夢でさよなら

 翌日、俺は病院へ行った。どうやら、ナルコレプシーの可能性があるそうだ。ただ、診断のためには睡眠検査室での検査が必要とのことで、一度経過を見たいと検査を断った。念のため、自転車の運転は控えよう。それ以外は基本的にアパートと学校の往復だ。バイトも、シフトを減らしてもらって、キリのいいところで辞めようと思った。


 だが、あれ以来、俺は急に眠ってしまうことが増えた。家でも、学校でも関係なく、眠ればまた『ナナミ』の中にいた。その中で、色々とわかったことがある。


 一つ、時系列は飛び飛びだ。真冬かと思えば、次は初夏だったりした。家の中にカレンダーはなく、体の自由が効かないことも多かったため、明確な時間の経過はわからない。ただ、『ナナミ』の体は少しずつ成長しているようだった。


 二つ、『ナナミ』の母親はすでに他界している。どうやら、母親の他界が原因で父親がアルコール漬けになり、『ナナミ』を性奴隷として扱うようになったようだ。一度、酒に酔ったクソ野郎が、嗚咽を漏らしながら『ナナミ』と母親に謝罪をしてきたことがあった。そのとき、彼女は慈しむように父親を抱きしめていた。


 三つ、『ナナミ』の記憶や感情は一切わからない。ひとつの体に二人が重なっている状態とでもいうのだろうか。ひどい暴行や、容赦無く犯された後などは比較的体の自由が効きやすかった。たぶん、自分を引っ込めて、心を守ろうとしていたに違いない。いつしか、俺が積極的に身代わりになれればとすら思った。


 ただ、そんな生活に安寧はない。いつしか、夢の中で繰り返される惨状にも慣れてきた頃、現実の俺は情緒不安定が続いていた。バイトは、ほぼバックれるように退職し、卒業制作は驚くほど進まなかった。不安と悲しみ、無力感と怒りに支配されそうな頃、俺は簡単に爆発した。


「ねえ、康平くん。ちゃんと検査受けようよ。最近、明らかに変だよ……」

「うるさい……。関係ない。俺は大丈夫だから」

「そんなわけないじゃない! ひどい時は1日に何回も倒れるように眠って、そのくせどんどんやつれてる……。私、心配で」

「うっせえよ! 俺だってまともに寝てえさ! でも普通に眠れねえんだよ! 俺の頭おかしくなってんのか!? おい! 俺は康平だよな!? 俺は……俺は……」

 力任せに遥の肩を掴む。指先が柔らかな体に食い込み、痛みに彼女の表情が曇るが、ふたつの瞳は俺から離れない。

「やっぱり、まともに眠れてないんじゃない……。ねえ、なにが起きてるの?」

「おれ、おれは……」


 俺の頭がおかしくなってしまったと思われるかも知れず、誰にも話さなかった夢の中の出来事を、全て打ち明けた。あまりにもリアルで生々しい体験に、遥は涙すら流した。俺が話をしている間、彼女は一切の否定をしなかった。それだけで救われたような気がする。本当に、この女性と出会えたことに感謝しかなかった。

 しばらくして二人が落ち着くと、遥はゆっくり、諭すように言った。

「康平くんが、どうしてそんな夢を見ているのかはわからないけど、突然寝てしまうのはしっかりと治療した方がいいと思うの。安全なところならいいけれど、もしも道端とかでそんなことになったら大変。ね、そうなる前にしっかり治そうよ」

「そう……だな。行ける時に病院、行こうと思う。付いてきてくれる?」

「当たり前じゃない。一人で行けるつもりなの?」

 久しぶりに、穏やかに笑いあった気がする。

 気がつけば九月が終わっていた。俺が『ナナミ』の夢を見るようになって、一月が経とうとしている。

「康平くんは康平くんだよ。確かにひどいお話だけど、夢は夢。それに、悲しいけど、そんなのはありふれた不幸。こんなの、ニュースを見れば一年中あるし、夢の中の子をかわいそうと思うなら、今現実で悲しんでる子のことを助けてあげたら? 康平くんにそれができる?」

 これは、遥なりの解決方法だ。俺は、どこか楽観的で、あまり物事をはっきりさせないたちがある。そんな時彼女は、俺に変わって問題の切り分けをしてくれる。言い方は厳しめだが、俺のためなのは痛いほどわかった。

「俺には、できそうもないね……」


 その夜、久しぶりに遥とセックスをした。彼女の柔らかな体に、今までの苦悩が溶け出していくように感じる。こんなにも、人の肌に触れるのが心地よいと感じたのは驚きだった。夢の中では、常に不快でしかない。腕の中で喘ぐ遥を、心のそこから愛おしく感じる。だが、どんなに心が癒されても、夢はやってきた。



 ついに、暴行は体の目立たない場所から、顔や頭にも及ぶようになった。今日も、ボコボコに殴られ、ゴミのように犯される。もはや、俺は何も感じない。痛みと不快感だけが空虚に浮かんでいるようだ。

