蜻蛉の唄

 心にぽっかりと穴が空いたような気持ちのままでも、時間は過ぎていく。


 新しい年がやってきて、三学期も始まった。あと少しで、中学二年生も終わる。振り返れば、本当にあっという間だった。

 波南美として生きること、二度目の中学生活を女子として過ごすことに四苦八苦していたら、もうこんな時期になっていた。三年生になれば高校受験が控えている。幸いなことに、やるべきことはいくらでも転がっていた。ひと月ほど前、望まぬかたちで想いを伝えてしまったことによる心の隙間は、徐々に埋まってきていた。


 それでも、完全に失意から立ち直れた訳ではない。やっぱり彩のことは好きなままで、彼女のことを想うと、未だに胸がシクシクと痛む。その痛みを実感する度に、情けなくて自嘲する日々だった。

 そんな今の俺には、美術部の緩い空気がありがたい。制作に没頭すれば寂寥感から逃れることができたし、佳奈や昴、他の後輩たちとのコミュニケーションが、少しずつ俺を癒してくれる気がした。



 絵の具で汚れた絵筆を洗う手が、冷たい流水に切れるような痛みを訴える。

「波南美さ、ようやく元気出てきたんじゃない」

 隣でパレットを洗う佳奈が、視線を手元に注いだまま、独り言を呟くように言葉を放った。

「えぇ、そうかな。私いつも元気だよ」

 愛想笑い。なんとか微笑みを繕って返すが、強がりなのはお見通しだろう。



 あの日、俺はずっと更衣室の中で泣き崩れていた。戻りの遅いことを心配した佳奈が俺の泣き声を聞きつけなければ、下校時間までそこで横たわっていただろう。その時彼女は、無理に理由を聞き出すようなことはしなかった。何も訊かず、俺の背中をさする、絵の具で汚れた手はとても暖かかった。


 誰かを想い、愛し愛されることは素晴らしいことだが、そのために必要なカロリーが膨大すぎる。あの日、想いが成就し得ないことを突きつけられた俺は、常に心が栄養失調をおこしているようだった。

 それ以来、俺は過去を閉じ込めはじめた。康平として生きてきた記憶は、なるべく表に出さないようにして、改めて、自分は波南美だと言い聞かせる。

 普通の女の子として生きていく——普通の女の子は、女の子同士好きあったりしない。だから、しょうがない。そう思い込むことにした。そうしないと、心が壊れそうだったのだ。



 ある日、学校の図書室で彩とばったり出くわしたことがあった。同じ学校の、同じ学年だからそんなこともままある。

「あ……彩……。な、なんだか久しぶりだね……」

 あの日から、メッセージアプリは沈黙したまま。漠然と、お互い避けるように過ごしていたので、絶妙にギクシャクしてしまう。

「な、波南美ちゃん。ご、ごめん、今急いでるから……」

 見え透いた嘘を吐かれたことに傷ついたが、それもしょうがない。彼女は、だから。

 全部、俺が悪いんだ。馬鹿で歪んでいる俺が全部悪い。そう思い込んで、自分を守ることにした。誰かに、こんなくだらない意地の張り方を笑い飛ばして欲しいが、それも叶わない。



「なんだか、最近変わったね」

 パレットの水を、絵の具でカラフルに染まった雑巾で大雑把に拭きあげながら佳奈が言った。

「そう? 例えばどんなふうに?」

 俺が質問で返すと、彼女は少し考え込んで続ける。

「ええと、幼くなったというか、付き合いやすくなったというか」

「そうかなあ。私、嫌なやつだった?」

「嫌じゃ、なかったけどさ。なんか兄貴といるみたいで落ち着かなかった」

「お兄さんいたんだ。いくつ?」

「今年から大学生」

 なるほど。思春期の少女が、上の兄弟を疎ましく感じるのはおかしなことではない。無意識に晒していた康平の部分で、彼女の機嫌を損ねていたのだろうか。そうなっていたのなら申し訳ない。

「そっかあ。なんかごめんね」

「なんで謝んのよ」

 彼女は小さく鼻で笑うと、再び作業台の方へ戻っていった。

 ぼーっとしていたせいか、洗っていた絵筆はすっかり綺麗になっている。ふと視線をあげた窓の外には、眩しいくらいの冬晴れの青空が広がり、寒空の下、陸上部やサッカー部、野球部なんかの運動部がグラウンドを駆け回っているのが見えた。

