わたしの欠片

 ある日曜日の午後、リビングのソファに膝を抱えて座り、児童書を読み耽っている時のことだった。

 リビングと繋がるキッチンから、何か重いものが落ちる音と、けたたましい音がした。そのうち、耳を咄嗟に塞ぎたくなる方は、おそらく食器が割れた音だろう。


『おかあさん?』


 私は読みかけのページに栞を挟むと、音の正体を探るべく立ち上がった。本は、横着してソファの上。いつもなら、母にちゃんと整理しなさいと怒られるが、本棚に戻すことを忘れてしまった。

『おかあさん、どうしたの?』

 一続きの空間を仕切るように、キッチンとリビングの間にカウンターが飛び出しているため、未だ何が起きたのか全貌が見えない。私は、何かいけないことをしてしまった時のような、罪悪感と緊張感を抱えながら、歩みを進めた。


 果たして、そこには倒れて微動だにしない母の姿があった。


『寝てるの? ダメだよ、おかあさん風邪ひいちゃう』

 返事はなかった。

 胸に、漠然とした焦燥感が溢れ出す。どうして寝ているなんて思ったのだろう。優しくも身だしなみや躾に厳しい母が、キッチンの床に直接寝ることなど考えられないのに。

『おかあさん、起きてよぉ。ねぇおかあさん。おかあさん、ねえ! 起きて! おかあさん!!』

 床に倒れこんだ母にしがみついて泣きじゃくる私。横たわる母はぐったりとしていて、一目で緊急事態のそれとわかる。


 でも、私は馬鹿だったから、救急車を呼んだり、他の大人を頼ることができなかった。死にかけの蝉みたいに母にしがみついて、パニックのまま泣き喚くことしかできなかった。

 休日出勤の父が帰宅した時、私は抱きついたまま泣き疲れて眠り、母はすでに冷たくなっていた。

 脳の病気だった。


 私は、お母さんを殺してしまった。


 それから、真面目だけが取り柄の父が身を持ち崩していくのはあっという間だった。ぼろアパートに引っ越し、まともに学校に通わないまま父の言いなりになった。私は、母を殺した罪滅ぼしになればと思い、父の全てに従った。まるで奴隷のような生活。しかし、父と暮らせることに幸せを感じていた。


 ある時から、父は私を慰み者にした。

 痛かった。気持ち悪かった。

 それでも、私が父にしてあげられることは全部してあげた。それしか、愛する方法を知らないから。自分を肯定できるものがなかったから。だって私は、父の愛した人を殺してしまった、悪い子だから。


 またある時から、見知らぬ人が、私の中にやってくるようになる。青天の霹靂だった。彼は、父と交わる私にひどく驚いたようだったが、お互いに意思の疎通は取れず、面識や共通点など一つもない。不思議な出来事に驚きはしたが、特に状況が変わらないことに、失望混じりの安堵を覚えてしまった。

 次第に、気づけば彼は私の中にいたりいなかったりする、同居人のような存在になる。どうやら彼は私の中にいる時のことを夢だと思っていたようだが、随分と私によくしてくれた。次第に怪我の手当や後始末をしてくれるようになった。その間、私は彼に甘えて休んでいたことを覚えている。


 しかし、彼の優しさが私をおかしくしていった。全てを父へ捧げていたはずなのに、急に未来が怖くなった。


 死にたくない。

 死んでしまいたい。


 そう願うようになってしまった。


 霧のような秋雨が降る夜。私は、全てを諦めてしまった。

 父と母へ、馬鹿な私でごめんなさい、自分で決めたことも守れない、悪い子でしたと。そう告げて住処を出た。


 **


 冷たい秋雨の前では、薄手のブラウスなんて裸に等しい。やせ細った二の腕に、濡れた生地が張り付いて不快に感じる。しかし体の末端は冷え切って、随分前から感覚がない。寒さに震える奥歯も、すでに鳴り止んでしまっていた。


