それではみなさん良い夢を

「ななみちゃん、元気でね!」

「みんなもきっとすぐよくなるよ。お大事にね。バイバイ」


 結局、退院は翌年の3月下旬にずれ込んだ。すっかり桜も咲き、まるで自分用の卒業式の様相だった。俺は、橘夫妻に連れられ、住み慣れた街を後にする。波南美の持ち物は極端に少なかった。


 引越しのため、夢以来初めてあの家に足を踏み入れたが、酷いの一言に尽きる。扉を開け、夢と寸分違わぬ景色を、匂いを感じ取った途端、足の震えが止まらなくなり、結局秀明さんに全ての私物を運んでもらったが、今の自分の醜いところや恥部全てを見られたように感じた。自分がどんどん小さくなって、溶け出してしまう錯覚。ひどく惨めな時間だった。

 運び出された荷物から、あの自由帳を見つける。ぱらぱらとページをめくると、波南美の苦しみや悲しみが滲んでくるみたいだ。いくつか破れたページもある。ずしりと重い、溶けた鉛の様な感情が渦巻く。

 せめて、ここに波南美がいたことを忘れないよう、印刷のかすれた表紙を何度も撫でた。



 俺は麗子さんに手を引かれ、新幹線に乗り、新しい家に向かう。秀明さんはまだこっちに所用があるそうで、駅から別行動になった。この街から、新天地までは1時間半ほど。指定席の窓際に収まり、流れて行く景色を目で追う。

「波南美ちゃん、喉は乾いてない?」

「私は大丈夫です」

 散々就活で自分を『私』と言ってきたせいか、そこまで苦労せず一人称を切り替えることができた、と思う。とっさの反応や、妙に硬い口調になるのは早急に改善しなくては。

「そう。なにかあったらすぐに教えてね」

「わかりました。……ありがとうございます」

 ——今まで縁もゆかりもなかった人を、親として接するのって難しくね? しかも養親!

 誰か教えてくれ……! もちろん今となっては恩も義理もアリアリにある。ただ、22年間本当の両親の息子として生きてきた経験から、簡単には切り替えられない。この体と近い年の子とはフランクに接することができるが、相手が少しでも大人になると急にガチガチになってしまう。おかげさまで、「大人に対して簡単には警戒心を解かない子」という評判だ。確かに過去を鑑みればしょうがないかもしれないが……。

 とにかく、これまでのように人と接することができないのが不甲斐なかった。


「長旅おつかれさま。今日から、ここが波南美ちゃんの新しいお家」

「おぉ……」

 橘夫妻の家は、閑静な住宅街にあった。豪邸では無いが、おそらく建売ではない、しっかりとデザインされた家に見える。家の一角を占めるガレージには、小型のドイツ車が一台停まっている。なるほど。第一印象から一貫して程よく品がいい。地方都市の生活感溢れる実家で育った俺とは人種が違う。なんだか緊張してきた。

「ふふふ。緊張しなくていいのよ。少しずつ慣れていきましょ」

「は、はい」緊張が筒抜けだったようだ。耳がすこし熱くなる。


「そしてお待ちかね、ここが波南美ちゃんのお部屋よ」

「お、おぉ……」

 麗子さんに、これから暮らしていく家の中を案内された。そして最後に、自分の城となる部屋にたどり着く。ドアを開けると、右側にひらけた南向きの窓がたっぷりと光を取り込んでいる。正面には東向きの出窓。その下には木製のベッドが置かれ、隣に勉強机が並んでいる。左側の壁には大きなクローゼットがある。子供部屋として狭すぎず広すぎず、ちょうど良さそうな間取りだ。

「いくつかお洋服も用意してあるから、好きなものを着ていいのよ。好みと違ったらごめんなさいね。これから、増やしていきましょ」

 そう言いながら、麗子さんはクローゼットを開けて説明してくれた。

「ひょえ……」

 数こそ少ないが、清楚なワンピースやブラウスやスカートが並んでいる。見事に女の子の服ばかりだ。いや、それで合ってるんだけども……。

 今までにない種類のショックを受けている間も、麗子さんは丁寧に収納場所の説明をしてくれている。肌着に下着、靴下やハンカチなどもしっかり用意してあるようだ。至れり尽くせりである。

「この辺は自由に使ってちょうだい。波南美ちゃん、すこし疲れちゃったかな。今日は秀明さん戻らないから二人きりだけど、お夕飯までゆっくりしててね。なにか、分からないことがあったらいつでも呼んでいいのよ」