 随分と蒸し暑い。クソ野郎は事が終わった後、横たわる俺を蹴飛ばし、パチンコに出かけた。これでしばらくは帰って来ないだろう。俺は随分と自由が効き始めてきた四肢に力を込め立ち上がった。『ナナミ』はこんな境遇なので、毎日風呂に入ることはできない。今日は運がいい。比較的ましなタオルを掴むと、キッチンの水道で濡らし、身体中を拭いた。もう、この少女の裸体を見ることには慣れた。初めて夢を見た時から、少しは成長しただろうか? 生傷の絶えない、青あざだらけの体を、丁寧に拭きあげる。髪の毛は伸びっぱなしで、まるでホラー映画の幽霊だ。ふと、キッチンから続く玄関に、デジタル時計が置いてあることに気が付いた。日付も表示されている。そこには、8月27日の日付があった。年は今年だ。


 ——1ヶ月とちょっと前?


 そんな、まさか。冷や汗をかきながら、後ずさる。嫌な、べっとりと張り付くような緊張感に襲われた。震える手で服を着ると、ゴミで溢れた部屋に戻った。『ナナミ』に残された、数少ない安心できるスペース。汚れの目立つ布団の側。

 いままで、気づかなかった、段ボール箱の上に一冊のノートが置いてある。小学生向けの自由帳だ。短くなった鉛筆が転がっている。さっき、体を拭いたとき、十分に水を飲んだはずだが、異様に喉が乾く。好奇心は猫を殺すぞ、そう自分に言い聞かせるが、もう止まれない。ノートの前にべたりと座り込むと、覚束ない手で表紙を開いた。


「ごめんなさい、たすけて、ごめんなさい、おかあさんおとうさんごめんなさい、死にたくない」


 ページいっぱいに、下手くそな字で書き殴られている。文章ですらない。文字の下には、小学生らしいイラストが見え隠れしている。紙も、随分劣化していることから、ずっと、同じノートに書き続けてきたのだろう。


 気がつくと、涙が溢れ出していた。


『ごめんな、ナナミ。俺、見ちまった……』

 心の中で謝ると、さらに手がかりを探した。ノートの置かれていた箱を開ける。中には、埃をかぶった赤いランドセルが入っている。喉がカラカラだが、なんとか唾を飲み込み、留め具を外すと、一枚の名札がひらりと落ちた。


「4年1組 相原波南美」


 これが、ナナミの名前だった。

 学校名を見ると、この小学校は大学のすぐ近くに実在する学校だ。


 思わず、ゴミをかき分け、窓に取り付いた。積み重なったゴミで窓は開かず、汚れでよく見えない。なりふり構わない、着ている服で窓ガラスを拭く。わずかに開けた視界から、必死に外の景色を確認する。


 あった。俺の大学だ。

 ここは、学生もよく利用する、安アパートが集まった地区だった。

 俺は、貧血のように視界がフェードアウトするのを感じた。



「ねえお願い! 康平くん落ち着いて! 夢は夢でしょ!?」

「違う! 波南美はマジでいるんだよ! この近くに住んでる! 俺は見たんだよ、全部。4丁目の方だ! もしかしたら、今も、ひどい目にあってるかもしれない……、探さなきゃ、波南美……!」

 俺は、朝目覚めると、着の身着のまま飛び出した。冷たい秋雨が降っていたが、関係ない。波南美に比べれば、この体の方が何倍も頑丈で力強い。いざとなれば、あのクソ野郎を引きずり出してでも助ける。頭に血が上り、冷静さを失っていた。

「康平くん……、お願い……元に戻って……」

 遥はひとり、俺の部屋に取り残された。


 俺は、気が狂ってしまったんだろうか。冷たい雨が頭を冷やしたがしかし、もうすでに波南美のことを他人とは思えなくなっている。数え切れないくらい、彼女の瞳を通してひどい目にあった。あんな、小さい体で、惨めな境遇に耐える波南美のことを考えると、俺はひどく醜悪なものに思えた。人並みの苦労や悩みを抱えて生きてきたつもりだが、なんて幸運に生かされてきたんだろう。ニュースで伝えられる悲惨な事件に胸を痛めた事もあった。だが、あくまで画面越しの出来事。自分には関係ない。当たり前だ。俺が、俺たちが暮らす街の中、いたるところに不幸は潜んでいる。たまたま不幸が自分を選ばなかっただけにすぎない。

 たぶん、俺や遥の考え方は間違ってない。これもまた正解だろう。

 だが、夢の中で、季節は二巡した。俺の暮らす、この狭い街で、薄い壁一枚隔てたような場所で、彼女は苦しんできたはずだった。


 結局俺は、波南美の家を見つけることはできず、雨に体温を奪われただけだった。失意のまま部屋に戻ると、気丈に振る舞う遥が出迎えてくれる。そのまま、浴室へ連れて行かれ、たっぷりの熱いシャワーを浴びた。まだ昼過ぎだが、芯まで冷え切った体はなかなか温まらず、奥歯がガチガチと鳴る。

