割れた銀の羽

 好きすぎてキレそうって言ったの誰だっけ。確か、邦楽のポップスにそんな曲名があった気がする。


(やっば。頭おかしくなる……。彩ちゃん……結婚しようね……できないけど……)


 頭まで被った布団の中で想いを吐き出す。ふかふかの羽毛布団を両手両足で抱きしめると、冷え切った空気が隙間から流れ込み、温もりと混ざって心地よい。

 季節は冬へと移ろい、日々厳しさを増す寒さに比例して人肌恋しさが増していった。


「うぅぅ、めーっちゃセックスしたい……くっそムラムラする……」


 頭にこびりついた、あの日の光景を繰り返し再生する。浴室に浮かび上がる、彼女の白い身体。そのすべての柔らかさを、温もりを確かめるために頬擦りしたい。キスしたい。歯を立ててみたい。

 彼女に、愛されたい。私のことを抱きとめながら、耳元で愛の言葉を囁いてほしい。息もできないくらいのキスをしてほしい。あのしなやかな腕で、ぎゅってしてくれたら、それだけで幸せになれる。いや、幸せすぎて死んでしまうかもしれない。

 生前でも、自分だけが気持ち良くなろうなんて独り善がりなセックスはしていない自負があるし、実を言えば何度かこの身体で自分を慰めたこともある。十分に、彩を愛することができる自信がある。しかしその経験からか、妄想が妙な生々しさをもっているように思えた。


 いつの日か、こっ酷く振った昴のことを思い出すと、若干自己嫌悪に陥る。あんなことを言っていたのに、全部ブーメランになって自分に直撃してしまっていた。


「んへぇ」


 自分のことながら、あまりにも剥き出しの願望に辟易し、布団の中で呻き声をあげる。叶うはずがないと自分に言い聞かせるが、一度走り始めた気持ちは止められない。

(いやいや、私は中身がこんなだからいいけど、彩は普通の女の子だから……。こんなこと思われてたら気持ち悪いよね……)

 彩のことを好きになったのは、私が俺だからなんだろうか。

 ぐちゃぐちゃの頭の中をスッキリさせたくて、敢えて言葉にしてみると、急に心細くなる。彼女の優しい微笑みが、軽蔑や嫌悪の色に染まる瞬間を想像すると、喉元がキュッとなって息が詰まる。


 好きだからこそ、本当の気持ちを伝えられない。

 何よりも、彼女の笑顔が幸せだから。


 しかし、いつぶりだろう。四六時中誰かのことを考えて、胸がチクチクするのは。苦しくて、痛気持ちいい。でもそのせいで、心が跳ね回ってちっとも落ち着けない。だけど、全然嫌じゃない。甘くて苦い想いだけがずっと、頭の中を満たしている。もしも奇跡的に、お互い愛し合う仲になれたらなんて考えると、一瞬で体温が上昇する。胸の奥から熱いじわじわが広がって、どうにかなりそう。


(俺ったら情緒不安定ー。……女子かよ。いや、まあ、女子なんだけどさあ。……そういえば女の子同士のセックスってどんな感じなんだろ。チンコのないセックスとか想像できねえ……)


 もしも、もしも彩が男の子だったら、同じように好きになってたんだろうか。もしも、私が男だったら、彩と恋人になれるんだろうか。……わからない。

 不意に、他人が自分の中に出入りするあの感覚を思い出してしまう。異物感と圧迫感、嫌悪感まで鮮明に蘇ってしまい、二の腕の肌が粟立った。

 そのせいか、さっきまでの激しい欲情は身を潜めたようだ。一度大きく息を吐き出すと、抱きしめてくしゃくしゃになった羽毛布団の形を整え、力一杯目を閉じて眠りに落ちていった。


****


 ある日の美術室。同級生の佳奈に秘策を披露した。

「ででーん見てこれ見てこれ」

「……なにそのダッサいパーカー」

「ブックオフで百円で買ったった」

 リサイクルショップで買った古着のパーカーだ。裾が膝に届きそうな、圧倒的オーバーサイズのパーカー。制服のセーラー服の上からでも余裕で着れる。

「なんのために」

「ぶっちゃけジャージ着替えるの寒いし、制服の上から着ちゃえばエプロン代わりになるかと思って」


 俺が理由と目的を説明すると、佳奈は大げさに片眉をあげて難色を示した。

「なんでもいいけど、先生になんか言われたりしない?」

「佐々木先生には部活中に限りって許可もらったよ」

「……そう。というかなにその柄。気色悪い」

「これやばいよねー、さっき先生に見せたらバスキアのパクリだーって言われた。でも、よく見ると愛嬌あって可愛いよ」

 黒地に落書き、それこそバスキアの作品を劣化コピーしまくったようなプリントが施されている。こういう訳のわからない柄の服、よくリサイクルショップで投げ売りされているけど、元はどこで売ってるんだろう。そしてどういう経緯で古着としてここまでたどり着いたんだろうか。

