夢がさめない

 どうやら、本当に俺は、波南美になってしまったようだった。今まで以上に明確に、この体のことがわかる。自分の魂が、末端まで行き渡ったような感覚だ。

 今の俺は、心身ともにボロボロの、瘦せぎすの少女だった。


 頭からは血の気が引き続けている。あの後、様々な検査や診察があったが、あまり覚えていない。今考えられるのは、元の自分はどうなったのか、黙って置いていった遥はどうしているのか、隣の県に住む家族のことで精一杯だった。


「やはり、ショックからか自失状態にあるようです」

「身体中に日常的な暴行の形跡あり」

「また……、その、性的暴行のあとも……」


 なにやら、医者と、警察官らしき二人組が話し込んでいる。この病室は広めの個室だ。廊下でする内容ではなさそうだし、多分、今の俺には意味がわかるはずないと思っているのだろう。俺は、上半身を起こし、窓の外を訳もなく眺めている。

 十月のよく澄んだ空が広がっている。雲の位置が高い。気づかぬうちに、すっかり秋になっていた。そして、己の裸眼で景色がくっきりと見えることに、胸が痛んだ。


「波南美ちゃん、今、お話できるかな?」

 声の方を向くと、先ほどの警官二人組の、婦警さんが俺の視線に合わせて椅子に座っている。

「は、はい。大丈夫です」

 以前より体は思い通りに動くが、肉体的な癖は抜けないようだ。自分が思うより声量が出ない。以前の感じの、六割程度だろうか。

「ごめんね、話せるところまででいいんだけど、事故について覚えてること、あるかな?」

「あの、俺……、もう一人のひとは、どうなったんですか?」

「えっ、いや、その……」

 婦警さんは表情を強張らせ、後ろに立つ経験豊富そうな男性警官に助けを求めるような視線を送る。すると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振った。

 態度で悟った。

「死んだんですか……?」

 目の前の彼女は、少し目を見開いた。

「えっと、あ、あの人はね、波南美ちゃんのことを、命がけで守ってくれたの……」

「即死ですか」

 俺は、今までよりはっきりとした声音で聞き返した。

 空気が凍る。一歩引いたところでどっしりと構えていた彼も、目が若干泳いでいる。

「……そうだ。彼は、君を助けるために自分を犠牲にした。苦しまなかっただろうと、お医者さんは言っている」

「そう、ですか……」

 やはり、元の俺は死んでいた。永瀬康平は、現実では会ったこともない相原波南美を救うため、即死した。

 せめて、幼い命を救った、勇敢な青年として弔われればと願う。

 両親には、先に旅立つ親不孝者を許してほしいと願う。

 遥には、まだ言葉にしていない約束を果たせずに申し訳ないと思う。


 気がつくと、俺は波南美の体でボロボロと泣いていた。


 俺が泣き止むと、様々なことを聞かれた。元の俺とは面識があったか、なぜあんな時間にあの場所にいたのか、日頃の虐待は誰からされたものか。俺は、わかる範囲で全て答えた。自分の知らない過去のことについては、覚えていない、知らないと答える。よくある話っぽいだろう。事故のショックで記憶が混乱しているということにした。そして、波南美の父についても聞かされた。どうやらあのクソ野郎はいなくなった波南美を探しに出た先で事件を起こし、今は身柄を拘束されているらしい。

「あんなクソ野郎は一生豚箱にブチ込んでおいてください」

 俺は、精一杯低い声で、憎しみを込めて言い放った。

 俺自身は、清々としたが、どこか、波南美の胸がちくりとした。いや、その理由も今はわかっている。どうしようもない不幸の結果だったとはいえ、唯一の肉親だ。幼い波南美の胸が痛まないはずがない。おそらく、波南美の心はもう無いが、体に染み込んだ記憶のようなものが俺にそう伝えた。



 全てを終えた俺は、急に手持ち無沙汰になった。恐ろしく何もすることが無いが、それもしょうがない。どうやら祖父母は早くにこの世を去っていたようで、天涯孤独のようなものだ。とりあえず、今はこの栄養失調気味の体を養生するしかなかった。

 それでいいよな。何もしないことが正解に思えた。


 そんな、生きているのか死んでいるのかわからない入院生活を送ること数日。秋の満月が差し込む病室で、俺は窓の外を眺めていた。日がな一日ゴロゴロしているので、急速に回復しつつある体力が余っていて眠れない。俺はできるだけ無気力に、今後のことを考えないように努めていた。どうせ、この体では自分に決定権は無い。何処の馬の骨とも知れない親戚に拾われるか、はたまた施設行きか。