「はっはい。あの、本当に、ありがとうございます。感謝しても、しきれません……」

 こういう時くらい、しっかりとお礼を伝えなければと、しっかりと向かい合って感謝の意を述べた。すると、麗子さんは優しく微笑んで、俺を軽く抱きよせた。

「いままで大変だったでしょう……。ほんとうに……」

 年相応に皺が刻まれた手が俺の頭を撫でる。ほんのり、派手すぎない花の香りがした。しばらくそうしていると、彼女はゆっくりと立ち上がり、最後にもう一度だけ頭を撫でて言った。

「それじゃあ、私はお夕飯の準備しなきゃ」

「あの、ありがとうございます……」

「いいのよ。これから家族になっていくんだから」

 そういうと、軽い足取りで俺の部屋から去っていった。


「おおお、これはまた……」

 俺はリュックひとつに収まった私物を仕舞うと、現状を確認している。主に着替えについてだ。病院では、無地のパジャマをずっと着まわしていた。今日も、シンプルなネルシャツにセーター、ジーンズの簡単な装い。それに比べると、どうしてもハンガーにかかった洋服は可愛らしすぎるように感じる……。いくつか手に取って、ベッドに広げてみる。


 あっ、これこのまま大きくするとアレだ。童貞を殺す服だ。アイボリー地にターコイズブルーの細かいストライプが入ったワンピース。丸いカラーにはグレーのリボンタイが結ばれ、カフスやカラーだけ無地になっている。それに、この下着類。病院では検査や診察が多かったので、これまた地味なねずみ色のジュニア用のブラとパンツを使っていた。形こそ大差ないが、柄やあしらいがずいぶんと可愛らしい。うわー、なんだか小恥ずかしい……。これ着るのぉ? 俺がぁ?

 いや、俺が着るんじゃない、が着るんだ。しばらく、まともな洋服なんて着られなかっただろう。だ、だから、これは波南美のために着なければならない……。


 ——スカートなんて高校時代、吹奏楽部のイベントで着せられたぶりか。


 まあ、どうせこの先制服で毎日着るようになるんだ、慣れるしかない。波南美のことを思えば、自分ができることは全部してあげたい。ただ、君は一体どんな子だったのだろう。なぜ、夢の中で俺は彼女の中にいたのか。それを推察するには、手がかりがなさすぎた。

「むぉおお、ごめんな波南美……。せっかくこんな服をもらえたのに、中身が俺で……」

 なんとも言えない罪悪感と無力感が込み上げてきた。もしも、中身が元のままだったら、彼女は年相応に喜んだだろうか。確かめる術もないのがまた虚しい。


「き、着てみるか……」


 入室した時は気づかなかったが、ドアと窓の間には、上部がディスプレイキャビネットになった収納と、背の高い姿見が置いてある。

 鏡に映るのは、体こそ綺麗に、それなりに健康になった波南美の姿。背中まである黒髪を柔らかく三つ編みにした、明らかに発育の悪く、垢抜けない少女。身長はギリギリ145センチに届いたが、平均には程遠い。胸の膨らみも、初めて夢で見た時から然程変わっていない。まあ、あんな環境にいたのだ、成長が遅くても何もおかしくない。よくこの小さな体で耐えたものだと感心した。

 ただ、これじゃ小学生中学年にしか見えないな。参った参った。それに、ワンピースってどうやって着るの? 遥はあまりこういう服を着ていなかったので、記憶を探っても参考にならない。服からハンガーを外し、ぐるぐると観察すると、脇にファスナーが付いている。

「はえー、なにこれ。あ、閉めるとウエストぴったりになるのか。開けるとゆったりになる。なるほどなるほど」

 ぶつぶつ独り言をこぼしながら仕組みを理解した。前ボタンを頭が通るくらい開け、脇のファスナーを下げる。そしたら下からズボッと被ればよさそうだ。タイはワンタッチで着脱できる、簡易的なものだから結ぶ必要もない。間違っているかもしれないが、こういう仕組みを想像するのは好きだ。だんだん楽しくなってきた。ぱぱっと今着ているものを脱ぎ去り、ベッドに軽く畳んで置き、ワンピースを手にとった。

