接点

 随分と昔のことを夢に見た。まだギリギリ小学生の頃だったろうか、近所の川で魚釣りをしていた時。水面に浮かぶウキに集中していると、背後の藪をかきわけて地元に住む農家のお婆さんがやってきた。その手には段ボール箱を抱えている。振り返った俺と目があったお婆さんは、一瞬気まずそうな顔をし、訛りのひどい言葉で言い訳をした。

「家の猫が産んじゃってね。夏生まれは長く生きないし、もう飼えないからこうしちゃうの。誰にも言わないでねぇ」

 両手に抱えた箱からは、子猫の鳴き声が聞こえる。当時の俺は、暇さえあれば本ばかり読んで、達観したつもりになっていた少年だった。


「はぁ、大丈夫です」

「昔からこうしてたの。ごめんなさいねえ」


 そう言うと、彼女は段ボール箱を川の流れに乗せた。皺だらけの手を顔の前で合掌している。目の前を流れて行く子猫たち。箱の縁から、白と黒の模様の子猫が顔を出す。恐らく、彼らは運が良ければ誰かに拾われたりしただろう。そうでないほとんどの場合、鳥や水生生物の命の源になっただろう。

 俺は、特に可哀想だとは思えなかった。昔から続いてきたサイクルなんだと理解していた。


 苦い思い出だ。歳をとればとるほど、正解が見えてこなくなる。命の尊さへの理解や動物愛護の精神は人並みにあるつもりだったが、あの時、俺は子猫を見殺しにした。そんな俺が、ある意味見ず知らずの波南美を助け出そうと身を擲った。あの日の子猫と、波南美。同じ命のはずだが、一体何が違かったのだろう。簡単に割り切れるものではなかった。


「ああん、なんでこんな時に昔のこと思い出してんだよ俺は」


 そう、今日は人生二回目の中学初登校の朝だ。朝からモヤモヤする夢を見たせいか、どうも気乗りせず、もそもそと準備を整えた。制服のセーラー服は何度か着る練習をしたので、特に問題なく着用できた。姿見を見れば、濃いネイビーの制服を纏った波南美が立っている。今一度、着崩れがないか確認する。襟よし、スカーフよし。スカート丈は、まあ、膝下くらいでいいだろう。それに、GPS機能付き防犯ブザーに、新しく買い与えられたスマートフォン。もちろんこちらにも各種セーフティ機能は盛りだくさんだ。大変よく守られている。

 肩の上で切りそろえた髪に、寝癖がないのを確認する。波南美の髪の毛には少し癖があるので、寝癖がつきやすい。ほわほわハネる毛先を手ぐしで整え、通学バッグを肩にかけた。

「多分、大丈夫。いけるいける……」

 正直、緊張や不安がないと言えば嘘になる。俺のパッとしなかった中学校時代はもう六年も前で、しかも女子としての再スタートだ。こんな状況で意気揚々としていられるようなメンタルは生憎持ってない。義務教育じゃなければ逃げ出してるところだ。覚悟を決めろ、俺。


「波南美ちゃん、もしも辛かったら保健室登校からでもいいのよ?」

「あ、はい。たぶん、大丈夫です。何かあったら先生に言いますから」

「そう? ほんと、無理しなくてもいいのよ?」

「あの、私は大丈夫ですから。カウンセラーの先生からのお墨付きですし……」

 学校の昇降口、一緒に登校した麗子さんがしきりに俺に心配の言葉をかける。こっちに来てからも、通院とカウンセリングは続けている。カウンセラーの先生は、今までの経験に対して、あっけらかんとしすぎていると言っていたが、それもしょうがない。見た目こそか弱い女の子だが、中身は大学卒業間近だった男子学生だ。波南美と感覚を共有していたとはいえ、バックグラウンドが違いすぎる。

「ええと、橘さん。何かありましたら私や本校の職員からすぐにご連絡差し上げますので、あまりご心配なさらず……」

 これから過ごすクラスの担任だという、榎本先生が言う。見た目30代後半くらいの女性教師で安心した。実を言うと、若干男性恐怖症気味である。特に中年男性相手には無意識で体がこわばる感じがある。元男として情けない。

