かみさまだけが嘘をつく
花冷えの朝。いまいち気分が晴れないのは、重く垂れ込んだ曇天のせいだろうか。俺は厚手のカーディガンの襟を気持ち寄せ集め、冷たい風に負けないように通学路を歩く。残念ながら、一緒に登校できる友人はいない。……友達がいないわけでは無い。単純に同じ通学路にいないだけだ。虚しさを誤魔化すため、視線は自然と足元に向かう。
綺麗に磨き直した黒いローファーが、右、左とリズミカルに現れる。昨日の晩、丁寧にオイルを塗ったのだ。使い込んだ革特有の、鈍い輝きがうれしい。楽しげに革靴を磨く女子中学生はなかなかいないだろうなと、昨晩の自分の姿を想像し無理に気持ちを紛らわそうとするが、どうにもうまくいかない。
それもこれも、三年生に進級しても彩と別のクラスになってしまったからだ。
クラス分けの掲示を見た瞬間、頭の中が真っ白になり、行き場のない怒りが込み上げてきて叫びそうになった。そんな激情も押さえ込み、慎まやかな舌打ち程度で済ませた自分を褒めてあげたい。
——届かなくとも側にいたい俺の気持ちも知らず、クラス分けを行った教員の無能さと己の引きの悪さを呪うばかりだった。いまだに気まずさは残っているが、せめて同じクラスなら少しは彼女のことを守ってあげられるのに。
ただ、彼女の境遇は単純なものではなかった。漫画のようにいかにもな首謀者はいなく、クラス全体の空気がそうさせていたようだった。主犯格も二つ程度のグループに分かれてるそうで、明確にコイツが仇だと確定することができなかった。そんなこともあり、担任の先生も最後まで実態に気づくことがなかったらしい。クソだな。
一応、佐々木先生に相談したことがきっかけで、全クラスへのアンケート調査があったが子供騙しすぎる。彩にひどいことをしている連中が、そんなものに真摯に答えるはずがない。ああいう奴らは、常に自分達を暴力や不幸の外にいると思っている。
いつもそうだ。
一丁前に悲劇で涙するような、普通の奴らが弱者を追い込む。自分がその対象にならないための保身だと自覚しているならまだマシだ。ほとんどが、『イジリ』だとか『絡み』なんて不愉快な言葉を隠れ蓑にする。
彩をあそこまで追い込んだのは、クラスという小さな社会そのものだった。ありふれた、よくある不幸の一つだった。
そんなことを考え込んでいるうちに、学校へ到着した。不愉快さを隠そうとせず、口をへの字にして下駄箱から上履きを引っ張り出した時、不意に脇腹をつつかれた。
「おっはよ」
「うゃんっ」
完全に自分の中に閉じこもった状態での不意打ちだったため、謎の反応が口をつく。飛び上がった勢いで振り返れば、ちょっかいの主は再び同じクラスになった千葉ちゃんだった。
「なんだ、ちばっちか……。おはよ」
俺は精一杯呆れ顔を作って彼女を見上げるが、当の本人は随分とご機嫌そうだ。寒さも吹き飛ばせそうな笑顔が炸裂している。
「むふー。今日もちっちゃくてかわいいねえ」
悲しいことに、今年の身体測定にて俺の成長がストップしたことが判明した。それ以来、定期的に彼女はこうやって俺をからかうようになってしまったのだ。
「そうでしょう可愛いでしょう」
腰に両手を当て、踏ん反り返って肯定した。なんども繰り返しているやりとりなので、ある程度こうして受け流すことにしている。彼女もこの反応は満更でもないようで、その笑顔を崩すことはない。むしろご満悦といった顔で、俺の両頬をもちもちしながら続ける。
「将来は合法ロリ目指すんですよね」
「おいやめろ」
「最近はおねロリが熱い……!」
ちょっとやめて何その無駄に鋭い目は。それとほっぺたがっしりホールドするのやだよ怖い。変態の餌食になるのは懲り懲りだ、ぞっとしない想像は今すぐやめてくれ。そもそも君はすぐに薄い本的なことを考える癖を改めたほうがいい。
なんとか拘束から逃れた俺は、半歩下がって言い返す。
「だいたいちばっちは身長伸びすぎ。高校はバレーかバスケでもやったら?」
