消失点

 結局、俺はそのまま美術部に入部した。

 この学校には美術部とは別に、漫画クラブというものがあり、そちらに潜在的な部員含め多くの人数を取られているそうだ。美術部顧問の佐々木先生の意地で部活が存続しているような状態で、三年生が一人、二年生が二人、一年生が、俺を含めて二人、合計5人の少数精鋭。活動内容は定期的なコンクールへの出品のみで、制作さえしていれば、特に文句も言われない非常に居心地の良い環境だった。

 ちなみに、顧問の佐々木先生は白髪まじりの短髪が顎髭と繋がっていて、いつも絵の具で汚れたエプロンをつけている。その、若干浮浪者じみた外見のせいで、しばらく昔のことを思い出してムカムカしたのは内緒だ。


 美術部では、特に問題なく過ごすことができていたが、問題は教室にあった。

 俺は、波南美は、少しクラスの女子集団から浮き始めていた。最初期に話すようになった春陽とは、お情けでコミュニケーションを取ってもらえるが、スクールカーストからは脱落気味だった。クラスの中心となるような女子からは無視され、奴らの息のかかった連中は遠巻きにそれを眺めるだけ。やはり、男子の方が気兼ねなく接することができるが、それもまた気に食わないらしく、次第にグループから排除されていった。まあ、お年頃だし、そんなもんだ。


 勉強は教科書があれば特に問題ないし、連絡事項はクラスのグループチャットで共有されているため、特に困ったことはない。が、居心地は正直悪い。ある時、ホッケー少年の若山君がこっそり教えてくれたが、やっぱり特定の人しか参加できないグループがあるらしく、そのやりとりの中で俺が槍玉に上がることもあったそうだ。


 正直、今の子は大変だなと思う。確か、俺が現役中学生の頃はまだ、ギリギリこういったアプリの普及前だったはずだ。高校時代から使い始めた記憶がある。毎日教室で顔を合わせて、そこから更に何を共有しようというのか。


 俺は、さっきからポコポコ増え続けるアプリアイコンの通知数を忌まわしげに眺めた。そろそろ夏休みだというのに、未だ明けるそぶりを見せない梅雨が忌々しい。明日提出予定の宿題を片付けるべく、自室の勉強机に向かうが、ジメジメとした空気か汗のせいか、ノートのページが腕に張り付いて、無性にイライラする。内容自体は簡単なものだが、遅々として進まない。

「既読つけなきゃ文句言われるしメンドクセー」

 さっきからスマホがブーブーとうるさい。なんで全体グループで雑談するのか。必要のある人とだけやりとりすればいいのに、心底どうでもいいメッセージがボコボコ流れていく。スマホを手に取ると、会話の内容を流し読みして、また画面を閉じた。


「あーくそくそ、頭痛い腹痛い暑いだるい……」


 ここ数日、ずっとこうだ。偏頭痛とも違ううっすらとした頭痛に腹痛、体のだるさが続いている。

 なんとなく、わかっていた。このからだは、少女から女性になろうとしてる。

 去年の10月、俺が波南美になってからまだ生理はきていないので、おそらくこれから初潮を迎えることになるだろう。こんな体調が続いていることは、しっかりと養親に伝えてあり、通学バッグの中身に、青い水玉模様のポーチが仲間入りした。一応、使い方は教えてもらい予習しているし、今はネットという文明の利器へ簡単にアクセスできる。

 この子のからだは、これまでの仕打ちにも負けず、強かに、確実に成長しようとしている。不安が全くないといえば嘘になるが、俺は、静かにその時が来るのを待っていた。




 朝、予鈴の10分前に登校する。あまり早く来すぎてもすることがないし、これくらいがちょうどいい。今日もムシムシとした暑さと、好転しない体調を恨みながら、席替えのため窓際の一番前になった自分の席に向かう。歩きながら、すれ違うクラスメイトには朝の挨拶を交わす。挨拶を返してくれる子、返してくれない子、それぞれだが、別段気にならない。もはや男子の方が分け隔てなく接してくれているような状態だし、自分ほどではないが孤立している女子もいるにはいる。やっぱり、俺も不幸体質というか、そういうのが染み出しているんだろうか。


「うーすおはよー。池田さんもおはよ」

 俺はバッグを若干投げやりに机に下ろし、右隣の男子と、真後ろの女の子に挨拶した。この池田さんも所謂カースト低めな子で、なかなか苦労していそうな感じである。いつもハードカバーの本を読んでいて、いかにもな文学少女っぷりで好感が持てる。これでメガネだったら満点なのに。

 そんな彼女は、軽く紙面から顔を上げると、小さな声で挨拶を返した。体格の割にハスキーで低い声の自分と交換してほしい、そんな声をしている。

 カバンの中から必要なものを机の中にしまうと、横のフックに下げた。まだ少し時間もある。俺はカバンのポケットからボディーシートを取り出し、簡単に汗を拭き取ることにした。今日も気温はうなぎのぼりで、暑くてたまらない。