 なお、生前からこういう訳のわからない、出自不明な古着を見かけると衝動買いしてしまうことがよくあった。しかし買ったは良いものの着る機会には恵まれないことも多い。今回の買い物は、部活でのエプロン代わりの目的があるため、有効活用していけるだろう。


 俺はスカートの裾を広げるようにくるりと一回転して、怪訝な顔をする佳奈にパーカーの全体像を見せつける。このパーカー、まさかの前後同じプリントなんだよ。ツッコミどころしかなくてヤバイよね。

「波南美がいいなら、いいけどさ。あんまりそれで出歩かないでよ」

 呆れたような声音だ。実際絵筆を握ったままの右手で頬杖ついて、ため息なんかついている。

「えー、ある意味アーティストっぽくない? こういう格好」

 私はめげないぜ。悪絡みには自信があるんだ。

「あんたゴリゴリのデザイナー思考じゃない。変なところで芸術家気取らないで」

 わあすっごい辛辣。まあ半分くらい俺が育てたみたいなとこもあるのでなんとも言えない。ほぼ毎日部活で顔を合わせて、有る事無い事吹き込んでいれば捻くれるのもしょうがないね。お姉さんそういうへそ曲がりな子大好きだから安心して美大とか目指して欲しい。応援してる。

「でもクリムトもずっとスモック着てたっていうし、似たようなもんでしょ」

「クリムトと自分を同列に扱える神経の太さだけは認めるわ」

「うへへ佳奈ちゃん照れちゃってぇ、もう一着買ったから分けてあげる」

「いーらーなーい!」

 なんだかんだしっかりツッコミいれてくれるの優しいと思うんだ。ツンデレさんだなあ、愛い奴め。


 今の美術部は三年生の先輩が引退して、俺達が最高学年だ。この時期特有の開放感が心を浮つかせて、無駄にはしゃいでしまう。

「なーなーみ先輩、僕の分は?」

 後ろから、美術部唯一の男子の声がする。相変わらず腹がたつほど顔がいい昴だ。

「出たなクソイケメン! よっしゃ試しにこれ着てみて」

 ちょうどいいタイミングだ。服が顔を殺すところが見たいので、今着ているパーカーを脱いで手渡す。いや、改めて見ると本気でわけわからない柄をしている。近頃身長も伸びて、さらにイケメンに磨きのかかった昴でも太刀打ちできないだろう。他の一年生の後輩とニヤニヤしながら眺める。

「ちょ、マジすかー? 柄やっば。ま、着ますけどー?」

 口では文句を言いつつ、ノリノリでパーカーを羽織っていく。元がメンズのためか、彼が着てもサイズ的に問題ないようだ。安っぽいファスナーを首元まで上げると、口からの効果音付きで両腕を広げた。

「ジャジャーン、どうスか?」


「なんか、普通にオサレさんっぽくて面白くない……」

「なんすかそれー!」

「え、そういうファッションお好きなんですよねって感じ……?」

 彼は絵もうまいし、なんだか突飛なデザインの服も無駄に説得力があるように感じる。たまにこういうアヴァンギャルドな人いるよね。


 納得いかねえー。夏前まであんなに顔が良いだけのちんちくりんだったのに。つまらないやつになっちまって。完全に八つ当たりだ。

「こういうのが一番面白くない! ……まあ、私が悪いんだけどさ。ん、パーカーかえして」

「えぇーもっと先輩に包まれていたい……」

 昴が抜群のスタイルでしなをつくるように身を捩らせると、気色悪さと妙なエロさを感じてしまった。なんとも言えない鳥肌が立つ。おいバカやめろ匂いを嗅ぐな。

「ちょ、何やってんのお前……きっしょ……」

 ちょっと他の後輩ちゃんも引いてるじゃない。小さい悲鳴聞こえなかった? 大丈夫? 耳鼻科行く? なんで君そんな満更でもない顔してんだよ。

「波南美がそういう風に育てたんでしょ」

 横から身も蓋もない指摘が飛んできた。あのね、まだこの子中一だよ。確かに俺もかなりふざけた接し方してたけど、半年でここまで性癖拗れるのは本人にそういう素質があったからじゃないかな。いいぜ、そっちがその気なら悪絡み再開してやる。