 そんなことを考えていると、静かに病室のドアが開いた。


「誰……?」


 薄明かりの中、入り口の方を見やると、よく見慣れていた、愛おしいシルエットが佇んでいる。随分とこの瞳は夜目も効くらしい。懐かしさを覚える顔までくっきり見えた。


「遥……どうして……」

 波南美の、少しかすれたアルトで疑問が溢れた。

 遥が静かに、ベッドの横まで歩み寄る。

「あなたが、ナナミちゃん? それとも……康平くん?」

「あ……あっ、おれっ、はるかぁ……。おれだよ、コウヘイだよ……、おれっ」

 言い切る前に、抱擁された。この体で彼女に抱かれると、まるで年の離れた姉妹のようだ。優しい香りを嗅ぐと、この上ない多幸感に包まれる。

「よかった……康平くん……、本当に、疑ってごめんなさい……」

「いいよ、いいんだ。普通は信じられなくてあたりまえだよ……。俺だって、これからどうするべきか……。前の俺は死んじゃったけど、また、こうして、会えた……」

 そういうと、彼女はがばりと身を剥がした。

「ダメ……。康平くんはあの日、あなたを守って死んだ。あなたは、心は康平くんかも知れないけど、ナナミちゃんでしょう。私の大好きな康平くんが、夢の中で一緒にいたナナミちゃん」

「そんな、俺はっ」

 遥は、俺の手に紙切れを握らすと、その手を握りしめつつ、いつも側で見つめていたままの瞳で俺に語りかける。

「いい? あまり時間がなくて。これ、私の連絡先。電話番号、メール、SNSも思いつく物全部書いてきたから、何かあったら連絡を頂戴。あなたは、康平くんとナナミちゃんの命を代償に生きてる。だから、私はあなたを許せない。ちゃんと、幸せになって戻ってくるまで、許せない。康平くん、あなたは責任を持って、ナナミちゃんとして生きて。それじゃ、……さようなら。大好きだよ」

 そう言い切ると、遥はそっと俺の頬に口付けた。すっくと立ち上がり、くるりと踵を返し、部屋を出る。

 彼女は振り返らなかった。



 無気力に眺める窓辺の景色は、ついに真冬を迎えた。

 俺は、いまだ病室にとらわれている。

 子供の回復力は凄まじいもので、病的に細かった体には急速に肉が付き始め、瑞々しい肌にはしっかりと血潮が巡っている。伸びっぱなしの髪も整えてもらった。すっかり馴染みの、高橋さんという30代前半の看護師に手入れのレクチャーを受けた。髪の結び方やまとめ方も教わり、最近は緩めの三つ編みにしていることが多い。まとまっていると不意に踏んづけたりなどしないので良い。

 点滴も外れ、最近では病院内を適当に見て回っている。俺はこれまで大きな怪我や病気をしてこなかったから、こういう経験は素直に新鮮だった。

「あー! ななみおねーちゃん来たー!」

「うーっす、元気にしてたー? いや、病院だから元気もクソもないか」

「また波南美ちゃんガニ股で歩いてー、男の子みたい」

「あぁ、そっかそっか。難しいな」

 自分も入院している小児病棟では、おなじみの入院仲間のようなものもできた。長期の入院なので、年長組はお互いの病状を詮索しない空気が出来上がっているが、まだ幼い子達は、呑気に近況を話し合ったりしている。大病を抱えてる子もいるだろうと思うと、少し思うところがある。

