第4話 顧問医師

 意識を取り戻すとともに、うっすらと目を開いた俺の視界にまず映ったのは、白い天井だった。

 どうやら先程まで模擬戦をやっていた地下2階の訓練室とは別の場所らしい。

 そして後頭部と背中を包み込むような柔らかな感触。ベッドに寝かされているようだ。

 起き上がろうと身体に力を入れるが、途端に背中に痛みが走った。思わず俺が呻き声を零すと。


「おや、目が覚めたか。どうだ少年、調子のほどは」


 同じ室内にいたらしい、お年を召した女性の声が俺へと投げかけられた。

 声の聞こえた方向に顔を向けると果たして、白髪が目立つ妙齢の、白衣を着た女性が俺のことを見ている。

 目を何度か瞬かせた俺は、自分が医務室まで運び込まれて寝かされている現実を、ようやく認識した。


「大丈夫……とは言えないっすけど、まぁなんとか」

「ふっ、それならいい。背中はまだ痛むか……全く竜三のやつめ、引退しても相変わらず手加減というものを知らん」


 座っていたオフィスチェアから立ち上がって、こちらに歩いて来る白衣の女性。胸元に付けられたネームプレートには「吾妻」と書かれている。


「吾妻……?」

「そう、吾妻あがつま 泉那せんな。ここの顧問医師を務めている。ま、先生とでも呼んどくれ」


 そう話しながら俺の上半身に手をかけて、起こすのを補助し始める吾妻先生。俺は目を見開いたまま、先生に身体の下に手を差し込まれながらその顔をまじまじと見つめていた。

 白髪が多く混じっているが、ボブカットに切り揃えられた髪型。仄かに漂うタバコの香り。しわやほうれい線が走りながらも際立つ、きりりとした目鼻立ち。

 俺は思わず吾妻先生の手を借りないままに、がばっと自力で身を起こしていた。ビシッと背中に痛みが走るがそれどころではない。


「えっ、あのっ、吾妻先生って、あの『死なずの泉』の!?」

「おや、二十そこらの若者からその呼び名が出てくるとはね。大概は吾妻という名字に驚くものなんだが」


 突然起き上がって大声を上げる俺の姿に、驚いた吾妻先生が目を見開いていた。

 まぁそうだろう、先程まで臥せっていた怪我人が、自分の名前から古い・・二つ名を口にしながら起き上がったら。

 吾妻家は日本の符術士の家柄で最も権力のある家だから、そちらに反応する人間が多いのも、当然の話ではある。

 だが、吾妻先生の手を取り、両手でぐっと握りながら口を開く俺は、今思うとまさしく喜色満面といった具合だったろう。


「あのっ、お久しぶりです吾妻先生! 俺、交野元規です! 十四年前のあの時は母がお世話になりました!」

「交野……あーあーあー、2004年の夏だろ、大泉学園であれが出た時の!

 その時の坊ちゃんかぁ、大きくなったもんだねぇ、お母さんはまだ元気にしてるかい?」


 記憶の海から情報を引き出すことに成功したらしい吾妻先生の表情が、ぱぁっと明るくなった。

 そう、俺と吾妻先生は、十四年前、俺がまだ五歳だった頃に、一度会ったことがある。

 今でも覚えている。2004年7月22日。練馬区の西側、大泉学園駅のあたりに実家がある俺は、あの日母と一緒に駅前に出かけたところで、襲撃を仕掛けてきた大型獣型の魔物の群れに出くわしたのだ。