「佳奈ちゃん大正解! 波南美ちゃんポイント五十点贈呈!」

「めーっちゃいらない。ほら、そこに欲しがってる奴がいるじゃん。あげなよ」

「僕何ポイントくらい溜まってますか!」

「おーおー、君はねえ、マイナス五百ポイントの借金状態だよ」

 君は俺と一回デート行ったからダメです。借金はちゃんと返すこと。波南美ちゃんとの約束だぞ。

「マージすか!?」


 ずっとこんな、ぬるま湯みたいな場所にいたい。そう思えるほどに居心地の良い居場所を見つけられるとは思ってもいなかった。しかし、時間は平等に流れて、いつかこの場を去らなければいけない時が来る。中身は成人済みのせいか、すぐ感傷的になってしまう。だからこそこういった時間が、かけがえのないものに感じるのだ。

 彼らも、いつかそんなことを思う時が来るんだろうか。一瞬一瞬が輝いて見える、貴重な日々だったと。

 嫌だなあ。みんな同じ場所にいるのに、私だけ存在のレイヤーが違う気がした。


 昴から上着を奪い返し、気を取り直して俺も制作に着手しようと席に着いた時だった。

「ありゃ、制作用のペンケース教室に忘れてきたっぽい」

「ふぅん、貸す?」

「ありがと。んー、家でも使いたいし今取って来るよ」

 佳奈ちゃんやさしー。さすが新部長。しかしお言葉に甘えず教室まで戻る旨を伝えると、彼女は軽く頷いて自分の作品に向き直った。

 ——さっき何か言われた気がするけど、このパーカー着たまま行っちゃおう。

 冬の放課後、学校の廊下って薄暗くて底冷えする。防寒着というていで、忘れ物を取りに行く一瞬くらい着ていても問題ないだろう。佳奈に小言を言われる前に行動あるのみ。そうと決まれば、俺はそそくさと美術室を後にした。実際彼女も制作に対する集中力の切り替えは素晴らしく、部屋を出る俺に意識を向けてくることはなかった。



「いーやー寒いーねー。一年ほんとっやいわぁ」

 人気ひとけのない放課後の廊下。遠くから、運動部の掛け声や剣道部の叫び声、吹奏楽部のトランペットの音が飛んできた。つられて耳をすませば、その中にフルートにクラリネット、トロンボーンにホルンの音まで聞こえる。たまに調子外れな音が混ざるあたり、中学生のバンドといった感じで微笑ましい。俺は薄暗く冷たい景色をごまかす様に、上履きをパタパタ鳴らして教室へ向かった。

 教室のある階の階段を登り切ると、水滴が廊下を横切って滴っていた。上履きの足跡も同じ方向に続いている。

「なんだべ。お掃除やらかしマンか?」

 俺はとんだ不届き者がいたもんだと思い、初冬の水遊びの形跡を追うことにしたが、その調査は存外あっという間に終わってしまった。


 廊下に滴る水滴と、埃の固まった上履きの足跡は、階段隣の女子更衣室へと続いていた。

「おいおいマジかよ。こりゃ厄介事かあ?」

 そうと分かっていながら小さく零した。心臓が、自分自身を批難するように高鳴るが、俺はじわじわと扉へと近づいていく。どう転んだって、気持ちのいいものは見れない確信がある。何も無いに越した事はない筈だが、そうは問屋が卸さない確信もあった。

 むしろ、嫌な予感だけははっきりとしていた。

 更衣室のドアにたどり着き、磨りガラスから中を覗くと、分厚いカーテンの裏地だけがぼんやりと見える。いつのまにか感じていた渇きを紛らわすために、唾を飲み込んで、五感を研ぎ澄ませた。


 小さな、必死に咬み殺した啜り泣きの声が聞こえた。

 聞き間違えるはずがない。図書室で、自分の部屋で、すぐそばで聞いていた声だ。


 気が付けば俺は、小さな明かり取り窓だけが頼りの、廊下より一層薄暗い更衣室へ転がり込んでいた。


「あ……彩?」


 後ろ手で扉を閉めつつ、啜り泣きの主へ呼びかける。するとどうだろう。部屋の隅、暗がりの中に佇む影が、大きく見開いた瞳で俺を射止めた。

 その白眼は、かわいそうなほどに充血しているのがここからでも分かる。


 心臓が早鐘を打つ。思考や感情が暴走するが、頭の芯だけは血の気が引いて冷たい。黒く冷たい水が、脊髄を下っていく。

 どうして、どうして彩がこんなずぶ濡れに?