「いやだー身長のせいで勝手に運動できるやつとか思われたくねいー」
ミニマムな俺に対して、彼女はモリモリ身長が伸びている。なお、ドがつくレベルの運動音痴なので、彼女にその恩恵は一切ない。逆に、靴や洋服の選択肢がなくなると泣き言を漏らしていた。これで仕返し完了である。
「お互い足して割ったらちょうどいいんだけどねー」
「ねー」
結局、隣の芝は青いのだ。
****
特に意識もしないうちに、校庭の桜が全て散った。もういくつ寝ると春の大型連休である。それなのに、女の子の日が丸かぶりしそうなのだ。自分の体のことながら、少しはタイミングを考えて欲しい。今はまだ特に予兆はないが、バッチリ周期とかぶっている。うおー殺せー、これじゃゴールデン血まみれウィークだよ。自分で言っておいてなんだけど、意味わかんない。
(なーんでこんなタイミングなのさ、もーやだやだやだ……)
いやだなあ。せっかくの連休が控えているのに、棒に振るようなことになってしまうかもしれない。なんとか休みの間に、彩との関係を修復するんだと意気込んでいたのだが、一体どうしようか。都合よく遅れたりしないだろうか。ほら、若いうちは周期が安定しないとかいうじゃん。中学生でも婦人科行けばピル処方してもらえるのかな。今度調べてみよう……。
とにかく、これじゃまともに予定も組めない。しょうがない、ここは初日にガツンとスケジュールを押さえるしかないな。ということで早く終業のSHR終われ。今年の担任の先生話長くてキレそう。……別に女の子の日が近くてムカついてるわけじゃないぞ。みんなそう思ってる。
それに、さっきから廊下がガヤガヤうるさいので、他のクラスはとっくに解散している模様。クソじゃん。彩ちゃん出待ちできないじゃん。お前マジで覚えてろよ。さっき決めた覚悟が揺らぎそうなんだから、ここは勢いで行かせてよ。変に緊張してお腹がキリキリする。やきもきが止まらない……。
結局、ダッシュで彩のクラスへ向かったが、時既に遅し。教室に残っていた子に彼女のことを訊けば、なんとも言えない笑顔で「もう帰ったよ?」と言われた。本当に嫌な空気だ。どこにでもいそうな子があんな含みのある
**
(ゴールデンウィーク、一日め、空いてる?)
所変わって美術室、俺はスマホとにらめっこを続けていた。メッセージアプリが開かれた画面には、簡単な挨拶とお誘いの文章。メッセージ履歴は、あの日から止まっている。
送信ボタンをタップすれば、この沈黙を破ってしまう。あんなことをしでかしたのだ。もしかしたら、アプリの機能でブロックされているかもしれない。
さっきまでの威勢の良さはどこに行ったのか、親指が端末の上をウロウロし続けている。頭の中をいろんなパターンが駆け巡って、躊躇してしまう。
「あぁぁあんどうしよぅっ!」
「うっるさいな!」
我慢できずに叫ぶと、全部言い切る前に佳奈に頭を
「いったぁぁあい!」
音量と動きの派手さの割に後を引かない痛みが彼女の技量を物語っている。いつのまにこんなテクニックを身につけたのか。ほら、新入生の子達も笑ってるよ。みてみて、俺の死を無駄にしないで。
「波南美あんたスマホばっか触ってんな! 真面目にやれ!」
ド正論である。しかし、この美術部先生がアレなので、結構自由にスマホが使える。例えばスマホで撮った写真を元に絵を描く人もいるので、度を越さなければ怒られたりしない。……流石に今くらいガッツリ触っているとマズイかもしれないが、基本的に先生は準備室に籠りっぱなしなのであまり問題ないだろう。
「ほんと冬の頃は可愛げあったのに、どうしてこんな……」
「今も私は可愛いよホラホラ」
「輪をかけて面倒臭い……」
「ワオ」
ツッコミがいるところで巫山戯るのはマナーだよね。でも、今日はこれくらいで勘弁してやろう。今はこんなことでじゃれあっている場合じゃない。大事なのは、この、メッセージ……。
あらあら? 送信されてる……。
やだわぁ。私ボタン押しちゃってた? さっき頭叩かれた瞬間に?