 遠巻きに眺めていると、同い年だと言う藤巻謙太という少年が話しかけて来た。

「よお相原。なんだか元気そうじゃん」

「おっす。謙太も調子よさそうじゃん」

「あのさ……、ちょっといいか?」

 そう言うと、謙太は親指で柱の方を指す。コクリと頷くと、二人で集団から離れた。

「なんだよ、愛の告白?」

「ちっちげえよ! 俺さ、退院が決まったんだ!」

「おおーマジで? おめでとう。ご両親も喜ぶだろうね」

「……なんだかさ、相原ってたまに大人みたいなこと言うよな。そうじゃない時は男子みたいだし」

 子供って鋭いなあ。俺だって、まだまだ若輩者だが、本物の子供にはハッとさせられることがある。

「あっはっは。何を隠そう頭脳は大人なんだよ」

 そうふざけながら、謙太の肩を軽く叩いた。すると、謙太は俄に顔を赤くし、ぶっきらぼうに続けた。

「相原もっ、早く退院できるといいな!」

「ん、そうだな。先に出て待っててよ。俺知り合いいないからさ」

「やっぱ相原は俺女なのか……」

「なんだよ急に肩落として」

「それさ、退院するまでに直した方がいいぜ。イタイから」

「ああーマジか。やっぱダメか」

「はぁー。俺も中学入るまでもっと遊びたかったなぁー」

 彼はため息ひとつ吐くと、話題を変えた。

「あ、そっか。来年から中学か。普通に忘れてた」

「本当に大丈夫か? 相原は、どこ中いくの?」

「俺、いや、わ、私? なんも聞かされてないんだよね。まあ別になんでもいっかって。どうにかなるっしょ」

「こんなひょろひょろなのによく言うぜ」

「なにー? いっちょゲームで決着つけるか?」

「やるかー?」

 なんだか、妙に現実感の乏しい日常を送っていた。子供たちと遊び、飽きたら、本やネットで時間を潰した。検診とリハビリを除けば、実に弛緩した毎日だ。そんな日々がだらっと続くかと思っていた時、俺の病室へ新手の二人組がやって来た。壮年を過ぎたあたりの、品のいい夫婦だ。こうやって、白昼堂々病室へ来ていることから、遠い血縁者か何かだろうと察する。


「波南美ちゃん、私たちのこと、覚えているかしら……」

「……いえ、ごめんなさい。何も、覚えていません」

 ありのままの事実だ。この人たちは知らない。

「では、お互い初めましてにしよう。私は橘秀明タチバナヒデアキ。こちらは家内、いや私の奥さんの麗子レイコだ。君の、親戚だよ、波南美ちゃん」

 見た目通り、品のいい良く通るバリトンボイスだ。クラシックなんか歌えそうだと思った。

「初め、まして。波南美です。一応、12歳です」

 いや、親戚なら年齢はいらなかったか。


 どうやら、父方の親戚らしく、より本家筋に近しい間柄だそうだ。まだ幼い息子を交通事故で亡くして以来、ずっと二人で過ごしてきたらしい。そこで、ぜひとも俺を引き取りたいと名乗り出たそうだ。

 そして、明らかに怒気を孕んだ声音で、「身内の恥は身内が雪がねばならない」とも言った。そんなセリフ、現実で聞くとは。いや、俺が波南美になっている状況の方がよっぽど現実離れしている、のか?

 そして、養子縁組も考えているそうだ。完全に戸籍上も実子となる特別養子縁組は難しいが、然るべき手順で迎え入れたいと伝えられた。


 まあ、行くあてもないこの身だ。お言葉に甘えるしかないだろう。なんとこの身の不便なことか。自分からは何ひとつ選べない。しょうがない。予想以上に長引いた入院費など諸々肩代わりしてくれるからには、腹をくくるしかなかった。


 俺は、として橘夫妻に厄介になることが決まった。それは、この住み慣れた街を出ることにもなる。俺が退院できたら、引っ越しや諸手続きを行うそうだ。もしかすると、中学校の入学には間に合わないかもしれないと謝られたが、致し方のないことだ。あまりに麗子さんが申し訳なそうにするので、こちらもしどろもどろしてしまった。

 彼らはあの後も、足繁く病室に訪れた。悪い人たちではなさそうだ。


 そして大晦日、俺が波南美になっておよそ2ヶ月が経とうとしている。自分でも、だんだんと波南美になってきているのを実感する。この体での生活も慣れてきた。簡単な身だしなみや髪の結び方はもう一人でできる。もちろん、日々の生活に必要な排泄や入浴も。実は、最初の頃は自分の限界を知らず、朝起きたらマットが浸水していたこともあった。思い出すだけで顔から火が出る……。ただ、それがきっかけで看護師さんや病院の人々と打ち解けることができたのは、怪我の功名だろうか。

 俺はふとベッドから降り、暖房で結露した窓を拭い、しんしんと降り続ける雪を眺めた。


 この年が明ければ、いよいよ橘波南美としての人生を歩まねばならない。

 とうとう、俺は今まで培った全てのつながりを失う。

 希望は、あの夜。手渡されたメモ一枚。

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