かげおくりの途中
這々の体で家にたどり着いた頃には、もうすっかり日が落ちていた。
特に連絡もなく予定帰宅時間をすぎた私は、安堵の表情を浮かべた養親にひどく叱られた。多分、たくさん心配をかけただろう。血の繋がりはないが、数年間一つ屋根の下で暮らした娘が門限を破ったのだ。気が気でなかっただろう。悪いことをしたと思う。
結局私は、翌日から生理が始まったこともあり、連休のほとんどを家で過ごした。惰性で通い続けていた図書館で借りてきていた本を、読むわけでもなく開いては閉じを繰り返す。心と、お腹の痛みが過ぎ去るのを、ただただ進みの遅い秒針を恨んだ。
自分でも信じられないほどの力で殴りつけた左手には、その事実が打撲のような痛みと赤い腫れとして残っている。あの紙袋は、どこかのタイミングで紛失していた。赤い水玉のスカート。トルーパーのジャケットがプリントされたTシャツ。どれもまるで遠い日の記憶のようだと、一人布団の中で笑った。
****
カーテンから漏れる光が鬱陶しくて目が覚めた。また目が覚めてしまったことに失望して、両手で髪を搔き上げる。ひどい寝癖だ。とにかく全てが億劫になって、生乾きのまま寝たせいだろう。
枕元のスマートフォンの電源は落としているので、寝返りを打ち部屋の時計を確認する。朝というにはすこし遅い時間。勉強机に置いたシンプルなデジタル時計のカレンダー機能が、連休最終日だということを告げている。
その時計の脇には、何冊かの本。図書館で借りてきた本が、いくらも読まないまま積んである。確か、今日が返却期限のはずだ。しかし気分が重い。
お
いや、どうせ「いい天気なのだから散歩も兼ねて自分で行ってらっしゃい」なんて言われるのが関の山だろう。わかっているが、全てが面倒だ。
服を着替えるのも、髪を梳かすのも、身だしなみを整えるのも、食事を取るのも。
清潔な日差しが、そんな自分を責めているようにも感じた。
「……はぁ」
小さな溜息を吐いて、俺はベッドから上半身を起こした。空腹は感じないが、体の中に何も入っていない感覚がする。しかし、深い悲しみのような、青色の気持ちだけが喉元まで満ちていて、何も口にできそうにない。
スン、と鼻から息を吸い込むと、締め切った部屋の匂い。男子大学生が同じように閉じこもっていれば、なんとも言えない男臭さみたいなものが充満したが、さすが現役女子中学生。悪い匂いはしない。そんなことを考えられる余裕はあるみたいだ。少しカサついた唇を、ぎこちなく釣り上げて笑うふりをする。
もうあれも終わりかけだし、少しは動いた方がいいだろう。諦観のような心持ちで、布団から抜け出す。掛け布団を畳んで整えると、ドアの横、姿見の前に立った。
爆発した寝癖に、わかりやすく
「俺って、どんな顔してたっけ……」
鏡の中の小柄な少女が独り言ちた。
それは、どうしようもなく自分自身の姿だった。もう、以前の身体の大きさや力強さは思い出せない。己の腕で肩を抱けば、柔らかな感触と、ぼんやりとした体温を感じる。鏡の中の少女の瞳が揺れる。これが、今の私なのだと、思い知った。
**
いつもなら、バスを利用して図書館へ向かうが、今日はゆっくりと徒歩で行くことにした。漠然と、図書館を利用することも減っていく、そんな気がした。
スキニージーンズにスニーカー、カットソーにキャスケット帽。これまでになく地味な服で行く。今は、とてもじゃないが着飾る気にはなれない。叶うのならば、透明な空気になりたいとすら思った。そんな、どこにでも馴染むような格好で、図書館までの道のりをとぼとぼと一人歩く。通行人とすれ違う時は、できるだけ小さく身を縮めて、存在を感じさせないようにする。そのせいで悪目立ちしているかもしれないが、胸を張って往来を行くことはできなかった。
交差点にて顔をあげれば、春の日差しで輝く景色に、心地よい風が通りを吹き抜けていった。街路樹の梢を揺らす優しい温度が、ささくれ立った心を撫で付けてくれるように感じるものの、すぐに思い直す。今の私には、相応しくないと。あまりにも完璧すぎる快晴に、引け目すら覚え、また足元を見る。小さなレディースのスニーカーが、規則正しく前後していた。
