第17話 黒犬奇襲
飲み会が終わって、お店を出て。
すっかり酒が回って上機嫌になった課長は、九尾の狐の姿のままでひらりと俺達に手を振った。
「じゃー、皆気を付けて帰ってねー。僕はこのまま病院に戻るからー」
「課長、大丈夫ですか? 病院までお付き添いいたしましょうか」
「大丈夫大丈夫ー、一人で帰れなきゃ、また外出禁止になっちゃうよー。じゃ~ねぇ~」
心配そうに見つめる間渕さんに気の抜けるような間延びした声を返して、九本の尻尾をゆっさゆっさと揺らしながら、課長はこちらに背を向けて店の前から姿を消した。掌の上に狐火も点している。人の目につくことなど、まるでお構いなしである。
俺は呆気にとられた表情をして、同じくぽかんとしたまま前を見つめる間渕さんに声をかけた。
「課長、一人で大丈夫っすかね……?」
「大丈夫……だと、思います。課長はお酒に弱い方ではありませんし、入院されている病院までは一直線に歩けば着きますから」
「いや、そういうことじゃねーんっすが……」
間渕さんの言葉を否定しようにも出来ず、頬を掻く俺だ。
実際、課長は結構飲んでいた。変化が解けた段階でグラスワイン四杯、解けた後もさらに五杯。都合九杯はワインを舐めていた。ワインのフルボトル一本分は、当に超えているのではなかろうか。
それだけの量を二時間で飲んで、いくら病院が近くにあるからと言っても果たして無事でいられるか、という心配事も分かる。とても分かる。
しかし俺の心配しているのはそこではない。課長は
九尾の狐がその姿を晒して街中をほっつき歩いていたら、それこそ大問題だ。脅威度Sまではいかないものの、脅威度Aプラスに位置する魔物である。途中で通報されないとも限らない。
今からでも追いかけて、付き添っていた方がいいのではないか。気を揉む俺の肩を、標さんが優しく叩いた。
「交野君、課長が九尾の姿のまま帰っていって大丈夫か、って心配したんだろう?」
「え、あ……はい」
「分かる分かる、種類が種類だものね。
でも、ああして魔物としての姿を晒したまま街中を行動できるか、というのも深度四の魔素症患者にとっては重要なことなんだ。
深度三の場合も魔物の姿で人目に付くことにはなるんだけど、まだこっちは精神が人だから自制心が働く。でも深度四の場合は精神も魔物になっているから、人間らしい自制心が働かないこともあるんだ」
「あー……中身も魔物っすもんね」
こちらもだいぶ酒が入って、とろんとした目つきになりながらも、標さんは順序立てて分かりやすく説明してくれた。
魔物が人間を襲うのは、人間が魔物を恐れて逃げるから、とよく言われる。地球に生きる野生動物が、逃げる獲物を追いかけるのと理屈は同じだ。
獣人種、賢獣種、人型種の魔物は知性も高く、理性的な面もあるが、魔物らしい本能に欠けているわけではない。獲物と見做した者には容赦なくその力を振るうのが、魔物という生き物だ。
そして、深度四の魔素症に罹患した人間も、例外なくこの本能に支配される。うまく活用すれば大きな力になるし、この本能を手玉に取って大活躍している符術士もいるが、大概は本能の側に振り回されてしまうのがオチだ。
課長もそうだ。九尾の狐という魔物の姿を露わにして、その姿を目にした一般の人が恐れを抱くことまでは間違いがない。その人を、獲物と見做さずにやり過ごせるかどうか。そこまで出来て初めて、人間社会に解放されるのだ。
「カーバンクル種とか、ペットにされるくらい脅威度が低いでしょ? あれってその本能を持っていても、あれを見て逃げるような存在がいないから、なんだよね。
逃げるの、犬か猫か鳥、くらいじゃないかなぁ? 犬に吠えられた程度でもびっくりして逃げていくしね」
「そうっすよねー……街中で出くわしても『可愛い~!』って写真撮られてSNSに上げられるくらいっすもんね……」
先日に新宿でルビーカーバンクルが群れで出現して、SNSが祭りになったことを思い出しながら、俺は締まらない表情で標さんの説明を聞いていた。
さて、標さんの話が一段落ついたところで、既に時刻は夜九時。明日も仕事があることを考えると、あんまりここで長居はしていられない。
間渕さんがぱんと手を叩いた。
「さ、二人とも、そろそろ駅に向かいましょう。それとも二次会で、どこかに行きますか?」
「いや、流石に帰るっす……」
「そうだねぇ、二日酔いで明日仕事に出られませんー、なんてことには出来ないし」
そう話しながら、江古田の駅へと向かおうとした、その時。
店の横に伸びる路地に、俺の視線が向いた。
なにか視線を感じたような気がしてそちらを見ると、何やら影が動いた、ような。
「ん?」
なにかを見たような気がして、思わず足を止めてそちらを見つめる。
気のせいか、とも思ったが、確かにそこには何かがいるように思えて。
路地を覗き込んだまま動かない俺にようやく気付いた間渕さんと標さんが、数メートル先からこちらを振り返った。
「交野さん?」
「どうしたの、交野君」
「いや……なんか、ちょっと」
歯切れの悪い口調で話す俺に、首を傾げる二人。
一瞬視線を落とした俺は、意を決した。首を動かして前方の間渕さんと標さんに頭を下げる。
「すんません、俺、ちょっとトイレ行ってきます。先に帰っててください」
「えっ……?」