「あわ、あわわわわ。まだ覚悟が……」
「なんだかよくわからないけどいい気味よ」
なあにそのすげえいい笑顔。いいよ俺の負けだよ。でももう今日は何もできなさそう。
「はふぇえ」
全身から力が抜けた俺は、絵の具やら何やらが染み込みまくった作業台に突っ伏した。顔を覆うように組んだ腕の間から、作業台の匂いが上がってくる。あー、美術室の匂い。
というか、メッセージを送った今、返事に怯える立場になった。返事が来ても来なくても地獄。むしろ既読だけ付いて返事がなかったら心が死にかねない。こんなことになるなら、直接対面して話をした方がマシだった。
「うぅぅぅううんんふぇええんんんぁああ」
「か、佳奈先輩……波南美先輩からヤバめな音してますけど……」
「ほっとけほっとけ」
**
スマホの画面に表示された、簡潔なメッセージが脳裏にこびりついている。
『ごめんなさい。全部予定入ってる』
他人行儀でよそよそしい、シンプルな文言。気恥ずかしさを紛らわす為に、スタンプまで送った自分が滑稽に感じる。もう、生きていける気がしない……。
はえーすっごい虚無。こんなの歩いてるなんて言えない、倒れてないだけよ。早くお家帰ってふて寝したい。ほとんど無意識のまま歩みを進める俺を、昴が無遠慮に覗き込んできた。
あの日以来、彼と家路を共にすることが増えた。フラれてもなお俺に好意を向けてくる君と一緒にいるのは申し訳ないと伝えたが、「気にしないでください!」と元気よく一蹴してきたのでしょうがない。
「波南美パイセン……目が死んでる……」
「終わった……。波南美パイセンの次回作にご期待ください……」
ふざけてないと泣きそうなんだけど。クソイケメンめ、こいつわかってやってるのか? わざわざ絡んでくるってことは、八つ当たりしていいってことだよな。
「しねクソ昴しね。バーカバーカ」
これっぽっちも力の込もっていないパンチと蹴りを繰り出す。
「なんすかその語彙力ウケる」
ウケるじゃねえよ人工金髪ロリコン野郎。まあ俺の方が身体も中身も年上だけどさぁ。というかなんでわざわざ髪染めてんだよ、お前ハーフだからって許されると思ってんのか。何故か許されてんだよなあ! 不思議!
頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。本当に、情けなくて惨めになる。威勢のいいことばかり考えてるくせに、何も行動に移せないなんて、臆病者もいいところだ。今日だって、彩のクラスの雰囲気に気圧されてさ。直接顔を合わせなかったことにどこか安心までしていた。自己嫌悪で死にたくなる。
「波南美先輩、ゴールデンウィークの初日って暇っすか?」
昴の声で我に返った。声の主を見上げれば、期待に満ちた瞳と視線が合う。
ゴールデンウィークか。タイムリーなことに、ついさっき彩にフラれたばかりだ。
「……うん。空いてるよ」
極上の笑顔が花開く。
気がつけば、笑顔が似合う人たちに囲まれているなと思った。
「それじゃ、デートしましょ!」
「デートね……。気晴らしには丁度いいか」
臆面もなくそんなことを言える根性が俺にもあればと思う。正直に言えば、彼が疎ましくも羨ましい。
「やったぜウッホイ」
「きみそんなキャラだっけ」