 よっしゃ、いくぞ。


「あっ、これっ、意外とキツい!」

 意外と生地に余裕がなく、つっかえながら着替えた。もがきながら頭を出すと、鏡の中の自分が間抜けな顔をしている。苦笑いで自分を誤魔化すと、服から髪を抜き出し、前ボタンを留める。ボタンの付いている方が男女逆なのは、未だに戸惑う。最後にリボンタイを装着して、これで出来上がり。

「これは……」

 鏡の前で一回りする。

「完っ全に小学生だな!!」


 着た時の倍のスピードでワンピースを脱ぎ、元の服へ着替える。中学一年生なんて、小学生となんら変わらないとは思っていたが、思っていたよりクリティカルに小学生だ。まだ、今の少年っぽい格好の方がマシに思える。芋くさいけど。

 実際には、様々な手続きの関係上四月の入学には間に合わず、連休明けからの登校の予定だ。制服もまだ仕上がっていないそうで、ここから暫く私服での生活が続くはず。せっかく用意してくれたのだ、贅沢はいえない。それに、麗子さんも最愛の一人息子を亡った過去がある。新参者の俺が我儘を言えた立場ではない。

 そして何よりも、まさか人生において二度目の中学生になるとは思わなかった。しかも女の子として。俺は、ちゃんと波南美として過ごせるだろうか……。やばい。大学生活で腐った脳ミソがついていけるか不安になってきた。

「うああんもうどうにでもなれ!」

 俺は捨て台詞とともにベッドにダイブした。



「……ちゃん、波南美ちゃん、起きれる? お夕飯の時間よ」

「んえ……? わっ、すみません、いま、おきます」

「うふふ、焦らなくても大丈夫。お洋服、気に入ってくれたのね。嬉しいわ」

 どうやら俺は、ごろごろ身悶えているうちに眠っていたようだ。ベッドには、出したままの洋服が散らかっている。麗子さんの言葉の意味を理解すると、顔が一瞬で熱くなった。

「うわっ、あの、ごめんなさい。散らかして」

「いいのよいいのよ、お気に召したみたいで一安心。さ、ごはんが冷めないうちにいらっしゃい」

 ナイスマダムだ。背筋もスッとしていて、さぞ素敵な年の取り方をしてきたんだなと思わされる。なれるなら、波南美をこういう女性にしてやりたい。

 麗子さんの作る食事は、薄味だが非常に美味しかった。5ヶ月ほど入院食が続いていたことも関係あるだろうが、滋味あふれる味だ。ただ、どうも物理的に子供舌なのか、苦味やえぐみなどに敏感になっているようだ。ピーマンが普通に苦かった。



「はぁー、お風呂広かった……。自由に入れる風呂ってたまんねえよなあ」

 食後に入浴を済ませると、俺は新しい部屋で一息ついた。正直、環境の変化の連続に疲れている。さっきまで寝ていたから、眠気はあまりないが、腹の底にどっしりとした疲労感が沈殿していた。あと、地味に髪の毛を乾かすのがストレスだ。まとめた髪を解くと、なかなかの毛量になる。手入れも管理も面倒だ。散髪くらいは注文してもいいだろうか。どうせこれから新しい生活の準備が必要になるし、そのときに頼んでみよう。

 ふと、部屋の静けさが気になった。入院中は途中で大部屋に移動したし、気が向けば談話スペースに出向いていたせいか、完全なプライベート空間が久しく感じる。少し、寂しい。ベッドに横たわると、布団ごと自分を抱きしめてみた。

 しかしまあ貧相な体つきだ。今は俺が預かっているものの、見ていてあまりにも不憫だ。やっぱり女の子は柔らかい方がいい。遥の体を思い出す。本人はコンプレックスだと言っていたが、俺は彼女の大きめの尻が好きだった。そう、俺は尻派である。おっぱいはあくまでもポイントの一つだ。総合的なバランスが重要だと思う。

 人の体でなんてことを考えているんだと反省した。


「これ、ちゃんと女らしくなるのかね」


 この体を、出来るなら波南美に返してあげたい。その結果、俺がいなくなっても別に構わない。俺はもうとっくに死んでるんだ、命なんてくれてやるから、波南美が戻ってくれればいいと思う。

「むぅううん、わけわかんねぇええ」

 俺は布団に顔を押し付け呻いた。布団からは太陽のにおいがする。もやもやした気持ちの中に、暖かなまあるい幸せが降ってきたようだ。波南美のために、こういう気持ちをできるだけ集めていこう。おそらく訪れることのないその時を想いながら、いつの間にかまた眠っていた。

 我ながら、良く寝る子だ。

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