 だが、こんな苦痛もどこか人ごとに思えた。


「ごめん、遥、眠い。少し寝る」


 たまらずベッドに潜り込む。夢は見なかった。



 ずいぶんと、静かな眠りだった。毛羽立った精神が、穏やかになっているのを感じる。隣からは、ちいさな寝息が聞こえる。遥を起こさないように、静かに時間を確認した。

 AM 1:00

 結構な時間、眠っていたらしい。頭が驚くほど澄んでいる。急に夢を見なくなったことに、小さな喜びと不安を覚えた。しかし、夢を見なかった理由を考えると、もしかしたら、最悪の事態になっているのではないか。

 その時だった。急に波南美の感覚が流れ込んでくる。自分の視界に重なるように、波南美の視界が広がる。彼女は今、一張羅のブラウスに袖を通し、深夜の玄関に佇んでいる。玄関のデジタル時計は、自分の手の中のスマホと全く同じ時間を表示していた。背後からはクソ野郎の汚いいびきが聴こえる。


「おかあさん、おとうさん、ごめんなさい。波南美は悪い子でした」


そう掠れたアルトで呟くと、玄関を静かに開ける。初めてまともに見る外の景色、やっぱり、これは4丁目で間違いない。うっすらと霧雨が降る夜だ、人っ子一人いない。

 ——おい、波南美、どこに行くんだ。

 いてもたってもいられず、スウェットとTシャツのまま部屋を飛び出した。これも、本日2回目だ。俺は、一体何をしているんだろう。


 しばらく走るが、今も視覚は共有されたままだ。どうやら、今いる丘の下に向かっているようだ。そこには大きなバイパスが通っている。そのバイパスは、深夜でも多くの大型トラックが制限速度を超えて走っている。身を投げるには、うってつけの場所だろう。

 頼む、早まらないでくれ。ただひたすら、波南美のことを救いたい一心で、俺は坂道を駆け下りた。完全に後先のことは頭にない。

 バイパス沿いの広い歩道に出る。橙色の街灯がぼんやりと照らす道を、時折すごい勢いで大型車が駆け抜けて行く。どこだ、どこにいる? 途切れがちになってきた視界を頼りに走る。日頃の運動不足が祟り、喉から血の味がした。足腰が限界を訴える。馬鹿野郎、てめえこんな時に甘えてんじゃねえ。もっと速く走れよバカ。

 ふと、重なり合った視界に、共通の物体が映った。黄色いハンバーガーチェーンの看板。


 いた! あそこだ!!


 まだ随分と遠いが、こんな時間に、一人佇む少女が見える。少女は、手頃な車が通るのを待っているのだろうか、道の果てを見つめている。そこへ、強烈なヘッドライトの光芒が霧雨を貫き現れた。


 少女の足が、ゆっくりと動き出す。

 

 頼む、お願いだ、間に合ってくれ。


 俺は生まれて初めて全力で駆け抜けた。靴は脱げ、硬く握り締めすぎた拳からは血が流れている。あと、すこし。


 俺は、小さな波南美を突き飛ばした。




 目がさめると、白い天井。清潔な寝具に、消毒液のような、病院の匂い。

 ああ、よかった、生きている。

 病的に白くやせ細った、小さい左腕には点滴が繋がっている。

 また、波南美になっていた。まあ、いいか。ここ1ヶ月、定期的にこの子の体に入っていたんだ。なんの驚きもない。俺は、初めて死ぬ気でやり遂げたことを誇らしく思うと、もう一眠りしようと思った。この体で、初めて感じる柔らかな布団。まるで、包まれるようだ。あっというまに、眠りに落ちて行く。


 


 窓から差し込む光で目が覚めた。寝る前に見たのと同じ天井。

 なにかおかしい。首を回して周囲を確認するすると、何もかも同じだ。白を基調に、清潔感溢れる病室。ベッドの手すりや壁の一部には明るい色の木材が使われ、冷たい印象にならないようにしている。

 いや、そんなことは問題じゃない。俺は、俺の体は、波南美のままだ。いつもは気を失うか、眠りにつくと元に戻っていた。さっきまで、たっぷりと眠った実感がある。右腕を伸ばし、手を握ったり、開いたりする。手のひらとヒジには擦り傷があった。突き飛ばした時にできた傷だろう。

 しかし、何かが違う。いつもは、どんなに自由でも、ここまではっきりとした感覚はない。動作もコンマ何秒か遅れる感じだ。だが、いまは全て自然に動く。布団を撫でると、細かい生地の質感が伝わる。

 最悪なケースを想像し、パニックに陥る。小さく細い喉からは、うまく声が出ない。

「い……、いったい、何が? お、俺は、波南美のまま……。そんな、ま、まさか」

 そんなとき、病室のドアがスライドして開いた。ガバリとそちらを見ると、驚きと安堵の表情を浮かべた看護師の女性と目があった。彼女はさっと振り返ると、同僚に託ける。

「波南美ちゃん、目が覚めたみたい、先生に伝えてきて」

 もう一度、俺と目があう。

「おはよう波南美ちゃん。気分はどう?」


 俺は、波南美になっていた。

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