「トイレなら、江古田の駅で行けばいいんじゃない?」
「いやすんません、ちょっともう駄目そうなんで……失礼します!」
そう、逃げるように言い残して、俺は先程まで飲食していた肉バルの中に飛び込んだ。
その様子を見て、ますます首を傾げる二人だったが。
「……まぁ、交野さんも子供じゃないんですし、帰りましょう」
「そうだね、どうせ駅で別れるしね」
そう言い残して、二人揃って店の前から離れていったのだった。
数分後。
俺は本当にお店のトイレをお借りして用を足して、店の外に戻ってきた。
トイレに行きたいというのは半分は方便だったが、行きたかったのは事実だった。江古田駅のトイレで行こうと思っていたのが、ちょっと早まっただけである。
そして、間渕さんと標さんがその場にいないことを確認して、俺はふーっと長い息を吐いた。
周囲に人影がないかきょろきょろと見回して、件の路地へと踏み込んでいく。周囲を伺うように、灯りも疎らな路地を一歩一歩進む。
いくら駅から数分程度の距離とはいえ、路地は路地だ。やはり夜は暗くなる。
しばらく進んで、不意にぴたりと足を止めて。
そうして俺はすぐに、背後の空気が文字通り
やはり、先程の違和感は気のせいではなかったようだ。そちらに背を向けたままで、静かに口を開く。
「……いるんでしょ、分かってるっすよ」
答える声は、無い。
だが、一瞬風が凪いだかと思うと。
不意に俺の背中に強い衝撃が走った。そのまま路地に押し倒される。
受け身を取って衝撃を和らげるも、すぐさまに背中の上に
「グルル……!」
俺を見下ろしながら、そのすらりとした前脚で側頭部を踏みつけにしながら、てらてらと月明かりに煌く牙を噛み締めて唸る、一頭の獣。
ブラッドドッグと呼ばれる、魔獣種の魔物だ。脅威度はBマイナス、その牙は容易く生き物の骨を砕き首を
そんな相手に組み敷かれながらも、俺の瞳は力を失っていない。コンクリートに頬を押し付けながら、強い口調で告げた。
「俺に見つかったのが、そんなに腹立たしいっすか……
「……イツ、気付イタ、コゾウ」
低くしゃがれた歪な声で、人語をその口から吐き出すブラッドドッグ。
レイラさんから話を聞いていなければ、きっと気付かなかったこととは思う。このブラッドドッグが、魔物化した牟礼さんだということには。
ぐっと、俺の側頭部に乗せられた前脚に力が籠められる。硬い肉球と爪の先が、俺の頭に押し付けられてきた。
鈍い痛みに顔をしかめながらも、俺の口は止められない。
「おかしいとは思っていたんっす……俺に課長への言伝を頼んだ時から。
牟礼さんは工房が建った時からのメンバー、課長ともその時からの付き合いなのに、課長の快復祝いに顔を出さないのは不自然っす。飲めないならソフトドリンクで徹頭徹尾通すって手もあったはずっす。
それをしないで、会自体に参加しない……体調が悪いって言ってたのは、ただの体調不良じゃないんじゃないかって」
「グルッ……ソレガ、ドウシタ」
唸り声を漏らしながら、俺の首筋に犬の顔を近づけて牟礼さんが低い声で返す。
その地の底から響くような、おどろおどろしい声に恐怖心を煽られながらも、俺は気持ちを強く持って話し続ける。
「牟礼さん、
魔物化を抑えられない、そんな様子を課長に見せるわけにはいかないから、出席を断った。
それでも課長の姿を見たいから江古田まで来た……そうしたら課長が魔物の姿で店から平気な様子で出て来たから、慌ててこの路地に隠れた……違うっすか」
「……」
俺の、決死の問いかけに。
牟礼さんは答えない。答えないままゆっくりと口を開けて、その牙を俺の首筋へと当てた。
口をつぐんだ俺の、牙を当てられた喉がゴクリと鳴る。
そのまま噛み殺されるかと思ったが、牟礼さんは何故かそうしなかった。俺の皮膚を貫く寸前で止めたままで、動かない。
やがて、どれ程の時間が経っただろうか。
牟礼さんの口が開き、俺の喉元から頭が離れていった。同時に俺の頭を踏みつけていた前脚がどけられ、俺の上に跨っていた巨体が俺から離れ。
ようやく重圧から解放された俺が身を起こして後ろの牟礼さんに向き直ると、彼は俺をその爛々と光る赤い眼で見つめていた。しかしその眼に、先程までの激情の色は無い。
「グルルル……コゾウ、貴様、何処マデ知ッテイル」
「……牟礼さんが、七年前の成増での事件に巻き込まれた、ってところまでっす」
喉の奥から響くような唸り声を鳴らしながら問いかける牟礼さんに、俺は静かに答えを返した。本当はもっと深いところまで、細かいところまでレイラさんから聞かされてはいるが、それを正直に答えるわけにもいかない。今度こそ殺される。
その、俺の答えに納得してかしないでか、ブラッドドッグはようやく身体から力を抜いて腰を下ろした。大型犬以上のサイズがあるその魔物は、座った状態でも座った人間を見下ろせるだけの体格がある。なかなかの威圧感だ。
そして、牟礼さんはゆっくりと、俺に深くその大きな頭を下げた。
「……スマナカッタ。コゾウ、少シ話セルカ」
暗い路地裏で、漆黒の身体をした獣は申し訳なさそうに首を垂れる。
闇に溶け込んでいきそうなその姿を見て、俺は頭を前後に振りながら口を開くのだった。
「……いいっすよ」
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