第23話 閾値突破
「閾値……?」
聞き慣れない単語に、俺が思わずおうむ返しをしてしまうと、こちらに視線を向けた吾妻先生が小さく笑みを零した。
いや、本当は聞き覚えがないこともない。昨夜に牟礼さんがちらと零していた記憶はある。しかし、それが何なのかは未だに分からないままだ。
内心で感情がぐるぐるしている俺に、吾妻先生がゆっくりと話しかけてくる。
「
「じゃあ、レイラさんもその数値が閾値を超えるか、近づくかしたから、あんなことに……?」
昨日に話しながら尻尾やら耳やら出していたレイラさんを思い出しながら聞き返すと、先生はこくりと頷いた。
魔素値とは簡単に言えば、人間の体内に蓄積された魔素による、肉体への影響度を表す値だ。
吾妻先生によると、レイラさんも閾値を超えないところでしばらく持ちこたえていたのだが、ここ数ヶ月で急激に魔素値が上昇、閾値を超えるところまで行ったとのこと。
それ故にあれだけ魔物として違和感のない身体になり、自力で魔物に変身できるようになり、気を抜くと耳や尻尾が出てしまうようになったのだそうだ。
と、そこまで話を聞いた標さんが、眉根を寄せながらブラッドドッグの牟礼さんの方に目を向けた。
「魔素値が閾値を超える……って、そんな、そう易々と超えるもののはずがないじゃないですか? それに牟礼さんが戦闘時に、
訝しむ標さんの視線を受けて、牟礼さんはついと視線を逸らした。
それはそうだろう、戦闘でもない、日常生活の中で
言い出しにくそうな表情をしている牟礼さんの後頭部に視線を投げながら、吾妻先生が腕組みしつつ口を開く。
「見たことが無いのも当然さ。戦闘で使ってないんだから。牟礼君は人知れずにそれを使っていた。毎日のようにね」
「な……」
毎日、に力を籠めて話す吾妻先生。その言葉を聞いた標さんが信じられないと言いたげにぽかんと口を開いた。
当然だ。継続して意図的に魔素値を上げ続けたらどうなるか、職業符術士なら誰だって知っている。
疑似的に魔素症を発症させ続けていたら本当に魔素症に罹ってしまう、疑似魔素症の深度が深ければ本当に罹った時の深度も深い。常識だ。
特に
牟礼さんのするように、戦闘外で日常的に使用する使い方など、本来は想定されていないのだ。
四十万社長がため息をつきながら、サングラスのブリッジを押し上げた。
「……牟礼考志は六年前にも閾値を超えた。それが元で深度四の魔素症も発症した。
それ以来、閾値を超えては戻し、超えては戻しを繰り返して、なんとか踏みとどまってきたわけだが……昨日一昨日でまた大きく超えたな?」
「……ハイ。昨日ノ夜ニ超エテ、ぶらっどどっぐニナッタママ戻レナクナリ、今朝モソノママデ……」
サングラスの奥から厳しい視線を向けてくる社長に、その大きな頭を項垂れて前脚をきちんと揃える牟礼さんだ。こうしていると犬が飼い主に怒られているようだが、怒られている犬は大型犬を上回る体格の魔物である。
そんな中で、俺はおずおずと社長に声をかけた。
「閾値を超える時とか、超えそうな時とかって、自分で分かるもんなんっすか? 俺、
そう、疑問を投げかけると、社長は俺にちらと視線を向けてそのまま頷いた。
「分かるように作っている。これ以上使い続けたらまずい、ということが体感で分からないと、商品としても差しさわりがあるからな。
レイラ用にデザインした大猫の
「う……うっす」
キッパリと告げてくる社長に気圧されながら、俺は返事を返した。
つまり帰ったら早速、俺はギガントキャットになることを強いられるわけだ。楽しみな半面、ちょっと怖い。
俺が冷や汗をかいている横で、吾妻先生が牟礼さんの顔を両手で挟むようにしながら、静かな口調で話しかけていた。
「さーて……牟礼君。もう自分でも分かっているよね?」
「……ハイ」
先生の言葉を受けて、視線をしゅんと落とす牟礼さん。
ふと、その場にいる面々の視線が二人に集まる。牟礼さんの子供たちも大人しくしながらそちらを見る。
そして。
「
無情な一言が、吾妻先生の口から告げられた。
「えっ……」
「吾妻先生、それってどういう……」
先生の言葉に、思わず言葉を漏らした俺と標さんだ。
牟礼さんの顔を手で挟み込んだままの吾妻先生の視線が、俺たち二人の方に向く。その表情に、俺はどことなくやりきれないものを感じた。
「さっき竜三が、閾値を超えては戻しを繰り返していた話をしただろう? その魔素値が、閾値を超えたまま戻らない段階まで来ているんだよ。
元々九割がた魔物の身体ではあったけれど、これからは正真正銘、魔物の姿で、魔物として生きていくしかない。ま、牟礼君自身はそこまで大きく生活が変わることは無いだろうけど、苦労は増えるよ」
牟礼さんの顔から手を放した吾妻先生によると、
その値は本来ならば時間経過とともに減少するが、牟礼さんは魔素を医師の管理のもとで投与したり、護符なしでも魔物の姿に変身できるようになったりしている。結果、魔素値がなかなか下がらないのだ。
いつの間にか、牟礼さんの周囲は彼の子供たちのブラッドドッグで囲まれていた。すっかり、本当の魔物になってしまった自分の父親にすり寄って、悲し気に鳴いている。
俺はきゅっと、胸が締め付けられるような思いがした。
「そんな……牟礼さん……」