 伸びっぱなしの前髪が顔にまとわりついて、鬱陶しくてしょうがない。一度張り付いた髪の毛をかき分けて、右奥を見れば濃い霧雨の中に点々とナトリウム灯が浮かんでいる。とても静かで美しい景色だった。ここで全て終わるなら、それもしょうがない。圧倒的な力がやってくるのを、どこか浮ついた気持ちで待ちわびた。


 程なくして、オレンジと白のまだら模様を、全てを終わらせるための青い光が切り裂いてきた。


 タイミングを計って、右足から車道へ踏み出す。

 あと数歩、これで全部おしまい。

 そのはずだったのに、私は強い衝撃に吹き飛ばされた。驚きに見開いた目には、俺の最期がこびりついている。


 **


 気がつくと、私は見覚えのあるマンションの通路に立ちすくんでいた。どこからか、甘いシャンプーの匂いがした。

 心当たりに、ゆっくりと辺りを見渡せば、愛しく、懐かしい姿が佇んでいる。


『彩……』


 私の呼びかけも虚しく、くるりと反転した彼女は、通路の最奥を目指し歩みを進める。

 このままじゃいけない、そう直感が告げると同時に彩の右腕を掴んだ。


『彩っ! ダメ! 行かないで! お願いだから!』


 彼女は、私の腕力ではビクともしない力で、私ごと前に進む。

 必死に止めようとするが、この先に待つ結末に、私の無力さに涙が溢れ出す。


『お、お願い、彩、止まって。ごめんなさい、私、あなたに酷いことをした……。ねぇおねがい、私をひとりにしないで……。許してなんて思ってないから……』


 恥も外聞もなく泣きじゃくる私。彼女の腕に抱きつくように引き止めるが、歩みの速度に変わりはない。


 そして、ついにどん詰まりへたどり着く。

 歩みを止めた彩が、私と向き合う。

 彼女は、大粒の涙を流しながら、何かを言っていた。

 どんな言葉だろう。できれば、幼い激情に流されてしまった私を責める言葉だといい。私には、彼女に赦される資格などないのだから。


 **


「……ッ!!」

 私は息の詰まるような夢から飛び起きた。

 心臓が限界寸前の速さで脈打ち、脳が酸素を求めて呼吸が乱れる。

 吐き気と残像。動悸がして、視界が歪む。


「もう……嫌……」


 呼吸が整ってから時間を確認すると、午前四時を回ったところだった。最近はよくなったと思うけれど、時たまこうやって飛び起きてしまう。これが続くようなら、また薬を飲んだ方がいいかもしれない。


 彩の死から、四年が経とうとしていた。


 窓の外は未だ夜の支配下にあって、朝日の気配は感じられない。しかし、気の早い鳥の囀りが聞こえる。それは確実に朝が近づいていることを感じさせた。

 私は、新鮮な空気を吸っていることが恥ずかしくなり、寝返りを打ってうつ伏せになる。柔らかな枕に顔を押し付けると、自分の使っているシャンプーの匂いがした。


 その香りが、先ほどまで観ていた夢の内容とオーバーラップした。


 彼女の死から、浅ましくも生き延びてしまったことが苦しい。嗚咽すらなく流れる涙が、溢れるそばから枕に染み込んでいった。

 今日はもう、眠れそうにない。


 ****


 体が動かない。家の最寄り駅から吐き出された時にはもう、精根尽き果てたようになってしまっていた。小さいながらも緑の多い公園のベンチに腰掛けうなだれる。

 今日は週に一度の登校日だった。

 目が回って、吐き気がする。人酔いだろうか。俯いた私は、無地のリュックを抱えて、ぐるぐる渦巻く不快感を堪える。額に汗が滲むのが気持ち悪い。

 私は、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭い、そのまま両手に握りしめる。まるで、神様にお祈りをするような格好だ。なかなか治らない不快感の中、私なんかが神様に祈ったとして、何になるんだと自嘲した。


 しかし意外にも祈りの効果があったのか、だんだんと吐き気が引いてきた。目を閉じて、顔面をリュックに突っ伏している私の耳に、周囲の状況を探るだけの余裕が生まれる。

 一本隣の道を歩く母親と子供の声。兄弟だろうか、二人分の声がしきりに電車の名前を言い合っている。聞き役に徹する母親は、彼らを「詳しいねぇ、凄いねぇ」と褒めそやしている。