 いや、そんなことはどうでもいい。俺は羽織っていたパーカーを脱ぎ去ると、へたり込む彼女の元へ駆け寄った。


「彩! どうしてこんな……!! こ、これ使って、タオルのかわりにはなるから!」


 ひどすぎる! 駆け寄ってみれば、彼女は正に濡れ鼠だ。頭の先から爪先まで濡れそぼっている。

 唇は紫色。寒さに凍え、奥歯のガチガチいう音が聞こえた。慌てて脱いだパーカーを彼女に押し付けると、濡れた髪の毛からバスタオルでするように乾かし始める。

 しかし、ここまで全身濡れていると、制服だけでは済まないだろう。インナーや肌着、下着までダメかもしれない。恐ろしいことに、触れたところから滲み出る水はかなり冷たかった。


「だ、大丈夫だからね、全然濡れてもいい服だから……。た、体操着は持ってる? こんな酷いこと、誰にやられたの!?」


 気持ちだけが急いて、矢継ぎ早に問いかけてしまう。だが俺がまくし立てる間、彼女は力無く首を横に振り続けるだけだった。

 震えながら黙りこくる彼女に、なぜか苛立ちを覚えてしまう。思わず、語気を荒げてしまった。胸の中にざわざわした黒い感触が満ちる。刺々しく、真っ黒な塊。


「ねえ、何か言って! どうして何も教えてくれなかったの!? 私、彩がこんなになってるって知らなかった!」


 いつの間にか力が入っていた手のひらが、彼女の衣服に染み込んだ水で濡れる。末端から、神経を蝕むような冷たさ。


「な、なんでもないよ。波南美ちゃんには、か、関係ない……」


 蚊の鳴くような声。俯いた彼女の目は見えない。


「関係ない訳ないでしょ!!」


 ——誰がやった、殺してやる!


 誰に対する怒りだろう。感情が溢れて止まらない。汚い言葉が口を衝く。

 時間が無限に引き伸ばされて、空気が薄くなる。


 ふと、彼女の手が、煩わしい物を払いのけるように動く。

 ちくりとした。


「もうやめて、私に構わないで。わ、私、波南美ちゃんみたいになんでも知ってて、戦える、に、人間なんかじゃない……」


「な、なにそれ……」


 俺が、なんでも知っていて、戦える?


「で、でも、図書室で約束したよね。私は彩の味方だから、なんでも言ってって……」


「波南美になんてわかりっこないよ!!」


 小さく突き飛ばされた。あまりにか弱い腕の力だったが、体格で劣る俺は尻餅をついてしまう。

 胸が、痛い。初めて目の当たりにする彼女の睨みつける顔。悲痛な怒声が鼓膜を震わせた。


「な、波南美ちゃん……。ど、どうして、わたしに優しくするの? わたし、し、知ってるよ。ほかの、ひ、人と接し方、違うもん……」


「どういうこと。好きな人に優しくしちゃ、いけないの?」


 お願い、もうやめて。お願いだから、そんな目で見ないで。


「い、いつもズルいよ。誤魔化したり、あ、当たり前のことでは、はぐらかして。波南美ちゃんって、どれが本物なの……?」


 どれが、本物? 本当の波南美は——。


「あ、あのね、私、彩のこと大好きだよ。本当に、心の底から。ずっと、側にいたいよ……」


 無意識のうちに、彼女に縋り付く。

 ダメ、これ以上いけない。でも自分を止められない。勝手に、想いが溢れてしまう。


「私……あなたのことが好き。友達としてじゃなくて、女の子として……あ、愛してる……」


 無様に、彼女の首に腕を回し、しがみつくように抱きしめて言った。

 言ってしまった。怖くてしょうがないと思っていた言葉。なんで、こんなタイミングで。気持ちが制御できないまま、後悔と焦りが胸を押しつぶしていく。

 その時、彼女の腕で、一度だけ抱きしめられたような気がした。


「波南美ちゃん、ご、ごめんね……。わ、私たち、お互い狡いね、汚いね」

 随分と、穏やかな声に聞こえる。

「彩……。ごめん、気持ち悪いよね……」

 そんな声音だったから、甘い期待を抱いてしまった。

「もう、やめよう、こ、こんなの」


 もう一度、彼女は俺を突き放した。

 ——明確すぎるほどの拒絶だった。

 勢いよく立ち上がった彼女に振り払われ、冷たいリノリウムの床に放り出される。放心しているせいか、部屋を後にしようとする彼女の動きが、スローモーションのように見えた。濡れて重くなったスカートが、足に張り付いてなんだかセクシーだな、なんて思ってしまった。