「コゾウ、オ前ガ気ニスルコトジャナイ。遅カレ早カレ、コノ時ハ来ルモノダッタンダ。ソレガ今日、来タダケノコトダ」
「パパ……」
思わず声を零した俺に、平静な表情をした牟礼さんが首を回して俺の方に目を向けた。
牟礼さんの赤い目と、俺の目が正面から合う。
それに一瞬どきりとして身を強張らせると、すぐに牟礼さんは足元に寄って心配そうに見上げてくる自分の子供たちに顔を寄せていた。
子供たちも、父親が心配そうにしているのを見るのは嫌なようで、しきりにパパ、パパ、と呟きながら牟礼さんの前脚に身体を擦り付けていた。
そんな親子の姿を見ながら、標さんが目尻を下げつつ口を開く。
「でも……ブラッドドッグの姿で戦闘できるのはさっき見たばかりですけれど、試験業務は出来ないんじゃないですか? 護符が使えないですし……」
「ん、標君の言う通り。だから私の方で人化処置の手配もしておくさ。出来る仕事をさせるにしても、この手じゃ書類もパソコンも扱えないからね」
「そうかー、人化処置も必要になるんっすね……俺、そういうケース初めてっす……」
吾妻先生の言葉に、感嘆するような息を吐く俺だ。
深度三や深度四の魔素症患者や魔物で、地球上で人間と一緒に生活していくのにその肉体構造が障害になる者に関しては、本人の希望と医師の監督のもと、いくらか人間に寄せた肉体を構築する「人化」という処置を行うことが許可されている。
魔獣種は獣人になり、竜種は竜人になって肉体の大きさも小さくし、巨鳥種は鳥人になって腕を得る、などなど。
そうして人間社会に適した肉体を得て、自分で金銭を稼げるようになれれば、社会にも居場所が出来る。受け入れられる下地が出来るというわけだ。
牟礼さんもしばらくしたら獣人の肉体を手に入れ、人間の身体を持っていたこれまでと同様、試験課の業務に従事できるようになるだろう。
「そうだ。今までは牟礼考志がギリギリで人間の姿に踏みとどまっていたから、人間として業務に従事させていた。それが魔物の側から戻ってこれなくなったのなら、魔物として業務に従事させるだけのことだ」
四十万社長が眉間に皺を寄せながら、きっぱりと言った。
人間として働けるならそのまま人間として。魔物でも働けるなら魔物として。そうしてアルテスタの業務は動いているし、社長はそうやって動かしている。
だから社長は、牟礼さんがこんなになってもその身を案じ、工房に取って有益な人物だからと仕事を与えるのだ。
腕を抱くようにして、背筋を伸ばす俺である。
「『魔物にはなっても死んでくれるな』ってやつっすね……」
「え、なに交野君、社長からそんなこと言われてたの? 怖いな」
俺の零した、最終面接のときに社長から言われた言葉を聞いた標さんが、ぎょっとした表情で俺を見る。
小さく頷いた俺は、そのまま視線を社長の方へと向けた。サングラスに隠れた社長の目を、じっと見つめる。
「今なら分かるっす。グレード4キャリアの俺になんでそんなことを言ったのか……牟礼さんの例があるからだったんっすね。キャリアでも魔物になることがあるって」
牟礼さんもキャリア。だがこうして深度四の魔素症はおろか、心の底から魔物になっていて。グレード4のキャリアだからと言って、安穏としてはいられないのだ。
俺の言葉に目を閉じながら、肩をすくめる社長である。
「やれやれ、もう少しそこに気付くのは遅くしてもらう予定だったんだがな」
「スミマセン、社長……折角、六年間尽力イタダイタノニ」
困ったような、呆れたような声色で零す社長に、牟礼さんがそっと頭を下げる。
だが社長はそれにひらりと手を振り返すと、ぶっきらぼうに言葉を投げた。
「仕方ない、どうせ路夫のこともあるんだ。だが、完全に魔物になったからって腐らせはしねぇぞ。今まで以上に試験課でキリキリ働いてもらうからな、牟礼考志」
「……ハイ」
社長の言葉に、ますます牟礼さんは頭を下げて。その鼻先を自分の前脚に付けるようにしながら首を垂れた。
話がまとまったところで、ようやく緊張を解いた俺も、標さんも、自然と笑みが零れていて。
牟礼さんのもふもふした肩を抱くようにしながら、俺達は揃ってその背中に腕を回した。
「まぁでも、あれっすよね。前々から中身がそうだったんなら、別にこれまでとなんも変わんねーっすよ、牟礼さん」
「外見がどうあれ、牟礼さんは牟礼さんだしねぇ。案外、間渕さんもすんなり受け入れてくれるんじゃないですか?」
「気軽ニ言ッテクレル……ダガ、マァ、ソウダナ」
苦笑するようにうっすらと笑みを零しつつ、牟礼さんが言葉を返してくる。
きっと間渕さんも間渕さんで驚くだろうが、拒絶はしないだろう。ああ見えて動物好きな人だし。
睦まじくしている様を静かに見ていた社長が、くいと手を動かした。時刻は既に午後一時過ぎ、あんまりここでのんびりしているわけにもいかない。
「ひとまず、工房に戻るぞ。処置申請の書類と病院への連絡は泉那にやらせる、いいな」
「分カリマシタ」
「うっす!」
「了解です」
社長の言葉に、それぞれが返事を返して。
無事に緊急出動任務を終わらせた俺達は、工房のある練馬へと帰っていくのだった。
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