 コントラストを下げたような淡い景色が、陽光にきらめいていた。


「波南美くん、ちょっといいですか?」

 洗い終えた道具を片付けていると、開けっ放しの美術準備室の扉から、顧問の佐々木先生が顔を出して俺を呼んでいた。

「はぁい。なんでしょうか」

 ハンドタオルで手に残った水分をふき取りながら、先生の元へ足を運ぶ。

 先生の城である準備室へ一歩踏み込めば、ただでさえ雑多な美術室に輪をかけてごちゃごちゃした環境に気圧されてしまう。油絵具とコーヒーの混ざり合った香りがした。

「確か、波南美くんはアドビの操作に堪能でしたね」

 オフィスチェアに収まった先生は太い指で、不器用そうにパソコンを操作している。完全に手を焼いているといった感じのため息をつくと、椅子を半回転させて俺と向き合う。

「学校関係の制作物で、リーフレットを作れないかと言われたんですが、何分僕はアナログ専門でして。マックとアドビも買って以来ほとんど使っていない状態で……」

 どうやら、先生はDTPが不得手らしい。確かに、先生が普段このパソコンを利用しているところを見たことがない。つまり制作全般をお願いしたいということだろう。

「ラフと素材があれば大丈夫ですよ。あ、もしかして、ラフ出しからやった方がいいですか?」

 ペラものからページもの、大判ポスターまで一通りの経験はある。問題なく対応できるだろう。

「本当ですか、とても助かります」

 先生は厚ぼったい手を軽く打つと、髭面を安堵で綻ばせた。勧められるままアルテックのスツールに腰掛けると、先生は何枚かのコピー用紙を取り出し、制作物について説明を始めた。内容を確認してみると、デザインのテイストからラフ案、素材などはほぼ決まっているようだ。これなら、たいした時間もかからないはず。途中で謎のリテイクや方向転換がなければの話だが。


「先生、お待たせしました。全体のレイアウトが完了したので、チェックお願いします」

「もうできましたか。さすが、早いですね」

 プリンターから、A4サイズに縮小したリーフレットを出力して先生に手渡す。先生の予想以上に作業が早かったのか、少し慌てた様子でコピー用紙を受け取った。

「うん、いいですね。追加のイラストは佳奈くんに頼んでみますので、それが上がったらこのまま進めてください。いやはや、とても助かりました」

 先生は、伸び放題の髭と対照的な、刈り揃えた坊主頭をガシガシと掻きながら礼を述べる。俺が「いえ、大したことじゃないので」と謙遜すれば、先生は「でも、僕はデザインが分かりませんし、大変頼りにしてますよ」と返す。最初こそ、身だしなみに無頓着なその姿に若干引いていたが、こうしてみると実に物腰穏やかな先生だ。


 そんな先生なら、もしかしたら、力になってくれるかもしれないと期待してしまう。


「あの、先生。すこし、相談があるんですが、お時間いいですか……?」

 スツールに座ったまま、先生に呼びかける。

 呼びかけに反応した先生が、先ほど手渡したコピー用紙から視線を上げた。柔和な目を丸くしている。

「おや、波南美くんが相談とは、珍しい」

 先生は、いつも自分でなんでもやってしまう俺からの相談に応えられるだろうかとこぼしながら、はにかんで俺と向かい合う。

 こうやって向き合うと、俺の体の小ささを如実に感じ、少し気後れしてしまう。やっぱり、成人男性とは、体の大きさも厚さも全部違う。前の自分だったら、そんなことなかったんだろうか。


「その……、別のクラスに、がいるんです。その友達が——」


 俺は、彩の現状について、あくまで推測という形で説明した。

 彩は、きっといじめられているんだ。

 一年生の頃よりエスカレートした、正真正銘のいじめだろう。

 ただ、そういった話や噂を聞いたことがないことから、連中はうまいこと目立たずやっているようだ。それに、一番考えたくないのは、担任の先生や他の教職員が見て見ぬ振りをしていること。もしかしたら、俺が詮索する事で、彩への仕打ちがエスカレートする可能性もあるかもしれない。

 それらを考慮すると、どことなく浮世離れした雰囲気のある佐々木先生へ、ある程度ぼやかした相談という形で援助を求める他ないように思えた。


 大体、自分から制服で水浸しになりたがる奴なんているはずがない。初冬だったとはいえ、冬に全身ずぶ濡れにするなんて、非道すぎる。実際に後日、マスク姿の彼女を廊下で見かけた。あんなことをされた上に、風邪をひいてフラフラの足取りにも関わらず登校を続ける彼女を思うと、いとも簡単に涙腺は決壊した。


 膝の上でスカートの生地を握りしめた両手に、涙が落ちていく。泣き顔を見られたくなくて俯いているから、瞬きの度にぼたぼたと涙が滴る。

 準備室の扉は開かれたまま。泣き声は美術室の誰かに聞こえているかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えながらも、涙は止まらなかった。