 遠くも近くもないところから、電車が駅のホームにたどり着く音。金属音とうまく聞き取れないアナウンスが、春の空気の柔らかいフィルターを通して聞こえてくる。


 上空から、誰かの安否を問いかける声。優しいテノールだ。低すぎも高すぎもせず、耳当たりのいい声だ。ただ甘いだけの声音とも違うその声には、心配と不安の色が感じられた。

 そんな声の位置が、頭上に移動する。私は俯いたままだから、頭の位置に合わせようと屈んだのだろうか。

 私に合わせて?


 ゆっくり、顔をあげる。まだ太陽の位置は高く、しばらく閉じていた目に痛い。長いトンネルから飛び出した時のようにホワイトアウトした視界が、次第に色を取り戻していく。


 目の前に、一人の青年がいた。

 清潔感のある黒い短髪は、控えめなながらも整髪料で整えられていて、凛々しくも柔和な印象の眉と、べっこう柄の眼鏡がよく似合っている。白いオックスフォードシャツと細身の黒いテーパードパンツのシンプルな装いだが、つま先の丸い外羽根式のドレスシューズがお洒落だ。

 レンズの奥の瞳は少し茶色みがかっていて、私を心配しているのだろうか、不安げに揺れている。彼は落ち着かなさそうに、左腕にしたスマートウォッチと右手のスマホを見比べていた。


 なんだろう、ぱっと見の印象としてはすごいしっかりしてそうな人なのに、オロオロした態度にかえって親しみやすさを感じた。

 

「君、大丈夫、具合悪いの? 俺の声、聞こえる? 救急車呼ぼうか?」


「あっ……あの……だ、大丈夫……です……」


 ほとんど会話なんてしないから、喉がうまく機能しない。途切れ途切れ、油の切れた機械のようなぎこちなさでなんとか返答する。


「ほ、ほんとに? すごい震えてたから、もしかしたら動けないのかと思って……」


 私、そんなに具合悪そうに見えていたのか。

 返事を聞いた彼は、にわかに表情が明るくなる。屈んでいた身を起こすと、晴れやかな顔でスマホをヒップポケットに仕舞った。彼の背は高くも低くもない。人混みの中にいたらしばらくは見つけられないだろう。

 しかし、こんな時間に公園のベンチで蹲る女子高生に向かって声をかけるだなんて、何か裏があるんじゃないだろうか。もしくは底抜けのお人好しか。

 そんなことを考え、胡乱な視線を彼に向けてしまった。

 だが、彼は右手を顎に添え、左上を眺める、いかにもな考え中のポーズを取っていた。なにか、変な人なんだろうか……。


「あのさ、君、もしかしてだけど、小学六年生の頃入院してた?」


 ◆◆◆◆


 大学生活も、初めての一人暮らしにもだいぶ慣れてきた。

 地方からの進学ということもあり、不安だった交友関係も、ゼミの仲間と打ち解けることができたので解消した。今の所、順調なキャンパスライフのスタートを切れていると思う。

 思うが、思っているのだが。


 まだ四月だというのに、もう誰それと付き合いだしたとか言ってる同期がいた。


 ……なんなんだよ! キャンパス内で所構わずイチャコラ盛りやがって! お前らなんの為に大学来てんだバーカ!! 都会怖い!! 最早人種が違うのではないか……。

 

 まあ、小中高と浮ついた話一つも無かった俺だ、今更大学で全て変えようというのも分不相応なのかもしれない。

 そもそも、本気で人を好きになったこともない。

 姉のアドバイスにより、見た目こそ落ち着いているけれども、こいうのはどこか別の世界のように感じていた。実際に、高校時代の友人とは事あるごとに『彼女欲しー』なんて言っていたが、空気に合わせていただけで、学校にいる女の子と付き合いたいとか、そんなことは特に思えなかった。