一番笑顔でいて欲しい人だけが、笑顔じゃない。結局、それは自分の力が足りないからなんだろうか。暖かな春の夕日が、少しだけ滲んで見えた。
****
どこか空気自体が浮ついたようにも感じるのは、今日が連休初日だからだろう。眩しいくらいに青空は澄み渡り、初夏の雰囲気すら感じられる。そんな街中至る所に商魂逞しいフレーズがわさわさと掲げられ、すれ違う人々も晴れやかで活力に満ち溢れていた。
ちなみに俺の体は微妙に空気を読んでくれたようだ。いつ始まってもおかしくはないが、ギリギリ持っている。腹痛も鎮痛剤で忘れられる程度だ、一日ぶらつくくらいなら差し支えないだろう。
そんな不本意ながらの昴との外出だが、存外に楽しんでいた。絶賛成長期の彼は、去年買った服がもうキツキツらしい。今は古着にハマりつつあるとのことで、買うかどうかは別として古着屋を何軒かハシゴしていた。
ただ、どうにも彼のセンスは明後日の方向に向かいがちらしい。彼が自信満々で試着室から出てくる度に、ああでもないこうでもないと方向性を修正してく流れが続いた。これ、なんか男女逆じゃない? そうでもないのかね。
「とか言いつつ先輩もしっかり買ってるじゃないっすか」
「うへへ。たまに古着見ると掘り出し物感あってつい」
先ほど訪れたお店の方向性だったのだろうか、ヴィンテージ感のあるアイテムが揃っていて、つい自分も夢中で物色してしまった。左手に下げた紙袋の中には、戦利品である60'sテイストなドット柄のスカートが入っている。
「先輩て、めっちゃ柄物好きっすよね」
「うんー、好き。オールドアメリカンな感じが可愛いよねえ。ベティちゃんみたいで」
あくまでイメージだけどね。
ちなみにアイアンメイデンのシャツも悪ノリで買ってしまったのだが、どうしよう。洗濯物に混ぜたらお
想像してみる。洗濯カゴから覗くエディ。物干し竿からハンガーで吊られ、風にはためくエディ。部屋のクローゼットの中、ラベンダーのサシェと一緒に仕舞われるエディ……。
「んひひひ」
「一人で笑い出すのキモいっすね」
うーん、夏になったらキュロットと合わせてみよう。そろそろメイクも解禁してくれないかな。ちょっとこのシャツはスッピンじゃきついよ。実家に置いていったTシャツ着てるオカンじゃあるまいし。
……そっか。俺、死んじゃったからそういうイベント経験できないのか。うわ、ちょっと切ない。付き合いで買ったギャルソンのシャツ、確か実家にあるはず。学生にはいいお値段だったから、大事に着てて欲しい。なんかセンチメンタル。
「——ちゃん、波南美ちゃーん、おーい生きてる?」
ふと気がつけば、屈み込んだ昴が目の前で手をひらひらと振っていた。パーソナルスペースの狭さに面食らい、顔が熱くなる。
「てめえ先輩のことちゃん付けで呼ぶな!」
死ぬほど顔は良いんだから、そんな事されたらめっちゃビビるだろ。弁えろ。
「相手がいるのに自分の世界に引きこもる方がヤバくない?」
「昴のくせに正論言いやがって! ごめんね!」
「ハイハイごめんねできて偉いねー」
こいつ佳奈流のあしらい方学習してんな。このやろぉ、まずは俺の頭を撫でるその手をどうにかしてやる。
「二度と筆が持てないカラダにしてやらァ!」
「ハイハイ波南美ちゃん言葉遣い直しまちょうねえ」
こいつめっちゃ調子乗ってる! 私これでも先輩だからね、めっちゃムカつく!