二十分ほど歩いて、図書館へと繋がる遊歩道に出た。レンガの植え込みや、タイルの敷き詰められた歩道が整備されている、地域住民へ開かれた空間だ。街路樹のトンネルの下、スポーツウェアで装備を固めた男女が爽やかな汗を流している。うあ、眩しすぎて辛い……。
無性に居心地が悪くなり、帽子を深く被り直せば、両肩が荷物の重さによって痛みを主張しはじめた。オフホワイトのキャンバス地のリュックには、ほぼ目を通すことのなかった本が詰まっている。おそらく、この本を全て返却したとしても、肩にのしかかった重さは消えないだろう。しっかりと、その重みは身体の中に染み込んでいる。
死ぬほどマイナス思考ばかり。それもまた嫌になる。
一人勝手に、苦虫を噛み潰したような面持ちで遊歩道を進めば、その先に図書館が見えてきた。眩しい陽光の下、ガラス張りのエントランスが自慢げに輝いている。
二年前、茹だるほどの猛暑の中、玉の汗を流しながら待ち合わせた彩がフラッシュバックして、胸がちくりと苦しくなった。
どこでどうすれば、今も彼女と一緒にいられたんだろうか。もうまともに考えることもできない。ただただ悲しみだけが頭を埋め尽くしていた。
「すみません、返却お願いします」
カウンターへ直行し、リュックの中身を取り出しながら申し出る。にこりと微笑みながら本を受け取るお姉さんは、名前こそ知らないが顔見知りだ。すぐに向こうも私だと気が付いて、朗らかに返却の処理を済ませて行く。
「今日、いつもの子きてるよ」
ここ数ヶ月、二人揃ってここに来ていないことも、彼女はもちろん知っている。だから、耳打ちをしてくれたんだろう。彼女の微笑みには、「仲直りのチャンス!」といったメッセージが含まれているようだった。
「……えっ、あ、ほんとですか」
この連休中ほとんど言葉を発していない口から、かろうじて返事をすると、思わず周りを見渡してしまった。規則正しく並ぶ本棚の間を、何人もの人が静かに行き交っている。なんとなく、この中を探し回るのは違う気がした。
「あ、あの、ありがとうございます。それでは」
逃げるように礼を述べると、そのまま踵を返しエントランスへ向かった。この図書館の入り口は一箇所だけだから、そこで待っていればすれ違うこともないだろう。
握りしめた手のひらに、冷たい汗が滲んだ。
どうしよう。ここで呼び止めたとして、どんな話をすればいいんだろう。
もしかして、あの日、私はこの前の昴のようなことを彩にしてしまったんじゃないか。そしたら、本当は顔すら見たくないのでは?
——怖くて泣きそうになる。
思考が嫌な方向へ転がりだして、コントロールできなくなる。もう、本は返したし、帰ればいいんじゃないか。そう思った時だった。
ずっと会いたいと願っていた、彩の姿が見えた。
「あ、彩……」
この両足は、随分と考え無しのようだ。少しの抵抗もなく椅子から立ち上がり、彼女の名前を呼んでいた。
「……な、波南美、ちゃん」
彼女は、とても疲れた顔をしていた。
透き通って見えた白い肌は、透明感だけがなくなって、憔悴しきっているようだ。きっと、あの時からずっと、全部抱え込んでるに違いない。
情けなくて、申し訳なくて、頭を下げて謝る事しかできなかった。コントロールの効かない涙腺は、早くも涙を目頭に送り始めている。
「あや、ごめんなさい……。ずっと、謝りたくて——」
本当に自分が情けなくて仕方がなかった。彩は、公衆の面前で泣き崩れそうになる私の肩を支えて、一緒に図書館から連れ出してくれた。もう、事あるごとに泣いてばかりいる気がする。泣くことも体力を使うから、なるべく我慢したいのだけれど。これじゃ、どっちが悪者かわからない。悪いのは全部私なのに。
「……ごめんね、私ばっかり泣いてて。ほんとかっこわるいね、私」
図書館から離れる方へ、遊歩道をゆっくりと歩く。ポケットティッシュを丸ごと一つ空にした頃、ようやく涙が引いてきた。残りの涙をハンカチで拭うと、改めて彩と顔を合わせる。
ずっと隣で、私の言い訳を聞かされ続けていた彼女の表情は読めなかった。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。涙のせいで熱がこもった頭から、すーっと血の気が引く。
「な、波南美ちゃん。な、なんの用? わざわざ、待ち伏せ?」
あ、もう、おしまいだ。喉に酸っぱいものがこみ上げる。