 もしかしたら、俺はどこかひどく未成熟で不完全なのかもしれない。

 小学生の頃に頭を開ける手術をしたから、その時そういった感情を司る部分を取られてしまったんだろう。そう冗談を言えば周囲は笑ってくれていた。……割と笑えない冗談だと今は反省している。みんないい友人だった……。


 それはともかくとして、大学デビューとまではいかないが、そこそこ充実した生活を送っていた。今日も、午後の一コマ分の講義を終え、アパートへの家路を急いでいる。宅配便の時間指定まで、微妙に余裕がない。気持ち早歩きのまま、いつもショートカットに使っている公園に差し掛かった時だった。


 木陰のベンチで、小柄な女の子がうずくまっている。

 濃いグレーのブレザーに丸襟のブラウス、水色のリボン。上着よりは薄いグレーをベースにした、チェック柄のプリーツスカートを履いている。高校生だろうか。

 しかし、平日の午後、普通ならまだ授業があって然るべき時間だ。何か、のっぴきならない事情があるんだろうかなんて、高々ひと月前まで同じ高校生だった自分を棚にあげて想像する。


 しかし、女の子の手に白いハンカチが握られているのが見えた。何か、苦痛に耐えるように、白い手の甲に筋が浮かんでいる。結構な力が籠っているようだ。

 もしかしたら、何か体調不良だろうか。慌てて周囲を見渡すが、彼女に気が付いているような人は自分以外にいない。勘違いならいいが、見れば見るほど、何かに苦しんでいるように思えてしょうがない。

 入院の経験から、自分や他人のことが放っておけない質になってしまった。もし俺が見て見ぬふりをして、その後彼女が手遅れになったらと思うとぞっとしない。


 頭の隅に、もしかしたら事案? なんて言葉が浮かんだが、声をかけるべく近づいていくと、ベンチに座る彼女の手が震えていることに気が付いた。これはいけない。反射的に声をかけていた。



 なかなか反応が得られず、今まさに救急車を呼んでしまおうかと思った時、女の子から返事があった。ゆっくり顔をあげる彼女の、黒々として豊かな髪の中から、疲労の滲む儚げな表情が現れた。彼女はとても小さな声で、ところどころつっかえながら大丈夫だという。


「ほ、ほんとに? すごい震えてたから、もしかしたら動けないのかと思って……」


 一瞬、ほんとにコレ大丈夫か? と思ったが、俺を不思議そうに眺める彼女の震えは止まっていた。

 ふと、俺の頭のどこかが反応した。

 なんか、見覚えのある女の子だ。


 とても小柄な子だ。目測だが、女性の中でもかなり小柄な方に感じる。変な話だが、纏っている雰囲気がなければ中学生にも見えるだろう。その小さな背中の真ん中くらいまで届く黒髪には少し癖があるようで、木漏れ日がところどころ反射している。程よく整えられた眉の下、幼げなつくりの瞳には、不思議なくらい憂いが満ちているようだ。小ぶりな鼻梁に、小さい桃色の唇。彼女の持つ重い雰囲気と、ちぐはぐなくらい子供っぽい可愛らしさ。小動物的とでも言うのだろうか。


 不意に、遠い記憶の中から、不敵な笑みを浮かべるこの唇が蘇ってくる。


 具体的に何かは分からないが、清潔さを感じる匂いの満ちた空間。子供特有の高い体温に、お揃いだったりバラバラだったりするパジャマや検査服。ウレタン素材の蛍光色のマット。擦り切れたカードゲーム。痩せた三つ編みの女の子。男勝りで、飄々とした女の子。


 思えば、彼女に抱いた感情が初恋のようなものだったのかもしれない。


「あのさ、君、もしかしてだけど、小学六年生の頃入院してた?」


 もしそうなら、なぜ制服を着ているのだろうとか、色々思うところはあった。


「俺、藤巻。藤巻謙太っていうんだけど」


 しかし半ば確信のようなものがあった。


『先に出て待っててよ。俺知り合いいないからさ』


 俺は、この子のことをずっと待っていたのだと思った。

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