「パンケーキ」
「ん?」
「あれ、パンケーキ食べたい」
「たまには定番もいいっすね!」
くそう。もう雑誌とかモデルとか、なんかのスカウトがきても庇ってやんない。ショタコンおじさんでもお姉さんでも、餌食になればいいんだ。むしろこっちから売り払ってやる。こいつは高値で売れるぜぇ、ウハウハだぁ。……スッゲェ虚しい。
「ぅわはー! 見て昴、ぷるんぷるん! なんで!?」
「お子ちゃまかな?」
……あまり食べ物に興味が向かなかったんだからしょうがないでしょ。まだ中学生だし? こういう贅沢はたまにしかできないわけだし? こんなのがブームも過ぎて最早定着しつつあるなんて知らなくてもしょうがないよね。
目の前のパンケーキに舌鼓を打っていると、何やら生暖かい視線に気が付いた。
「なに、私の顔そんなに珍しい?」
「やっぱり、先輩は笑顔の方が良いっすね」
「そりゃどうも。きみも自分の分食べたら? 美味しいよ?」
私はお皿に散らばるベリー類を集めて、なんとかケーキと一緒に食べられないか模索する。コロコロ動きやがって。堪忍しろ。おいしくいただいてやるから。
「先輩って、女の子が好きなんです?」
「は?」
フォークから、ブルーベリーが一つ転がり落ちた。
「いや……、なに言ってんの。わ、私はストレートだよ」
「そうっすよね? そうですよね!? ただの噂ですよね!」
嘘でしょ……。そんな、噂になるようなことって……。彩との事しか思い浮かばない。このことを知っているのは、本人と半ば勘付いている佳奈だけ。思わず、コップのお冷で唇を湿らせた。
「ねぇ、それって、誰から聞いたの?」
「うーん、割と、いろんなところから」
微妙に嫌な内容の噂話だった。部活やら下校時やら、昴と二人でいることも多いのに一切靡かないスタンスから、男性に興味がないのだとか、同級生に付き合っている女の子がいるのだとか。タチが悪いものには、バイセクシャルでどっちもイケて、昴のことはキープとして焦らし続けているなんて噂もあるらしい。これじゃとんだ悪女じゃないか。酷くない?
「えーやだやだやだ。何その根も葉もない噂。本気になんかしないでよ?」
「いやあ、でも先輩あんまり自分の話ししないじゃないっすかぁ」
まあ、確かに。変なところでボロが出ても困るのは自分だ。あまりプライベートなことは話さないよう学習していた。
「もし先輩が女の子好きだったら、さすがの僕でも敵わないっすからね」
「えっなにその自信。えっもしかしてもう童貞捨てた?」
「ふぁっ、いやっ、ど、どどど、っそれは関係ないじゃないっすか!」
「ウケるー」
ふと、中学一年生で脱童貞した前世の同級生、小林くんを思い出した。あれに比べれば昴の方が一億倍可愛い。そしてなぜか童貞で安心した。
**
「いやあ、マジで今日めっちゃ楽しかったっす」
帰りの駅の構内、憎たらしいくらい良い笑顔で昴は言う。こいついっつもニコニコしてんな。
「ん。そこそこだったかな」
「ゆーて? からの?」
「うざい……微妙に古い……」
なんだかんだ、一日中こいつと一緒にいた。いやあ、こんなに長丁場な町歩きは初めてだ。今更後悔しても遅いが、ストラップシューズなんてやめてスニーカーにすればよかった。おかげさまで足が棒。今ならこれで昴のこと撲殺できそう。
でもまあ、この疲労感も悪い気はしない。もしかしたら、運動不足もあったのかもしれないし。気がつけば、もやもやとした気持ちも晴れてきていた。
二人してふざけあって、くだらないやり取りをして。こんな能天気なニヤケ面と一緒だったのだ、少しは影響があるかもしれない。どうだろう、自然に笑えてるかな。これでも、大分マシに笑えるようになったと思うんだけど。俺は背筋を伸ばしながら自嘲する。ちょっと前はアホみたいに沈んでたしな。
往路より膨らんだショルダーバッグのせいか、肩が凝っていた。解すように腕を回してみれば、オッサンのような音は鳴らないものの、むず痒い痛みが走る。結構疲れたなあ。
