かげおくりの君へ

ふえるわかめ16グラム

夢で逢えたら

 俺は永瀬康平ナガセコウヘイだった。


 そこそこ普通の家に次男として生まれ、公立の学校に高校まで通った。小学校低学年までは活発だったが、中学年から漫画や読書にハマり、悪い影響を受けた。少し早めの厨二病だ。そのまま進学した中学校のことはあまり思い出したくない。イケてない奴代表だった。自分の学力で何ら問題のない高校に入学すると、今までのことは断ち切り、部活に精を出した。初心者で入部した吹奏楽部で、パーカッションを担当し、高校三年の夏まで切磋琢磨した。そのなかで、親友と呼べるほどの仲間もできた。


 そして、俺は隣県随一の総合大学へ進学した。念願の一人暮らしをはじめ、サークル活動やアルバイト、学業へそこそこ真面目に、不真面目に向き合った。充実した四年間だったと思う。この大学の地元では、まあまあ名の知れた広告代理店のデザイナー職に、運良く内定が出た。それに、三年生から付き合っている恋人もいる。


 渡辺遥ワタナベハルカ。実家から大学へ通っている。彼女とはゼミで知り合った。特別美人であったり、アイドル並みの容姿を持つわけではないが、よく気がつき、利発で、愛嬌のある人だ。現実的で鋭い視点も持ち、なあなあで済ませてしまうことの多い俺をよく是正してくれている。これまでの関係も十分良好で、このまま、将来の約束だってできそうに感じている。あと尻がでかい。ポイント二倍。


 そんな、これまでの人生を、なんだかんだよかったのではないかと、頭でっかちに自惚れていた大学四年生の九月。残り少なくなった大学生活や、進捗の怪しい卒業制作、衰える気配を知らない酷暑に頭を抱えていたころ。

 ある夜、家で制作を進め、そろそろ明日に障る時間だと思い就寝したとき。

 俺は夢を見た。



 ——なんだ? 腰と腹にドンドンと衝撃を感じる。

 視界が澄んでいる。おかしい、俺は両目共に眼鏡やコンタクトがないとまともに見えないはずだ。それに、なんだか体がうまく動かない。さらに、こんな板張りの天井は知らなかった。昼下がりなのか、部屋の中にさす光は強く短い。

 どうやら、俺は知らない部屋で、仰向けになっている。背中には薄い布団の感覚がある。あと、後頭部を引っ張られるような感じ。いや、体全体が前後に揺すぶられている?

 やっぱり、体の反応が鈍い。まるで、うまく繋がっていないコントローラーで操作するラジコンのようだ。思ったように動かなかったり、動きすぎたりする。

 そうだ、この感じ、夢でよく見る。これは自分だとわかっているのにうまく動けない感じ。そうか夢か。俺は安心してさらに周りを見渡した。だが、それは間違いだったのかも知れない。


『は? なんだこれ、俺じゃない?』


 さっきから続いている衝撃の方を見ると、そこには中年太りの汚いオッサンが、俺に腰を打ち付けていた。強いアルコールの臭いがする。

 俺は、開いた足を両腕で固定され、いいように嬲られている。訳がわからない。顎を引き、なるべく自分を見ようとした。すると、膨らみかけの胸が、薄汚れたタンクトップに包まれている。下には何も穿いていない。穿いていないどころか、アレがない。いや、アレがないどころじゃない。オッサンが俺に挿れている……。


 ——なんて悪趣味な夢だ!!


 いや違う! 俺はこんな趣味なんて持ってない! それにどう考えても子供の身体だ。下の毛だってまだ生えていないように見える。しかも、それが自分役とは。悪趣味にも程がある。


「オラッ! ナナミ!! ボサッとしてんじゃねえ!」

 オッサンが涎を飛ばしながら叫ぶと、俺の腹を殴りつけた。

「んぐぅう!?」

 ……嘘だろ? 滅茶苦茶痛え! 今までどこか遠くにあった感覚が、急にやってきた。

「オラッ! オラッ!」

 執拗に俺の腹を殴り続ける。殴られるたび、痛みが強くなっていく。なんだこれ、頼む、夢なら覚めてほしい。だんだん、自分の中へ、無遠慮に出入りするオッサンのアレが存在感を増している。これ、終わるのか?