きっと、彼女は少しも私のことを許してなんかいないんだ。
「な、何もないなら、私、帰るから……」
「待って!」
私もなんて往生際が悪いんだろう。打撲の痛みが残る左手で、立ち去ろうとする彼女の腕を掴んでいた。
「ご、ごめんなさい! 私、ずっと側にいるなんて言って、味方だなんて言ってたくせに、何もできなくて! でも、彩の、力になりたくて——」
無理やり引き止められた彼女は、手を振り払いながら私の声を遮った。
あの日の光景がリフレインする。
「波南美ちゃんはいっつもそうだ! わ、私に、戦えなんて強要して! 私、波南美に、助けてなんて、ち、力になってなんて、一言も言ってない!!」
彼女は、綺麗なその顔をくしゃくしゃにして、今まで聞いたことのない大音声で叫ぶ。その目には、孤独な炎が灯っていた。
「だ、だいたい、波南美は恵まれてるから、私のこと、これっぽっちもわからないでしょ! ほ、欲しい服も全部、買って貰えて、家族の仲も良くて……。さ、坂下くんのこと、誑かして、さ、さぞかし毎日楽しいんでしょうね! 代われるなら代わってみてよ。わ、私、苦しくて、辛くて、も、もう逃げ場も無いんだから!」
彼女には、私が養女だと教えている。そんな、私の偽りの家族すら、恵まれている? それに、昴を誑かす?
「……彩、こんな、私が恵まれてるなんて、本気で言ってるの?」
だめだ、止まれ。言っちゃだめだ。こんなこと、言ってしまってはお互いに傷を残すだけだ。
彩も失言に気が付いたのか、目尻に涙を湛えた瞳に動揺の色が見える。
でも、止まれなかった。
「私、お母さん死んでるんだよ。お父さんだって、おかしくなっちゃって、私のことレイプしてたんだから。ご飯も食べれられなくて、お風呂も入れなくて、毎日殴られて。真冬でも暖かい部屋に入れるのは犯される時だけ。そんな生活、彩に耐えられる?」
まくし立てる間、無意識に彼女の両手首を掴んでいた。思った以上に力が加わっていたのか、身動ぐ彼女がいじらしく言葉に熱が入る。
「普通の後輩だと思ってた昴だって、私に無理やりキスしてくるクズだった! それでも、私になりたい?」
こんなこと、彼女に言うつもりなんて、これっぽっちもなかった。なのに、加減を知らない言葉が、思考のフィルターを通さず口から放たれる。制御できない感情が暴れて、気が狂いそうなまま、沈黙が訪れた。
「……ご、ごめんなさい」
どちらが先に謝ったのだろう。いつの間にか、掴んでいた彼女の両手は自由になっていて、半歩以上距離が離れていた。
お互いに、かける言葉を見つけられない。
そんな二人の間を吹き抜ける、無駄に爽やかなそよ風が、幕引きの合図となった。
新緑の遊歩道。木漏れ日の下、大粒の涙をこぼしながら謝る彼女は、逃げるように私の元を後にした。
先程までの感情も全て立ち消え、指先には少しも力が入らない。どこかふわふわとした足取りで、道脇の小さなベンチに腰掛けると、また風が頬を撫でた。キャスケット帽からはみ出した、癖のついた髪が揺れる。
こういう時だけ流れない涙が恨めしかった。
****
どうせなら、学校も休んでしまえばよかった。
養親も、あからさまに気落ちした私に向かって優しい言葉をかけてくれたが、ここで甘えてしまうともう立ち直れない気がした。
それに、一晩明けて、昨日のことを噛み砕いた私たちが仲直りできる可能性もゼロじゃ無い。
そんな、絶望的な希望をどこか盲信しながら登校した。
教室にたどり着けば、連休明けだからだろう、いつにも増して騒がしい。私は自分の机に鞄を下ろすと、隣の席に座る千葉ちゃんと挨拶を交わした。
「おはよ、ちばっち」
「おはよななみー。ななみーはさ、もう聞いた?」
いつも朗らかな笑顔を絶やさない彼女が、何やら真剣な顔をしていた。
「なんの話?」
特に心当たりは無いが、なぜだろう。胸がざわざわする。
「なんか、二組の子が、今朝自殺したんだって」
「え……」
耳を塞がれたように、心臓の音だけが大きく響く。今座ったばかりの椅子を残して、周りの世界が崩れていくような錯覚を覚えた。
目の前で、深刻そうな面持ちの千葉ちゃんが続けるが、まるで無声映画のようだった。字幕すらない、無音の映像だけが通り過ぎていく。それなのに、誰のことなのか、手に取るようにわかった。
「家のマンションの最上階から飛び降りだって」