 バシンと、耳に痛い音を残してドアが閉まる。

 更衣室に残されたのは、ところどころ湿った変な柄のパーカーと、それに横たわる自分一人。


 終わった。

 予想通り、いや、予想よりもずっと酷い破滅だ。

 全部終わってしまった。

 想像していた暗い願望なんて一つも感じない、無様で惨めな、醜い終わり方。結局、私は彼女の何者にもなれなかった! でも、どうしたら良かったのか。

 彼女は言った。私はなんでも知っていると。そんな訳ない。私は、あんなこと知らない。せいぜい揶揄われたり、特定の人にシカトされていたぐらいだ。生ぬるい環境しか知らない。何も、本当に何も知らない。彼女の現状も、どうしたら力になれるかも知らなかった。

 そのくせ、根拠のない甘い言葉を並べた挙句、まるで弱みに付け入るように想いを吐き出してしまった。私は、なんて大馬鹿者なんだ!!

 

 さっきまで、彼女を覆っていたはずなのに、ちっとも温もりの感じないパーカーの一部を握りしめる。つめたい湿り気だけが手に伝わってくる。

 私はそのまま床を殴りつけた。

 二度三度殴りつけると、分厚い生地を通してじんわりと痛みを感じる。小さな握り拳が、お前は無力だと嘲笑っているように思えた。


 横たわったまま、気が付くと涙だけがボロボロと溢れ出していた。嫌味なくらい熱い液体が、とめどなく頬を伝って、パーカーに染み込んでいく。

 黒い布に横たわる私は、まるで打ち捨てられた粗大ゴミだ。落書きのようなプリントが、頭の中の混乱と惨めさを強調する。

「彩ぁ……ごめんなさい……ごめんなさい」

「わたし、馬鹿だから、なんにもできなかった……」

「好きになってごめんね、優しくしてごめんね、私なんかが付きまとってごめんね」

 ぼやけた視界の中、彼女への贖いの言葉を並べる。

 私は、小さく丸まって、聞く相手のいない贖罪と涙だけを垂れ流すことしかできなかった。


****


「あら、晩御飯、もういいの?」

 色温度の低めな、暖色系の照明が照らす食卓。天然木の天板が使われたダイニングテーブルには、北欧の優しいテキスタイルデザインのランチョンマットがそれぞれ敷かれている。その上では、お養母かあさんの作る、丁寧な夕食がまだ湯気を立てていた。

「ごめんなさい。あんまり、食欲なくて。ごちそうさまです」

 俺はいくらも手をつけていない食器を片付けながら、作り笑いで追求を避ける。

 薄味だが、美味しいはずの食事の味がよくわからなくなった。空腹も、あまり感じない。


 部屋に戻れば、大きなため息が溢れた。肺の底まで全部吐き出したはずなのに、胸のつっかえは少しもよくならない。

 あんまりメソメソしているものだから、自分で自分を笑う。らしくないなぁ。

 それでも、油断していると勝手に涙がじわりと滲み出すのだ。


「ダメダメ、切り替えなきゃ」


 自分に言い聞かせる。彼女に、この想いを受け止めてもらうことは叶わなかったが、彼女を好きなことには変わりないし、後悔もしていない。辛くて、悲しいけれど、全部終わった訳ではない。これからでも、彼女のためにしてあげられることはあるはずだ。そのためにも、俺が折れる訳にはいかない。


 そうだ。週末はおしゃれして美術館でもいって、カフェで美味しいココアでも飲もう。中学生料金様々だ。いいものを見て、美味しいものを食べれば大体のことはうまくいく。

 努めて明るく振る舞い、意気揚々とクローゼットのドアを開けば、いつのまにか増えていった洋服達がハンガーに吊るされ並んでいる。まだスペースに余裕こそあるが、衣装ケースや畳んだショッパーも随分と増えた。


「あれ、冬物ってこんなパッとしない色しか持ってなかったっけ」


 違和感を覚え、試しにこの夏着ていた、鮮やかな花柄のワンピースを取り出す。確かに冬物の色味は控えめなものが多いが、嫌に灰色がかって見えたのだ。


「うんー、気のせいかな……」


 どうも、思い違いだったようだ。

 大丈夫。沈んだ気持ちも、いつかよくなる。そう言い聞かせると、週末のコーディネートを考え始めた。

 今だけは、彩のことは考えないように、頭の中から放り出した。

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