「では……、この子のことをよろしくお願いしますね」

 そういうと、麗子さんは渋々といった感じで学校を後にした。残された俺と榎本先生は、若干の疲労のにじむ愛想笑いで顔を見合わせる。ちなみに榎本先生とは、入学に際しての手続きなどですでに何度か会っているので、なんとなくの人となりはわかっている。担当教科は国語で、物腰柔らかい印象だが、頼りない感じではない。ただ、中学生の悪ガキを相手にするのは不得手そうだなと思う。


「それじゃあ教室に向かいましょうか、波南美さん」

「はい」

「もし本当に辛いことがあったら、すぐ保健室に行っていいからね? 学校も久しぶりでしょう?」

「わかりました。学校は、ずいぶんとご無沙汰な感じです」

「ほんとうに、波南美さんは落ち着いてるわね……」

 そりゃ中身が俺だもの。

「あっいや、あはは……。できるだけ、頑張りたいと思います」

 そんな雑談をしながら、朝の校舎を歩いていく。時折、すれ違う生徒が先生と挨拶を交わす。なんだこの見慣れないチビは、なんて思われているんだろうなと、どこか他人ごとのように考えていると、早速お世話になる教室についたようだ。ここまでの間に予鈴は鳴っているので、廊下には誰もいない。

 ——1年1組。

 この学校の最上階、東側の突き当たりにある教室。まずはこの教室からスタートだ。すこし、頬がピンと張る気がする。

「うふふ、緊張してるの? 大丈夫、みんないい子達だから。さ、入りましょ」

 なんだこの顔気持ちが外に出やすいのか? それとも仏頂面が緊張に見えるんだろうか、どちらにせよ、うまくやらないと。俺は先に入室している先生の後を追った。


 先生の後に続き、教壇へ登り、意を決して教室の中央に向き直る。そこには、一様に好奇心に目を輝かせた少年少女達がいた。とても視線が眩しい……。そんな視線に一瞬たじろぐと、日直らしき少年が元気に朝の号令をかけた。

「はい、みなさん、おはようございます」

 先生が朝の挨拶を返す。

「今日は、以前からお話してありました、新しいクラスメイトを紹介します。はい、橘さん、簡単に自己紹介をお願いできるかしら」

 先生はそう言いながらも、黒板に俺の名前を綺麗な楷書で書いていく。さすが国語の先生、元から汚いのに波南美になってからさらにヘタクソになった俺の字とは大違いだ。先生があらかた書き終わるのに合わせて、声をしっかり出すために、小さく息を吸い込んだ。


「ええと、初めまして。橘波南美です。すこし体が弱くて、初登校が遅くなりましたが、皆さんにすぐに追いつけるよう頑張ります。えと、仲良くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いします」


 ——あっだめだなんか硬いのとへなちょこなのが混ざった。


 明らかに変な感じになった自己紹介を言い切ると、少し深めの会釈をした。小恥ずかしくて顔をあげるのに勇気がいるが、あまり長いこと頭を下げてはいられない。そこで、教室中から拍手の音が聞こえてきた。すっかり顔をあげてしまえばなんてことない、皆んなそれぞれ拍手をして、隣同士なにか話したりしている。

 自分が転校や編入をした経験はないが、まあ、こんなものか。とりあえず、教卓の後ろに収まっている先生にアイコンタクトをしてみる。すると、先生は軽く頷き、言葉を続けた。

「橘さん、ありがとう。みなさん、少しスタートが遅くなりましたが、今日からこのクラスが全員揃うことになりました。橘さんが困っていたりしたら、ぜひ手助けしてくださいね。それじゃあ、橘さんの席だけれども、廊下側の一番後ろね。もし黒板が見えないことがあったら相談してね」

 先生が軽く指を指す先には、なるほど、一つ空席がある。あそこが俺の席らしい。俺は先生に礼を言うと、机の列の間を自分の席目指して歩き始めた。歩く間も相変わらず、好奇心に輝く視線をぶつけられる。なかなかこの歳でこういう視線に晒されるのはむず痒い。いや、今の見た目じゃ彼らより年下に見られるかもしれないが。

 とは言っても教室だ。あっという間に自分の席に着く。とりあえず、背負っていた通学バッグを机に置き、着席する。

『うおお、中学校の机だ。懐かしー!』

 ひとり心の中で懐かしさに感心していると、一つ前の席に座る、お下げ髪の女の子がくるりとこちらを向いた。

「橘さん、私、渡辺春陽ワタナベハル。よろしくね」

 目の前の女の子が胸元のネームプレートを指で示しながら言う。

「んえっ!? あっ、よ、よろしく……」

 脳天をぶち抜かれたような衝撃に思い切り変な声を出してしまった。苗字と名前の組み合わせがあまりにもニアミスすぎる。運命を司る神様がいたら一発ぶん殴ってやりたい。悪趣味がすぎるぞ。