「野次馬すごかったらしいよ」
「ちょっと吃りがちだけど、綺麗な子だよね」
「かわいそうだよね、いじめが原因らしいじゃん」
二組の子に関する情報だけが、どんどんと集まってくる。
きっと、彩のことだ。
私が、昨日あんな酷いことを言ったから。
私が、全部間違っていたから。
また、わたしが、ころした。
「池田さんっていうらしいよ」
目の前が、真っ暗になった。世界がぐるりと一回転して、意識が遠のいていく。
「ななみー!?」
椅子から崩れ落ちた私の耳に、千葉ちゃんが名前を呼ぶ声が聞こえた気がする。
それからのことはあまり覚えていない。気がつけば保健室のベッドで横になっていて、血相を変えたお
そして今、自分の部屋で、制服から着替えもせずにベッドに腰掛けている。こうしてから、どれくらい時間がたったのだろうか。数分しかたっていないような気もするし、何時間も座っている気もする。特にどこにピントをあわせる訳でもなく、虚空を眺め続けた。
どうやら、今朝自殺したのは彩で間違いないらしい。学年で最も仲が良かったこともあり、学校から連絡があったそうだ。
悲しむべきなのだろう。
しかし、不思議と涙すら流れない。
宙ぶらりんな気持ちのまま、身動き一つも取れなかった。
ただ、得体の知れないこの気持ちを、誰かに洗いざらい話してしまいたかった。
「そうだ、電話」
不意に、懐かしい人のことを思い出した。私の事情を知る人のこと。波南美になった俺を知る人。
飛び跳ねるように立ち上がり、クローゼットを開けはなつと、最初から持っていた数少ない持ち物をまとめたケースを引っ張り出した。目当てのものはすぐに見つかった。あの、使い込んだ自由帳に挟んだ、小さなメモ用紙。月夜の病室で渡された、過去と今を繋ぐ唯一の道しるべ。
震える手でスマホを取り出す。ガタガタと言うことを聞かない指先でキーパッドを呼び出し、メモに残された電話番号を入力する。一文字一文字、確かめるように、祈るように画面をタップした。画面に表示される番号と、メモ用紙のそれに誤りがないことを、執拗に確認すると、大きく息を吐き出しながら通話ボタンを押した。
端末を耳に当てる。喉が乾く。
陳腐なことに、永遠にも思えた空白の後、ブツリと回線が接続された音がした。
「はっはるか!? ねえ! 俺……」
恥も外聞も無い。今の俺に残された、たった一つの希望に縋り付くために、まくし立てようとした。
『……なった電話番号は現在使われておりません』
嘘だ。
タイミングが悪かったんだ。もう一度。
『……お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません』
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ信じたくない、どうして、なんで、嘘でしょ。
『お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。——お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。——お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません』
「嫌っ、う、嘘っ、嘘でしょ……!? ねぇ、お願い……! どうして……なんで……」
何度試してみても、結果は同じだった。
ショートメッセージも、SNSも、全て彼女に繋がるものはなかった。
いつの間にかスマホは手から滑り落ちて、嫌に重苦しい音をたて部屋の隅に転がった。
私は床にうずくまり、震えの止まらない手で、力一杯自分の肩を抱きしめる。
壊れて、バラバラに砕け散ってしまいそうだった。
「どうしてみんな私を一人にするの……嫌ぁ、いやだぁ…………」
「彩……ごめんね……。わたし、酷いこと言っちゃった。なんで、あんなこと、ほ、本気じゃなかったのに……」
「どうして、いっちゃうの。ひとりぼっちは嫌だよぉ……。彩がいないのに、生きていけるわけないじゃない……」
ひとり、部屋の中。うずくまって、涙に溺れながら、ぎゅっと目を閉じた。
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