重ねる。俺の手は、比べるとまるで子供みたいだ。どこか、ぬくもりと裏腹に、彼女を遠く感じてしまう。

 すると、彼女の側頭部が俺の頭にコツンとぶつかった。彼女の方が背が高いから、俺に寄りかかる感じ。シャンプーだろうか、甘い香りが漂う。この匂いが好きだ。胸が締め付けられる。


「ごめんね」

 頭の斜め上から、囁き声が降ってきた。

 繋いだ手の指を絡ませる。

「大丈夫だよ……」


 このまま、時間なんて止まってしまえ。



****



 比較的遠い場所にある市民プールへ池ちゃんを誘って来てみれば、昨年一緒のクラスだったホッケー少年こと若山君に出くわした。

 池ちゃんを気遣い、あえて最寄りを外したのだが、間が悪いことにエンカウントしてしまった。

 施設の入り口にて、彼は俺を見て一言。

「波南美ー、おまえすっげえ柄の服着てんのな……」

「いいっしょこれ。マリメッコっぽくて、夏な感じで気に入ってんの」

 俺はおどけながら、北欧の某ブランドにインスパイアされた柄のワンピースを広げる。お養母かあさんと服の趣味が合うので、気がつけば無駄に洋服が増えていた。俺は俺で結構楽しいので、自重する気はあまりない。

「マ、マリ……? なんだそれ」

「ま、サイズが無いから子供服なんだけどさ!」

 悲しいね、俺子供服着てるんだ。

 まあ、それはいいとして。俺は彼の袖を引っ張り、無理やりに俺の口と耳元と高さを合わせた。

「なあ、若山。他の連中いるんだろ?」

「い、いるけど、どした?」

「池ちゃんさ、あんまり学校のやつと会いたく無いんだ。少し気を使ってくれない?」

「あ、ああ。今日ホッケークラブの友達とだから、同じ学校は俺だけ」

 そうか、僥倖僥倖。これなら、池ちゃんも安心して遊べそうだ。こいつは去年も俺たちに中立的だったし、信用できる。

「そっか! 急にごめんね、ありがと。じゃ、また」

「あ、ああ。そんじゃな……」


 簡単に別れを告げて、池ちゃんと二人女子更衣室へ進んだ。

「池ちゃん、あいつと同じクラスだっけ?」

 彼女は、俺が若山君と話している間、一歩引いたところで浮かない顔をしていた。確か、別のクラスになっていたはずだが、念のため確認しておく。

「う、ううん」

「大丈夫? プール、やめよっか?」

「いや、だ、大丈夫……」

 彼女は首を小さく横に振り否定すると、そそくさと着替えを始めた。一方俺は出遅れたことと、学校のプールとは違い、一般のお姉様方も利用する更衣室にワタワタしてしまった。おっひょ、これは思いがけない役得でございます。やっぱ夏はプールだぜ……。ヨッシャ、カモン、池ちゃん水着ヤッター!


 ……俺死んだ方がいいなあ。ま、一回死んでるんだけどさ。


「い、池ちゃん着痩せするタイプゥー……」

 クラスが変わったので、彼女の水着姿を見るのは今年初だ。するとどうだろう。記憶の中より一回り大きくなっている。あっれーおかしいな、波南美ちゃん結構自信あったんだけど、伸び代が違うかー。

 淡い小花柄のタンキニの上からでもよくわかる。進捗よろしいみたいですね。俺は、ダメです。安パイを求めてワンピースタイプにしました。まあ、俺みたいなのが気合い入れてもね、しょうがないよ。ごめんよ波南美、ここは身を引こう。土俵が違うんだ。

「波南美ちゃんは、お、お人形さんみたいで可愛いね」

「えっ、そ、そう? 照れるぜ」

「うんうん、可愛い可愛い」

「あっちょっ、投げやりか!」

 なんだよー、褒められて普通に嬉しかったんだから、ふざけるのやめればいいのに。

 こういうところガキだよなあ、俺って。

 そのあとは、楽しい時間だった。お互い日焼け止めを塗りあったり、スケール感のしょっぱいウォータースライダーを笑いつつも並んだり。泳ぎで競争もしてみたが、途中で俺の足が攣ってしまい、池ちゃんに助けてもらってしまった。大変情けない。でも、プールサイドまで腕を引いてくれたのにはキュンときた。イケメン成分もあるとかずるいっスよ。


 ひとしきり遊んだ後、俺は自販機で買った炭酸水を飲みながらベンチに腰掛けた。彼女は今お手洗いのため席を外している。

 薄暗い日陰側からプールを眺めると、カラフルな水着を纏ったシルエットが、舞台の上でせわしなく動き回っているように見える。思わず両肘を太ももに乗せて屈み込んだおっさんスタイルで黄昏れてしまう。

(あぁー、プール上がりのこの感じ、ビール飲んだら最高だよなぁ)

 そんなことを独り言ちながら、炭酸水を飲み進める。パチパチと弾ける泡が心地いい。

「よぉ波南美。スク水じゃねえんだな」

 横から声がかかる。外で出くわしたぶりの若山君だ。

「なあに、若山ってそういうの好きなの?」

「んなわけねえわバーカ。……池田は?」

「池ちゃんはお花を摘みに。どしたん?」

 見上げれば、表情が読めないくらいの逆光。

「池田って、二組だったよな。なんか、女子グループから完全にハブられて、逆に問題児扱いされてるらしいぜ……」

 やっぱり。うまく行ってないんじゃん。むしろ、去年より悪化してるんじゃないだろうか。あんないい子が問題児だなんて有り得ない。大方、先生へ有る事無い事吹き込んでるんだろう。俺は開いた左手の親指で、こめかみを押しながら頭を抱える。

「それ、なんで私に?」

「お前あの子の友達なんだろ。なんも知らないのか」

「……そう。私、全然知らなかった、教えてくれてありがとう。クッソ悔しいね、あんたから聞かされると」

 察してはいたものの、こうやって事実として語られると呼吸が辛くなるほどにショックだった。喉が急激に乾きだす。がっつくように一口含んだ炭酸水は、先程までの爽やかさはどこに行ったのか、不快な苦味のようなものを感じる。

「……悪い。俺も聞いた話だから、なんもできなくて」

「なんで若山が謝んのさ。こうやって、教えてくれるだけ優しいよ。ありがとな」

「そうか……。波南美は、特に何もないのか?」

「私? なんもないよー。つか、きみ筋肉やばくない? えーなにこれなにこれ」

 立ち上がると、逆光がマシになったせいか彼のディティールがよく見えた。なかなかいい筋肉のつき方をしている。細マッチョより全体的に骨が太めな印象だ。


「な、なんだよ……?」

「触らして?」

 俺が筋肉と顔を見比べて問いかけると、顔を赤くしながら「あう」とか「おう」とか言って頷く。

「うっひょーええやん! ねえちから入れてみてよちから

 彼の二の腕を掴み、筋肉の隆起を堪能していると、奥から冷やかしの声がかかった。

「おーい若山ー、なーにイチャついてんだよぉー!」

 彼の体越しに覗いてみれば、同世代と思しき少年たちがニヤニヤとこちらを眺めている。しかし、筋肉量的には若山君の一人勝ちだな、残念。


「あ、君たちアイスホッケーチームの? どもどもー。私若山の同中で元クラスメイトの——」



 ふと、随分と長いお手洗いだなと思った。

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