 「2004年7月大泉学園駅前事案」として今でも記録に残っており、新聞やテレビでも大々的に報じられたことのある事件の現場に、俺と母はいた。

 俺を庇って魔物に攻撃され、命が危ぶまれていた母を魔物から助けてくれたのが、今目の前にいる吾妻泉那その人。

 「死なずの泉」の二つ名を持つ、一流の治癒術師だった吾妻先生だ。

 吾妻先生が助けてくれたおかげで、母は今でも五体満足で健康に暮らしている。深度一の魔素症に苦しんだ時期もあったが、今は完全に健康体だ。


「はいっ、今でもピンピンしていて、魔素症の後遺症も無く元気です!」

「そりゃあよかった。大事にしてやんなよ、折角あの時拾った命だ。しかし……これもまた縁なのかねぇ」


 嬉しそうに目を細める吾妻先生。その切れ長の目を細めたままで、懐から一枚の護符を取り出した。

 和紙製の、名刺程度のサイズをした、記号と漢字と何やらごちゃごちゃした文字が描かれている護符。右端には竜の頭部を模したロゴマーク。

 今俺がいるここ、護符工房アルテスタの製品だ。

 先生は護符を細長い針で突き刺すと、その針を俺の背中の方に持ってきた。

 びくりと身体が強張るが、すぐに緊張を解く俺だ。針を通して護符の効果を体内に流す手法は、既に治療法として一般的なものになっている。


「流すよ、ちょいとちくっとするが、耐えておくれ」

「……お願いします」


 吾妻先生の言葉に俺が頷くと、服の上から俺の背中の真ん中に、先生が細い針を突き刺す。痛むツボを外してくれたおかげか、刺さった感触はあるが痛みはない。

 そのまま針の頭に指先を当てた吾妻先生が、小さく唱えた。


生々流転せいせいるてん癒合快快ゆごうかいかい


 発動詠唱と同時に、俺の体内に針を通して力が流れ込んでくるのが分かった。

 流れ込んだ力は俺の背中の筋肉の損傷を治し、背骨に与えられた打撃のダメージを散らしてやわらげ、皮膚にできた傷を塞いでいく。

 やがて一分もしないうちに術は終了し、吾妻先生の手で身体に刺さった針は静かに抜かれた。


「終わったよ、調子はどうだい」

「すげー……もう全然痛くないっす! さすが吾妻先生、普通の治癒術師だったらもっと時間かかるのに」


 ぐっと身体を反らしたり、ねじったりしても一切痛みを生じない様子に、俺は心の底から感動した。

 普通のお医者さんにかかって治癒してもらうと、大概2分や3分は術をかけっぱなしなのだ。それが吾妻先生は半分以下の時間で終わらせてしまっている。

 さすが、「死なずの泉」の二つ名を持っていた過去は伊達ではない。

 瞳をキラキラさせる俺を見て、吾妻先生は小さく肩をすくめた。


「あたしの力を褒めるより、いい護符を作ってくれたここの開発課を褒めとくれ。

 アルテスタの開発課は優秀な職人揃い、彼らの作る護符は使い勝手こそクセがあるが、使いこなせれば非常に強い……

 おかげであたしも仕事が捗るってもんだ。交野少年も試験課なら、幾度となく世話になることだろう」

「え……なんで俺が、試験課で入社するって」


 首を傾げる俺だったが、吾妻先生はさも当然のことを言うかのように、親指をくいと動かしてみせた。その指先が向くのは、床下。


「竜三がこの下の訓練室に出向いて直接稽古をつける社員と言ったら、十中八九試験課の社員だからね。

 おまけにあいつが本気の一片を見せるくらいの新人だ、そこまでするとなったら自ずと分かるってものだが……いやぁそうか。

 噂に聞いていた『グレード4キャリア・・・・・・・・・』の新人ってのは、交野少年のことだったか」

「まぁ、はい……ってか噂になってたんっすね、俺の『耐性・・』の話は」


 顎をしゃくりながら視線を投げてくる吾妻先生。頭を掻く俺だが、別にそこに言及されるのは今に始まったことではないから、慣れたものだ。


 魔素症は、魔物の体液や血液が身体に付着したり、傷口や粘膜から吸収されることによって発症する。

 魔物が出現するようになってから七十年余りが経過してからというもの、現代の日本人は結構頻繁に魔素に晒されているとはいえ、まだまだ危険な物質であることには変わりがない。深度零の魔素症が風邪扱いされていてもだ。

 この魔素に対する耐性を持つ人間を、「キャリア」と呼ぶのだ。

 魔素による精神の変質を防ぎ、たとえ魔物になっても人間でい続けられるグレード1キャリアは、それこそ数百人に一人単位で存在するくらいにありふれているが。

 魔素症の一切をはねのけるグレード4キャリアは、世界全体を探しても一万人いるかどうかのレベルである。

 そして俺は、その数少ないグレード4。どれだけ魔素を取り込んでも、肉体の変質も精神の変質も起こさない特異体質持ちというわけだ。攻撃されれば怪我はするし、殺されれば勿論死ぬけれど。

 勿論、健康診断書にも耐性の話はバッチリ書かれている。おかげで就活中、書類選考は大概通過できていた。二次選考で落とされることがめっちゃ多かっただけで。


 ともあれ。すっかり体調が万全になった俺はベッドからゆっくり起き上がった。訓練用のツナギを着たままだし、荷物はロッカーに入れたままだから、返しつつ回収に行かないといけない。


「ん、もう大丈夫そうっす。ありがとうございます!」

「着替えて荷物を取ってきたら一階に上がっておいで、社内を案内してあげよう」


 立ち上がって頭を下げる俺に対し、ひらりと手を振った吾妻先生が、いつの間にやら口にくわえていたタバコに火をつける。

 ふわりと漂う煙の向こうで、先生の口角がぐっと持ち上がった。

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