帰りの方面に続く駅のホームに降りれば、雑踏のような混雑具合に飲み込まれる。そりゃ、連休だもんね、どこも混雑しっぱなしだった。電車を待つ人々の表情を見てみれば、それぞれ充実感や疲労感を惜しげも無く浮かべている。スーツを着ている人はお仕事だったのだろう。これはまた別の感情が滲み出ている。ご苦労様です……。この世界は今日も誰かのお仕事で動いております。南無南無。
ふと、前を行く昴が柱の影で立ち止まった。ちょうど人の往来から外れ、ぽっかりとスペースが空いている。
「ん、どしたの?」
人混みを抜け出して、彼の前に立って様子を窺う。何やら、真剣な——以前も見たことのある——顔つきをしていた。
「先輩、僕のことどう思ってます?」
「……またそれ? 往生際悪いなあ。きみはいつまでもいい後輩だよ」
なんだこいつ、またぶり返すのか。
そう思った途端、右手を昴に掴まれた。俺の手を簡単に覆ってしまう拳。
「でも、波南美ちゃんストレートなんでしょ?」
「はぁ?」
再びちゃん付けで呼ばれたことに非難を込めた目で見上げれば、いつも通りの微笑みを湛えた昴と目が合う。しかし、その目は仄暗く何も読み取れない。それに、掴まれた手から伝わる体温が、気持ち悪い。嫌だ。こいつの真意がわからない。
とてつもなく居心地の悪い一瞬が、途方もなく引き伸ばされたように感じ、チラリと壁の方へ視線を外したときだった。
迫る昴の透明な緑。
それとの距離が狭まり、ゼロになる。
「……っんむ!?」
無言のキスだった。
唇に体温と湿り気を感じた刹那、総毛立った。
今日一日の出来事から、全ての色が奪われていく。いや、今日だけじゃない。一年間、共に過ごした記憶が、音を立てて壊れていく。よく懐いてくれた、自分には勿体無いくらいの後輩が。出会ってさほど時間が経たないうちに告白された事件もあったが、それ以降も仲良くしていた後輩が。私が精神的に参っていた時、自分をさらけ出して、間接的に励ましてくれた後輩が。全部嘘偽りのものに塗り替えられていく。
——嫌だ気持ち悪い信じられない!!
左手の紙袋。それごと昴の頬を殴っていた。手のひらじゃなくて、握りこぶしだったのは、私の中の何かがそうさせたのだろうか。
掴まれていた右手は自由になっている。
もつれる、もう少しで家路につくと油断しかけた両足に鞭打って逃げ出した。あっという間に涙は溢れ出して、視界は覚束ない。
「うわっ、危な!?」
スペースの限られた駅のホーム、電車を待つ人々の間を遮二無二駆け抜ければ、ぶつかることだってある。そこかしこから、私に非難の声が上がる。
でも、もう止まれない。構内に繋がる階段を駆け上がる。
少しの息もできなかった。呼吸をしてしまえば、全てが動き出してしまう気がした。
しかし、それは叶わない。千切れそうなほどに心臓は脈打って、肺が酸素を求める。
気がつけば、涙と洟水でぐしゃぐしゃな私は、駅のトイレに逃げ込んでいた。
もう、隠すこともできない嗚咽を垂れ流しながら、痛みに耐える。
なんの、痛みだろう。
優しくされていることに胡座をかいて、彼の姿をしっかり見ようとしなかった。その、罰だろうか。
痛い。頭は真っ白なのに、どこかしこも痛かった。
「っうぐ……うぅううう……っはぁあっ」
もう、どうやってあの美術室に戻ればいいんだろう。
こんなことになるなら、もっと、佳奈の言うことを聞いていればよかった。ちゃんと、他の後輩達にも目を向けていればよかった。
私、どうしたらいいの。
浅い呼吸を続けたせいか喉が引き攣るが、更に酸素を求め自然と、祈るように天井を仰ぎ見る。
ゴツンと、偽物の石材が貼られた壁に頭をぶつけた。痛い。
勝手に溢れて止まらない涙のせいで、照明の輪郭が姿を変え続ける。
肌色の光が、ぼやけて、分裂して、交わって。
そんなことだけを覚えていた。
あの、甘い匂いに包まれて眠りたい。
彩に会いたい。
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