「おーいチビ美ー、それ没収されるやつじゃねーのー?」隣の男子くんが目ざとく指摘してきた。俺は彼にパッケージを見せながら言う。

「これ無香料だし問題ないと思うんだけどなー。それにエチケットの一つじゃない? 人が汗ダラダラ流してるの見るのいい気分じゃないっしょ」

「あー、それもそうかー。確かに俺も部活終わりとかめっちゃ汗ヤバイし臭いわ!」

「剣道の防具とかゲロヤバだよね」やっぱり、こういう会話ができるのは気楽でいい。良くも悪くもこの時期の男子と女子は別物感が強いから、あまり男子は女子の事情に関わりがないのだ。これが共学の高校になると男子もドロドロし始めたりする。とてもめんどくさい。


 笑いながら雑談していると、後ろの席の池田さんが、シャープペンシルの頭で俺の肩をつついてきた。

「ん?」

 ちいさな、遠慮がちな声音で周りを窺うように話しかけてきた。

「橘さん、それ、早めに、しまった方がいいと思う……。あと、具合大丈夫?」

「うーん、そうね。ありがと池田さん。具合はあんまりかな。あはは……」

 珍しいこともあるものだ。いつも、こちらから話しかけない限り何も喋ったり話したりしない子が、はじめて自分から声をかけてきた。

 それにこの子、俺が具合悪いこと気づいてたのか。確かに、ここ数日無意識にこめかみを揉んだり、お腹をさすっていたりと心当たりはある。元気百パーセントには見えなかっただろう。

「あっあの、私、保健委員だから、な、何かあったら言ってね」

「へー、そうなんだ、知らなかった」

 集団から少しくらい浮いていたって、こういった繋がりはどこにでもある。俺は中身がこれだから特に悲観していないが、純粋に同世代の子同士が無視されたり陰口をたたかれたりしたら、相応に辛い経験になるだろうなと実感した。もしかしたらこの子も、活字を追う裏で、何か思うところがあるのかもしれない。

「じゃあ、私になんかあったらよろしくね」

 俺は精一杯柔らかな表情と声でそう答えた。


(はぁーほんとこの5時間目って時間、罪だわ……)

 午後イチの授業が数学とは、また罪作りな時間割だ。軽く周囲を窺えば、船を漕いでいる生徒がいくらでも発見できる。それもしょうがない。この数学の先生は一定のペースで、淡々と授業を進行することに定評がある。食後のタイミングでは、上等な睡眠導入薬がわりだろう。俺自身は、今最高に具合が悪いため、睡魔の付け入る隙がないのが幸いしていた。

 正直、波南美になってからは勉強ぐらいしか取り柄がない。運動はからっきしだし、歌はまさかの音痴だった。声量はどんなに頑張っても一定以上出ないし、狙った音程にはまるで当たらない。まあ、音痴はトレーニングで治るからいいけれど。

 それに比べれば、勉強は全然問題ない。なにせ頭は成人男性だ。また、今こうやって授業を受けてみると、存外面白い。それぞれ先生のスタンスや熱意に左右されるが、どれも学ぶ楽しさを実感できる内容だった。この感覚を、現役中高生の時に身に付けたかったものだ……。


(うぅ……腹いてえ……。この先生冷房苦手だからすぐ設定温度上げるんだよなぁ)


 ずっと、シクシクとした痛みが続いている。それも明らかに今朝より悪化しているようだ。弱まった冷房のため、あっという間に室温が上昇して不快だ。痛みに耐えているせいか、それとも気温のせいか、じわじわと脂汗が止まらない。せめてもの慰めになればと思い、左の手のひらを下腹部に当てているが、少しも楽にならない。


 また、汗で紙が腕に張り付く。こんなしょうもないことに、どうしようもない苛立ちを感じるなんて。

 俺は気を持ち直し、ポケットから取り出したハンカチを腕の下に敷いた。木綿の乾いた肌触りが心地いい。ノートにさえ気をつければ、変な汚れ方もしないだろう。


 しかしながら、まるで蒸し暑い霧雨の中にいるような不快感だ。夏服のセーラー服がペタペタくっついてくるし、スカートも思ったより涼しくない。生地のせいなのか、特に蒸されるような感じがある。座っている感覚すら気持ち悪い。

 ——こんなに夏の教室って辛かったっけ。考えてみれば、いくら子供とはいえ、人間が30人以上押し込まれている閉鎖空間だ。空調は全てエアコンで賄っているため、空気の流れも乏しいのか全体が淀んでいるようにも感じる。

 しかもこの席! 午後になって差し込み始めた陽の光が、薄いカーテンをガンガンに貫通してくる。体の左側からの熱もあってか、いよいよ具合が悪い……。


「それじゃあ、橘さんの一列、1番から順番に黒板へ回答してください」

「うぇーマジかよー」


 自分の名前を呼ぶ先生と、不運な生徒の落胆の声に気がつきはっと前を向くと、どうやら計算問題を回答しなければならないらしい。内容は簡単だ。すぐにわかった。トップバッターで出て行くと、無駄に目立ちそうなので、適当に回答を考えるフリをする。