「ごめんなさい! ごめんなさいお父さん! 波南美が悪い子でごめんなさい!」

 俺の口が、俺の知らない声で勝手に叫ぶ。体の割には掠れたアルトが響く。

 ちょっと待てよ、これ、いよいよ俺じゃない。このオッサン、今俺を『ナナミ』って呼んだ。そして、俺は、こいつを『お父さん』と呼んだ。


 吐き気がした。あまりのおぞましさに全身が粟立つ。このクソ野郎、実の娘に手を出してるのか?


「ンッグゥう……」


 クソ野郎が一際強く腰を打ち付けると、情けない声をあげ、絶頂した。俺の中で、アレが一度膨らみ、何かを吐き出すように何度か脈打っている。

 アルコール臭い呼吸が落ち着くと、クソ野郎は俺の体を投げ出すように離れた。

「クソッ、ちゃんと片付けろよ! クソックソッ」

 呆然と眺めていると、癇癪を起こしながら、大した処理もせず下着とズボンを履くと、どかどかと部屋を後にした。若干の後、古くなったドアのダンパーが軋む音がした。どうやら外に出たらしい。


 俺は、未だおさまらない鳥肌を鎮めるように、左手で右の肩をさすった。なんて細い、未熟な四肢だろう。肌は病的に白く、強く握れば折れそうなほど線が細い。殴られ痛む腹を気遣いながら、なんとか体を起こす。なにやら、様々な染みがついた煎餅布団の上にぺたりと座り込んだ。

 すると、下腹部の奥、なにかが内側を伝う感覚がした。


「うっそ、だろ……」


 今度は、俺の知らない声で、俺の言葉が出た。恐る恐る、自分の股間に手を伸ばす。こういう時だけ思い通りになる体が恨めしい。

 今までの自分にはなかった穴から、吐き出された精液が滴っていた。


 そこから、世界が暗転した。



「うわああ!!」

 俺は、自分の体で飛び起きた。全身から脂汗を吹き出し、総毛立っている。鮮烈な朝日がカーテンの隙間から溢れる、いつもの部屋だ。俺は何度か部屋中をぐるぐる見渡すと、ようやく目が覚めたことを実感し、安堵のため息をついた。

「うーわ、ひっでー夢見たわ……。最悪……」

 ちゃんと自分の声が出ることを確かめるように呟く。額の汗を拭うと、そのまま手を見つめる。

 大丈夫だ。ちゃんと俺の手だ。だいぶ薄くなったがスティックだこもある。本当に、死ぬほどリアルで胸糞悪い夢だった。まだ、腹の痛みやあの感覚が明確に思い出せた。



「うーすお疲れー」

「おつー。どしたの、コウヘイちゃん、寝不足?」

「いや、別に、なーんでもねえ」

「ほーん。進捗どうよ?」

「進捗は、ダメです」

「わっはっは」


 俺はいつも通り研究室へ顔を出す。卒業制作をだらだらやっているが、実はあと4ヶ月ほどで提出期限だ。要綱の提出や作品集などを考えると、予想以上に時間がない。そろそろ本腰を入れなければと思った。また、ずっと続けてきた書店員のバイトも、そろそろ潮時かと思う。思えば、最初から最後まで同じ職場でバイトができて幸運だった。無駄に長くいたせいか、新人バイトの教育なども全部回ってきたが、就活中のシフトを融通してくれたこともある。愛着のある場所だった。

 今日は、通常の講義はなく、一日中研究室にこもりっぱなしだった。

 作業中のデータを一度保存すると、壁掛け時計を眺めた。ピント機能が凝り固まった目が、ワンテンポ遅れて時計の針を捉える。やばい。バイトの時間だ。今日は自転車できているから、時間には間に合うだろう。思ったより作業に集中していたらしい。