「えっ、大丈夫!? なんかびっくりすることあった!?」

 自分に責任があるのかと、急におどおどしだす彼女を見ると、なんだか緊張が抜けていった。ナーバスになり過ぎていたかもしれない自分が笑える。

「いや、ごめんなさい、渡辺さん。ちょっと前付き合ってた人に名前がそっくりで、ビビっただけだから」

「え、付き合ってた人……?」

「あっ」 


 ——早速やらかした!!


 あとは推して知るべき。休み時間ごとに質問攻めに合い、昼休みを待たずしてヘロヘロになってしまった。遅れてクラスに合流した、素性の知れない同級生が、開始早々話のネタをぶちまければこうもなる。特にみなさんそういうお年頃だ。まだ遠慮が見え隠れするが、貪欲な興味が四方八方から殺到した。なんとか、遥のことを同じ小学校の男子で、関係自体は自然消滅ということで誤魔化した。現実はもっとひどい終わり方だったが……。あと、大学生同士の男女の関係は、ちょっと君たちにはまだ話せないなあ。ごめんよ。


「ふぇーつかれた……」

 給食の時間、俺はため息を吐きながら紙パックの牛乳を飲む。紙パックの牛乳なんてめっちゃ久しぶりに飲んだ。趣がある……。

「波南美ちゃんちっちゃいから油断してたわー。なんかショックー」

「えー、ひどくない? こっちはめっちゃ疲れたよ」

 まあ、思っていたよりもスムーズにクラスに馴染めたのは嬉しい誤算だった。先生の『みんないい子』というのは嘘でもないらしい。やはり、調子に乗った男子からの冷やかしなどもあったが、レベルが低いのと周りの女子が庇ってくれたため特に問題なかった。逆に、そんなやりとりが、しみじみと中学生なんだなあという実感に繋がった。

 特に、最初に話しかけてくれた春陽という子とはだいぶ打ち解けられた。名前に動揺し、初手からやらかしてしまったが、まあ結果オーライだ。話し相手がいるのといないのでは、学校生活のレベルが段違いだ。

「そういえば、ウチの学校部活全員参加なんだけど、波南美ちゃんは何か考えてる?」

 机をくっつけているため、隣の春陽が給食の羊栖菜の煮物を箸でつつきながら訊いてきた。

「えっマジで? んー、前は吹奏楽やってたけどなー」

「吹奏楽いいじゃん。何やってたの?」

「パーカッションやってたけどさー、指とかボロボロになるからもうやりたくない。春陽は何部?」

「私はソフトテニス。始めたばっかりで下手くそだけど」

「うわー陽キャだー。んー、どうすっかなあ」

 そのとき、俺の脳裏にやり残した卒業制作が思い浮かんだ。

「あ、そうだ。ねえ、この学校美術部ある?」

「え、あるけど、美術部入りたいの? 隠キャしかいないよ?」

「いや隠キャとか関係ないっしょ、みんな好きでやってんだから。うわ、あとで先生に聞いてみよ。めっちゃやる気出てきた」

「えぇー、もしかして、波南美ちゃん?」

「いや、全然。なんで?」

「なんか喋り方とか荒っぽいし、そういうのに影響受けてそう」

 あー、これが生のジト目か。なるほど。

「ええー、そんなことない、よ?」

「あっはは、不自然ー」

 そうか、幸い時間だけは腐る程ある。無為に過ごすよりは、少しでも手を動かしていよう。折角一度はデザイナーとして内定を得たんだ、わざわざ無駄にすることもない。

「というか、絵描けるんだ」

「いんや、下手くそだよ」

「ええー?」

 そうと決まれば特に迷うことはない。美術部ならそこまでハードじゃなさそうだし、途中参加でもあまり影響ないだろう。よし、タイミングを見て相談してみよう。

 ふと、隣の春陽が小さなため息を吐いた。

「うーん、月曜の5時間目から体育ってマジ萎えるよね」

「ん、めっちゃ脇腹痛くなるよね」

「着替えダルいし」

「そっかぁ」

 ん、着替え?

「着替えかー!」

 しっかり体操着は持ってきていたが、すっかり忘れていた。

 女子更衣室の存在を。

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