 ちょっとすると、後ろから席を立つ音が聞こえてきた。これに続いて前に出れば問題ないだろう。二人ほど横を通り過ぎたのを確認し、俺も椅子を引いて立ち上がった時だった。


「わっ、た、橘さん!」

 小さな悲鳴と共に、真後ろの池田さんが俺の名前を呼んだ。今日はなんだかよく関わるなあ。彼女は慌てた様子で俺の横に立つと、耳元で囁いた。

「お、お尻のところ、血で汚れちゃってる……」

「へ?」

 その言葉に促され、とっさに右手を回して確認してみた。

 スカートの生地が、一部じっとりと濡れている。

「うわっ」

 慌てて手を引っ込めると、指先には赤い血が付いている。

「ヤバッ」

 ぐるりと振り返り、自分の席を見やれば、木製の座面にはそれなりの量の経血が付着していた。

 やってしまった。全部汗の不快感だと勘違いしていたようだ。まさか、こんなタイミングでその時が訪れるとは思わなかった……。


 ふと、教室中の視線が俺に集中していることに気づいた。特に、席が近い何人かは何が起きているかわかっただろう。隣の彼も、ダイレクトに椅子の赤をみて表情を凍らせている。何か、とんでもないことをやらかしてしまったような気分に、胸がザワザワし、耳が熱くなる。頭が、混乱して喉が乾くが、唾もうまく飲み込めない。


 いつのまにか、池田さんがティッシュで椅子を拭いている。それを見て、ようやく俺の意識も元に戻った。急いで処理を手伝う。

「あっ、わ、私がやるよ……ごめんね、汚いよね……」

「大丈夫。橘さん、アレは持ってる? こ、このあと、保健室いこうね」

 こんな、ずっと年下の女の子に気を使わせてしまった申し訳なさに、消えてしまいたくる。俺は、バッグから水玉のポーチを取り出して頷いた。



「橘さん、大丈夫……?」

 保健室、ベッドを囲うカーテンの向こうから、保健委員として付いてきてくれた池田さんの声がする。まるで、自分のことのように心配してくれているような声色だ。着替えと、諸々の処理を終えた俺は、カーテンをおずおずと開けた。

「あー、池田さん。ほんとうにありがとう。めっちゃ突然だったからパニクっちゃってさぁ……」

「だ、大丈夫だよ。失敗は、みんなあるもの……」

 こうやって立って並ぶと、やっぱり池田さんの方が幾分身長が高い。彼女の落ち着いた雰囲気もあわさり、なんだか、年上のお姉さんに慰められているような気持ちになる……。そんな経験ないけど。

「あはは、実は私、これが初めてなんだよねぇ。全然わかんなかったわー」

 なんとか明るく振る舞う。

「あっ、そうだったんだ……。災難だったね」

「いやはや、これから毎月か……。ん、私はもう大丈夫だから、教室戻ってていいよ。私ちょーっと具合悪いから少し休憩してくよ」

 俺はそういうと、養護教諭の先生へ向かって、「いいですよね、先生」と訊いた。先生が優しく頷くと、池田さんも人心地ついたようで、お大事にね、といい教室へ戻っていった。


 学校指定のジャージ姿でベッドに腰掛けると、下着の違和感がさらに主張を強めた。念のため持ってきていた生理用ショーツにナプキンの組み合わせは、初めての感覚だった。なんとも言えない、しっくりこないような異物感だろうか。

 妙に現実感がない。覚悟はしていたはずなのに、予想以上にショックを受けている自分がいる。下着どころか、スカートまで汚してしまった罪悪感に、クラスからの視線。自分の血液のコントラスト。


 自分がなって初めて理解した。これはとてもナーバスな現象なんだ。

 以前の俺は、特に否定的な感情は持っていなかった。そもそもの性差だから、しょうがないことだと思っていた。精神論や根性論で解決できるものじゃないと理解していたが、どうやらそれも独善的なポーズのひとつに過ぎなかったのかもしれない。生物としての構造や、生殖のためのシステムだという見方はあまりに一方的だった。

 世の中の女性のほとんどは、こんなことを経験しているのか。ある種、自分のあり方を揺さぶるような、決定的な瞬間を。


 両手を重ねた下腹部の奥、シクシクとした痛みは未だ続いている。2、3日目が辛いという遥の言葉を思い出すと、軽いめまいがした。


 波南美のからだが、しっかりと女性になっていくことに対する安堵や喜びと、永瀬康平としての俺が、随分と遠くに行ってしまったような寂寥感が頭の中で渦巻いている。


 俺は、いったい何者なんだろう……。

 カーテンに囲まれたベッドの上、くちびるだけで独り言ちた。

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