「やっべ。バイトの時間忘れるとこだった」

「うぃー。今日戻ってくんの?」

「俺お前ほどやばくないから泊まりはないわー」

「くそーなんもいえねー」

「じゃあな、がんばれよ」

「グッバーイ」

 同じ研究室の学友と終始気の抜けたコミュニケーションをとり、研究室を後にした。駐輪場まで少し急いだ方がいいかもしれない。


 今日は幸いにもそんなに忙しくないシフトだった。変なクレーマーもなく、平穏に時間は過ぎていく。これなら、シフト通りに上がれるだろう。今日は遥が近くに用事があるというので、この後夕食にいく予定だった。

「永瀬くーん、ごめん、これだけ運んでもらっていいかな」

 職場の社員さんが俺に声をかけた。なかなか重そうなダンボールが足元にある。

「これなんだけど、裏に持っていける? これ終わったら上がりでいいよ」

「マジすか。了解でーす」

 早上がりさせてくれるとなれば話は別だ。試しにダンボールを掴んでみると、確かに重い。だが、問題なく持っていけそうだ。

「場所どうしますか?」

「テーブルの脇にお願い」

「了解っす」

 さっさと運んで退勤してしまおう。荷物は重いが心は軽い。制服から着替えて遥を待つ余裕がありそうだ。

「ふぁあぁ。クソネミ」

 生あくびがでる。大学生は特に何もなくとも眠いなど言いがちだ。俺もご多分に漏れずそうだった。いや、実際少し眠い。俺はそんなくだらないことを考えながら、うまいことバックヤードのドアを開け、頼まれごとを遂行しようとした。

 そのとき、フッと全身から力が抜けた。抱えていた荷物をブチまけながら俺は倒れ込む。映画のエンドロールの導入のように、視界が暗くなった。



 最悪だった。1日に二度、夢の中で犯された。一度目ですら、金輪際勘弁願いたい内容だったが。

 夢の中で俺は、『ナナミ』と呼ばれた少女の中にいた。季節は真冬だろうか。着古されてペラペラになったフリースだけが防寒着で、暖房の効いた部屋には入れてもらえなかった。今朝よりはっきりした感覚があったが、体は一切自由に動かない。『ナナミ』は、クソ野郎の相手をするときだけ暖かな部屋へ迎え入れられる。地獄のような行為が終わると、菓子パンだけの粗末な食事にありつけた。そのあとは、安アパートの狭っくるしいゴミだらけの部屋の隅、中綿の潰れきった布団で丸くなって寒さに耐えた。

 なんておぞましい夢だろう。妙にリアルで生々しい夢を、この俺が作り上げたと思うと自己嫌悪に陥った。俺は、この夢の間、『ナナミ』と感覚だけを共有した状態で、すべてを傍観するしかなかった。



 俺は、薄暗い部屋で目を覚ます。疲労感がひどい。もっと、泥のように眠ってしまいたい。あしたは、バイトのシフトもないし、研究室も、めんどくさいしいいか。

 そう思い、寝返りを打つと、真横で恋人の遥が横になっていた。

「康平くん、起きたの?」

 脳ミソが覚醒する。そうだ、俺はバイト先で急に倒れて……。

「は、遥……、俺、どうしてベッドに……」

「もう大丈夫? どこも悪くない?」

「あ、あぁ。全然大丈夫……」

「康平くんね、バイト先で急に倒れたの覚えてる? 同僚の子が、たぶん眠ってるだけだっていうから、タクシーで帰ってきたの。明日、ちゃんと病院で診てもらおうね」

「わかった。わかった……。俺は、大丈夫。ごめんね、心配かけて……」

 さっきまでの夢も、全て思い出した。あまりの境遇の違いに、頭がぐわんぐわんする。横になっているのに、無限に落ち続けるような感覚。思わず握りしめていた拳を、深呼吸に合わせてゆっくり解いていく。そう、俺は『コウヘイ』だ。大丈夫。


「ねえ、どうして泣いてるの……?」

「えっ?」


 俺の目は、静かに涙を流していた。

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