 しばらく、涙が流れるままに泣きじゃくる。俺が泣いている間、先生は何も言わず、微動だにしなかった。下手な慰めの言葉をかけられるより、よほど助かる。

 ようやく涙が引いた頃、ハンカチで目元を拭い、先生へ礼を述べた。

「んあ……。すみません、落ち着きました。もう大丈夫です。……お忙しいところすみませんでした」

「いえいえ、こちらこそ、話してくれてありがとうございます。……どこまで力になれるか分かりませんが、まずは職員室でうかがってみましょう」

 先生はまた後頭部をガシガシと掻きながら「僕も教員の端くれですから」と自嘲して椅子から立ち上がった。

「……話は戻りますが、リーフレットの件、佳奈くんと打ち合わせしてきます。波南美くんは、落ち着くまでどうぞ休んでいてください」

「すみません……ありがとうございます……」

 涙こそ引いたが、まだみんなの前に出れる顔じゃないのは確かだ。もうしばらく、お言葉に甘えていよう。


 散々泣いてばかりだ。頭の奥がチリチリする。目の周りが熱を持っている。冷静になって、深く息を吸い込めば、油絵具とコーヒーの香り。いつの間にか冬の陽光は勢いを無くしている。全身に満ちる脱力感と無力感に、情けなさを強く感じて、また、鼻の奥がツンとした。


****


 美術準備室に置かれた、よれよれの革張りのソファ。一体いつから置かれているのかわからないくらいくたびれていて、座面の下のスプリングは完全にやる気を無くしている。へたったスプリングは俺の軽い体重にもすぐ負けて、どふりとお尻が沈み込んだ。同じようにくたびれた背もたれに身体を預けると、天井を仰ぎ見る。

 ——泣き虫になったなあ。

 そういえば、俺が初めて波南美を夢に見たときも、勝手に泣いてたんだっけ。ほんと泣きっぱなしだ……。



「波南美先輩、だいじょぶっすか」

「んん……昴か。ありがと、全然大丈夫だよ」

 視界の隅にやってきた彼は、俺に声をかけるとそっと隣に座ってきた。さっきまで泣いていたのだ、あまり近いと恥ずかしい。

「このソファ、めっちゃお尻沈むっすよね」

「……うん。きみは背も高いから逆に座りづらいんじゃない?」

 彼は絶賛成長期のようだ。なんと身長は百七十センチを突破したらしい。顔つきも、周りの一年生に比べて精悍さが頭一つ抜けだしている。やっぱり、西洋の血が入ると早熟なんだろうか。夏休み明けから色を抜いている髪が、西日を反射している。

「いや、マジで一回座ると立ちにくいんすよ。……先輩、今日一緒に帰んないっすか?」

「……確か、同じ方向だったっけ」

「それもありますけど、今の先輩なんか危なっかしくて。佳奈先輩とか、みんなも心配してんすよ」

「あちゃー、そうなんだ。ごめんね? もっとしっかりしなきゃ……」

 やっぱりダメダメだなあ。全然周りが見えていないことを突きつけられて情けなくなる。そして、美術部のみんなの優しさを実感した。みんな、直接的なことばは少なくても、心配してくれている。

「まあそいうことなんで、僕が帰り道エスコートしますよ」

「マジかー、なんだか恥ずかしいね。でも、そんなことしたら変な噂たっちゃわない?」

 彼の緑色の瞳は、弱々しい日差しを背にした暗がりでもはっきりと見えた。近頃ヘラヘラした言動が増えているが、真面目な顔をすれば、一瞬で凛とした雰囲気を纏ってしまう。


「願ったり叶ったりっすよ」

 そんな軽い言葉とは裏腹に、彼があんまり真剣な表情で覗き込んでくるので、思わずドキリとしてしまった。

 そして、その瞳の奥に潜むものを感じ取ってしまった。彼はまだ、俺のことを諦めてなんかいないのだ。


「昴は、強いね。叶わないものがすぐそこにあるだけって、辛くない?」

 彼は憎たらしいほど表情を変えずに答える。

「余裕っす。そもそも、僕、あれで終わりだなんて思ってませんから」

 やっぱり、彼は何も変わってない。ひたすらまっすぐで、怖いもの知らずで、強かだった。言い訳ばかりの俺なんかより、よほど芯が強い男だ。こんな、中身からしたらずっと年下の彼に、心でも負けているなんて——。

 思わず笑いだしてしまった。


「あっはは、私の負けだぁ。ちょっとは君のこと見習わないと。……心配してくれてありがとう」

「これは波南美ちゃんポイント期待していいっすか?」

「うーん、まあ、ぼちぼちかな」

 俺が肩をすくめて受け流すと、彼は大げさに悔しがる。先程と打って変わって、ころころ変わる表情を見ていると心が軽くなる。

「というか、きみ距離感近すぎ。これじゃポイントあげられないね」

 さっきから、座る位置や顔が近すぎるのだ。

「うぇっ!?」

「残念でしたー」

 ようやく、心が軽いまま笑えたきがした。


 そうだ。あれで終わりだなんて、無理に思い込む必要なんてない。俺は、自分のエゴのために一度死んでるんだ。

 彩のためなら、なんだってしてやる。

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